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ビッチに学ぶ食欲と性欲

ある日の放課後、校庭の登り棒のそばで、私は彼氏の須賀君と竹馬遊びに興じていた。年頃の恋人同士にしては健全すぎる遊びであるが、これがどうして、なかなか面白い。視線の位置が高くなり、全能感が得られるのだ。


「須賀君もこれで私の竹馬の友、いや竹馬の恋人ね」


「語呂が悪いねえ」


軽口を叩きながらも、結構真剣に一歩ずつ進む。須賀君はこの短時間でもうずいぶん上手くなっており、早いペースで私の先を行く。くやしい。


「あら、懐かしいことやってるわね」


「あ、李菜」


間宮李菜。私の母親である。ぴんと背筋を伸ばし、つかつかとそばにやってきた彼女は恐ろしく綺麗に見えた。李菜は服や靴に目がない着道楽だが、今日はとくに気合いの入った格好をしていた。オーダーメイドした紺のスーツに、ルブタンのハイヒール。

これから李菜と、李菜の新しい彼氏と夕食を共にする約束をしている。


「待たせたわね」


「ううん」


私は慎重に竹馬からおりた。


「生活の授業で、昔の遊びを調査中なの。他にもメンコとか、あやとりとか……」


「でも竹馬がいちばん楽しい」


私と須賀君のことばにふうん、あんた達変なところ渋いわね……と頷き、李菜は私の手から竹馬を取った。そして躊躇なく乗る。李菜は15cmのハイヒールを履いているにも関わらず、楽々と乗りこなした。私と須賀君は唖然である。


「どうして……」


「子供の頃すこしやったことがあるわ。コツを掴めば簡単よ。自転車みたいなものだから」


竹馬で軽快にターンしながら、歌うように李菜はいう。


「それじゃあ行きましょ」


「わかった。じゃあ須賀君、また明日。待つの、つきあってくれてありがと」


「うん。また明日」


竹馬を片付け、私たちは手をつないでタクシーに乗った。



よろしくね、と笑った顔はとても胡散臭かった。


李菜は新しい本命の彼氏ができるとき、必ず私に紹介してくれる。李菜の(本命の)男の趣味はとてもまともである。職業や年齢や国籍は様々だけれど、たいてい私の眼鏡にも叶う人だった。

別れ方もうまいから、彼氏という立場でなくなっても友人でいることが多い。そして娘の私とも仲良くなってしまった男もいる。たとえばコーヒーの輸入をしている内山さんとは、いまでもメル友だ。明るくてユーモアがあり、そのうえとんでもなくお金持ちなおじさま。私のたわいない相談にも乗ってくれ、非常に頼りになるのだ。

内山さんは、李菜ともたまに電話で談笑しているようだ。因みに、彼の輸入するコーヒーはほんとうに美味しいので、そのメーカー以外のコーヒーは舌が受け付けなくなってしまい、私たちは結構困っている。


けれど「今日のひと」は今までの男と違った。一目で、このひとはいけすかないと思った。


「君とはどうも合わないようだね」


新宿のホテルの中の、モダンな雰囲気の和食屋さん。

原材料が何だかよくわからないほど凝った盛り付けのお惣菜を食べる手を止め、私は李菜の新しい彼氏をまじまじと見つめた。

男はこちらを見て笑っていた。


「態度が悪いのは、認めます」


「いやいや、子どもらしくていいよ。仕事柄、敵意のこもった目には慣れているし」


どんな仕事だ。そう突っ込みたくなるのをこらえて、私はなかば義務的に料理を口に運んで、その場をやり過ごした。

数刻前、李菜はお手洗いのため席を外した。

つまり、今は李菜の彼氏とふたりきり。

自己紹介の時点でいやな雰囲気だった。李菜はいつも通り飄々としていたけれど、その男もリラックスしたような、余裕の表情を浮かべていて。

私のことを侮るような目であったなら、まだいい。いくらでも鼻を明かしてやれる。

けれど男は最初から私を、面白がるような、それでいて愛おしいものを見るような、そんな目で見ていた。

どうしてそんなふうに見るのだろう。そわそわして、落ち着かない気分だ。こんなの私じゃない、私はあの間宮李菜の娘なのよ。


「そんなことないです。もしかしたらあなたが私のお父さんになるかもしれないでしょう?」


「言うねえ。李菜さんがおれみたいな若造を本気で相手すると思う?」


「思いませんねえ」


私も白々しい笑みを浮かべた。ようやく普段の調子を取り戻せそうだ。


「李菜の相手はもっと大人な方がいいわ。そんなふうに私を試すように見ないひと」


「試されてるのはどちらかというとこっちだけど。せっかくの美味しい料理もちっとも入らない」


そう言いながらも彼は、魚の唐揚げらしきものをかじった。私も負けじと箸を伸ばす。


「……何かしら、これ」


「どじょうの唐揚げだよ。塩で食べるんだ」


「……おいしい」


「揚げるときすごく跳ねるから、酒で酔わせてから衣をつける。家庭じゃなかなかできないね」


「たいへんな下ごしらえね」


さくさくとした食感が、シンプルな味付けをより引き立たせる。私も作ってみたいと思ったが、難しそうだ。

料理は李菜によって小さいときから鍛えられている。男はまず胃袋を掴め、と。それだけの理由ではないけれど。台所に立つのは好きだ。


「食欲、飽くなき欲望よね」


李菜が帰ってきた。私は少なからずほっとする。


「どんなものでも何とかして食べようとする、そういう貪欲さを感じる料理ってあるわよねえ」


「フグとかね。あれだけ毒があるのに」


李菜のことばに男が付け加える。


「李菜、これおいしいよ」


李菜は私に勧められて例の唐揚げを口にいれた。うっすらと桃色に染まっているくちびるの複雑な動きを見つめる。ひとつひとつの何でもない行動が絵になるひとだ。


「あら、ほんとね。いい味。久々に頂いたわ。食欲がそそられるわね」


「食欲と性欲はつながっているんだ」


いきなり何を言い出すのやら。私は顔をしかめて男を見やった。けれど李菜は続きを促す。


「興味深いわね」


「食欲というのは性欲の代替行為だとおれは思う。性欲を満たすことは三大欲求のなかでいちばん尊い行為なんだ」


「性欲が食欲の上にくるの?斬新だわ」


「セックスしなくても生きられるわ。食べ物があれば」


李菜は感心し、私はむきになって反論する。


「まずおれたちは、一体になりたいという意志がある。なにもかもとりこんで、溶け込んで、自分も他人もなく、ひとつになりたいんだ」


ワンネス、と李菜がつぶやく。


「食べ物は体に簡単にとりこめるが、他人は体にとりこめない。

他人の一部を自分のなかにいれたい、もしくは自分の一部を他人のなかにいれたい、という性欲も他人と一体になりたいという欲望からきている」


男は楽しそうに話す。まるで李菜のようだ、と思ってしまう。


「けれどその欲望はセックスでは満たされない。セックスは出し入れするだけの行為だ。ほんとうの意味で一体にはなれないだろう。食べ物みたいにとりこめないしね」


こんなふうに、といって、小さな魚を口にいれた。この男はこのうえもなく上品に、そして美味しそうに食べる。


「セックスは原始的な欲望を満たすには不完全な方法なんだよ」


「……不完全なら、なんで性欲が食欲より重要なの」


「不完全だからこそだよ、ほんとうに一体になったらつまらないじゃないか。私もあなたもない世界なんて。人間は不完全だから美しいんだろう」


「不完全な私たちにはぴったりの、不完全な欲望」


歌うように李菜がいう。


「このひと、ヘンでしょ。だから気に入ってるの」


李菜は優しく私に笑いかけた。


「お似合いだと思うわ」


私はなるべく皮肉っぽく聞こえるように返事をした。李菜と男は顔を見合わせて笑いをこらえている。


「李緒ちゃん、よろしくね」


「……よろしくお願いします、賀来さん」


「あら、認められたわね、名前覚えて貰ったじゃない」


「よかった」


その男……賀来さんは初めてほっとしたような表情を見せた。余裕そうに見えて、実は緊張していたんだろうか。


「賀来さん、可愛いかも」


「そうでしょ」


うふふ、と私たちは笑い合い、賀来さんは参ったなと唇を歪めている。




おわり。



やっと娘の名前出ました。

りおちゃんです。

新しい彼氏の苗字はルビふるべきかしら。

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