.黒髪の勇者-2-
少女は森の入り口の近くの湖の畔で兄を待っていた。しかし、ふと湖を見ると今まさに湖の中央に進む人影が見えた。遠く、さらに霧が深かったために顔は見えなかったが、少女は急いで引き返すよう呼びかけた。人影は少女に気づいたように振り返ったが、一向に戻ってくる気配がない。はらはらしながら少女は見守っていたが、人影は突如湖の中に沈んでいった。驚いた少女は思わず走りだして湖の中に飛び込んだ。浮かんでくる気配がないため、早く引き上げようと少女は必死に人影が沈んだ場所を目指して泳いだ。
しかし、少女は気づいた。自分の浮かんでいる足元のほうで、ゆっくりと何かが近づいてくるのを。
罠だと思った瞬間、勢いよく少女の足にめがけて何かが近づいた。が、少女は方向転換して岸を目指し泳ぎだしたため、間一髪掠めただけで捕まらなかった。その攻撃で波が立ち、少女は波に流され運よく岸にたどり着いた。
すると、湖から突如として茶色く大きな魔物が姿を現した。魔物は目玉を少女に向けると、人間のようにニヤリと円い口を歪ませた。
「おや?私としたことが。お嬢さんお嬢さん、ありがとう。助けてくれようとしたね?そうだね?助けておくれ、お腹が減ってたまらないんだ。大丈夫恐くないよ?痛くもない。―――――…一瞬だからね?」
少女は魔物の言葉を聞いてゾッとした。魔物が人間の言葉をあんなに流暢に、また意味を理解しているなんて聞いたことがない。状況を理解すると同時に、自分に死が近づいていたのだと実感して身体中に冷たい電気が走ったようだった。少女は振り返ることもせず、がむしゃらに森に入って魔物から逃げた。
そして魔物はニタニタと笑い声をあげて湖から這い出し、少女を追った。
「逃がさない逃がさない、あんな上物久しぶりだぁ。楽しいな楽しみだ、君はどんな味がするのだろうか?クスクスクスクス。」
そうして少女は魔物から逃げ回ることになったのだった。
そして遂に、少女は魔物に追い詰められ、いつ餌食になってもおかしくない状況に陥ってしまった。
「――――――っふっ…ぅう゛――――――!」
低い笑い声が森に響き、少女は恐怖でもう動くこともできなかった。
「大丈夫、泣かないで?一瞬だから、痛くない痛くない…クハハハハ!じゃあね?バイバイ。」
魔物は人形にした足を元に戻して少女の後ろ襟を掴んで持ち上げた。手で振り払おうとするも、ぬるぬると滑って抵抗も無意味だった。どんどん近づく魔物の口を見て、少女は泣き叫んだ。
「―――っやだ!やだやだやだ…いやあああぁっ!お兄ちゃ――――――んっ!!」
スパンッ。
叫び声が木霊したその一瞬、視界の隅から黒い影が飛び込んできた。
それは少女を掴んでいた魔物の足を真っ二つに切り裂き、空中に放り出された少女の体を掴んで自らの体に引き寄せた。そして沼の近くの地面に転げ落ち、少女を庇いながら一回転して止まった。
「………何?なにこれ!?何事!?なんな―――――ギアアアアァッ!?」
魔物も今起きたことが理解できていない、が、斬られた足からは大量の緑色の体液が溢れ、痛いと感じるのか、バタバタグニュグニュと身体を動かしのたうち回った。
「―――――…っ?」
少女は目の前にいるのが人だとはわかっているのだが、顔が押し付けられている状態なので視界が真っ暗だった。ようやく少女を抱いていた人間が体を起こして体勢を整え、少女を体から離す。
「ああ、ごめん。痛かった?」
視界が拓けた少女の瞳が捉えた人物、それはボサボサした黒髪に紺色の眼鏡、黒のコートを纏った人間だった。まだ幼さが残る少年のような顔で少女を見つめている。とてもあの魔物を切ったとは思えない外見で、驚きのあまり言葉が出てこない。
「…聞こえてる?」
返事をしない少女にもう一度問いかけると、ハッとしたように慌てて少女は答えた。
「だっ…いじょーぶ。…です。」
「そう、よかった。じゃ、ちょっと退いててもらえる?」
「へ?」
少女が答える間もなく、グイッと後ろに押されて少女はコテッとしりもちをついた。すると彼女の目の前に先ほど魔物を斬った剣が、緑色の体液をつけたままの状態でスラリと出されて、一瞬で少女の血の気が引いた。反対に剣を出した本人は気にも留めずに魔物に向かって話し始める。
「…―――――やっと見つけた。ずいぶん探したよ。」
どうやらこの魔物をずっと探していたらしい。ジタバタ暴れる魔物はギョロリと目玉を向けてその人物を見回した。斬られた部分からはまだドクドクと体液が流れている。
「ひどいヒドイ酷い…痛いよいたいよ?ねぇ…どうしてくれるんだよおおおおぉ!」
魔物は叫びながら水面をバシバシと叩き水柱を立てた。
「そんなふうに感情を表せるくらい成長したのか…。一体どれだけの人間を食べたんだ?」
その言葉を聞いて魔物はピタッと動きを止めて再び黒髪の人間全体をなめるように見つめた。
「…知ってる?私が人間食べると言葉が増えるの、君知ってるの?アハッ…アハハハハハハハハハハッ!」
突然笑いだした魔物に、座ったままの少女は恐怖を覚えた。なぜなら、魔物の笑い声が低い声から高い声、しゃがれた声、の太い声、かすれた声、子供のような声と、様々な声に変化しているのだ。まるで魔物の中に何人もの人間が入っているみたいに。
「知ってる!知ってる人間いた!アハッ!君運がいいんだぁ?…私としたことが、食べ残してたのねぇー。」
今度は大人の女性の声で薄気味悪い笑いをこぼした。そんな魔物の様子を無言、無表情で見ていたが遂に口を開く。
「運がいいのはお前の方だよ。今まで生き残れて運がよかったな。―――――――だけどそれもここまでだ。」
「―――…フヒッ。何言ってるの?まさか僕を殺すの?お兄ちゃん?やだよ、剣で刺すのは。いたいよぉ?」
小さな子供のような声で魔物は訴えた。だが一切通用しないようだ。
「お前はあの時死んでいたはずなんだ。本当に、よく生きててくれたよ…これで、僕の手で終わらせることができるんだから!」
今まで無表情だったのが、一瞬ざわついた殺気を放った。後ろ姿しか見れない少女も、ピリピリとした空気を感じて思わず息を飲む。
「…あの時…死んでいた?僕が…君が生き残って?………―――――あ、ああああ?もしかして…アハハハハハハ?あぁ……………あの時のガキか。」
いきなり魔物の口調が変わった。魔物も目の前にいる人間に昔会ったことを思い出したらしい。頭をブンブン回して唸ったかと思うと、ニヤリと口を歪めた。
「…………思い出したよ。あの時の子供だったんだね?――――――ラキ。」
瞬間、ブワッと黒髪の人物の辺りに殺気が放たれた。これほどまでに伝わってくる想いがあるのかというほどに。後ろにいる少女も、先ほどまでとは比べられない怒りの空気に鳥肌が立った。逃げたい気持ちもあるが、まだ痛む足のせいで走れそうになかった。




