ビッチに学ぶ恋の目覚め
「ねえ、あんた、お父さんいないんでしょ」
そう言って私の机の上に手を置いたのは、クラスメイトの山中うらら。小学生女子向けの雑誌の読者モデルをしながら学校に通っているらしい彼女は、その整った顔を今は意地悪く歪ませている。近くで見るとうっすらとメイクを施しているのがわかった。
ああこの子、実際の目はあまり大きくないわね。粘膜にしっかり引かれたアイラインと、外側になるにつれて薄くぼかされたアイシャドウ。小学生とは思えない技術だ。睫毛はしっかりカールしており、マスカラも薄く施されている。
「……他のパーツは綺麗だし顔も小さいから気にならないな。人間、やっぱりバランスね」
「は? なに言ってんの?」
「いや、別に。それより次音楽だよ。山中さん一緒に行く?」
「は? 誰があんたなんかと!」
けれど教室にはもうだれもいない。私の数少ない友達も先に行ってしまったらしい。彼女もマイペースだから仕方がない。
山中さんはひとりで移動するつもりだろうか。ただでさえ目立つ彼女。「移動教室に一緒に行く友達がいない」などという噂が立つのは耐えられないはずだ。そして私もそれはいやだ、ひとりは好きだがひとりでいるのを見られるといろいろと邪推される。
私は男の子とつきあっているので、ただでさえ目をつけられやすいのだ。同性の評価には敏感にならざるを得ない。
「はあ。小学生女子ってたいへんだよね」
「なに言ってんの?行くなら早く行こう」
結局山中さんは私と一緒に行くことにしたらしい。廊下を歩きながら話を蒸し返してきた。
「あんたのお母さん、シングルマザーだよね? あんた、お父さんいないんでしょ」
「そんなわけない。いないと私生まれてこれないわよ」
「そういうこと言ってんじゃないの!」
「そういうことでしょ。山中さんは子供がどうやってできるのか知ってるの?」
「はああ?!」
山中さんは真っ赤になった。意外や意外、ビッチまっしぐらな外見をしておいて、なんと彼女は結構ウブであった。
「し、知ってるわよ!」
「じゃあ説明してみて」
「……お父さんとお母さんが、エッチするんでしょ」
山中さんは小声で言った。短めのスカートの裾を持つ手が震えている。
「……わあ。山中さん、イヤラシイ」
私が顔をしかめてみせると、彼女は真っ赤になり口をパクパクさせた。
「魚みたいね、美少女が台なしよ」
「……何よ、何なのよ、褒めてんの?バカにしてんの?」
「もちろん褒めてんの。私、山中さんの顔は好きよ」
女狐みたいなキツい容姿だけれど、感情を露わにして表情をコロコロ変える彼女は、はっとするほどきれいだった。いつものツンとした顔も十分可愛いのだけれどね。
その後も山中さんをからかいながら廊下を歩き、音楽室に着いた。同時にチャイムが鳴り、私たちはそれぞれの席につく。
「珍しいね、山中さんと来るなんて」
隣の席に座った須賀君が話しかけてきた。
「ちょっと遊んでたの。彼女可愛いわよ。須賀君、どう?仲良くしてみたら?」
「他の女の子を勧めるのか。彼氏に言う言葉じゃないよね」
「私が許すんだからいいの。私、窃視症、っていうのかなあ。他人のあれこれを覗き見したい願望があるんだよね。須賀君はもちろん可愛いし、山中さんも美少女だしさ。ふたり揃えば絵になって完璧だと思うの」
「まあ、そうやって傍観者でいたいっていう気持ちはわからないでもない。でもそういうのはさ、つまり高見の見物したいってことだろ。自分だけ安全な地平にいて、ニヤニヤ見てるんだ。それはずるいよ」
須賀君が痛いところを突いてきた。私は少ししゅんとする。
「うん、李菜にも注意されたわ。物事を俯瞰する視点は確かに大切だけど、当事者になる勇気も必要だと」
恋物語は好き。他人の惚気話もきらいじゃない。李菜のセンセーショナルでアブノーマルな体験談をたくさん聞かされて育った。基本的に人間は好きだし、他人にも興味がある。
世の中には様々な変わった性癖をもつひとがいるけれど、一人ひとりを見ればそんなに奇妙ではないこともわかる。むしろ、その性癖の裏側にはびっくりするほどかわいらしい、人間らしい感情が潜んでいたりする。
「他人の分析は得意だけどさ、私は実際自分の恋をする勇気がないのかもしれない。いつも斜に構えて、知ったような口をきいて。まあ、小学生らしいといえば、らしいのかな」
「だから、そういうこと彼氏に言うかな。でもまあ、背伸びする時期だよ」
私の呟きに須賀君がさらりと答える。何よ、須賀君だってこどものくせに。抗議の意味をこめて彼の綺麗な顔を見つめると、にこりと微笑まれた。邪気のない笑顔が憎たらしい。それにドキッとしてしまう自分も腹立たしい。
そのとき、音楽の授業が始まった。最初に流れた曲はモーツァルト。“恋とはどんなものかしら”。
おわり。