ビッチに学ぶトランスジェンダー
私の悪い癖。目の前の光景が理解不能であり、脳の処理能力が感情に追いつかないとき、別のことを考えて現実逃避すること。
「変態さんかな」
「変態さんだね」
ポケットの中の手のひらは、じんわりと汗をかいている。私(間宮李菜の娘)と須賀君(その彼氏)はゆっくりと、目の前のとんでもない事象について確認しあった。お互いの顔を見る余裕はなかった。視線は目の前の「変態」に釘付けだったからだ。
*
人目のある場所を異性の服装で練り歩くことによって、性的な快感を得る人がいる。
性同一性障害やおかま、おなべなどではなく、性の対象は異性のまま、「ただ単に異性装をしたい」人たち。
「ナルシストに近いかもね」
間宮李菜が大学時代に知り合った男のひとりが、トランスジェンダーだった。女の格好で街を出て、ショウ・ウィンドウに映った自分を見て悦に入る。わざと人通りの多い道を歩き、他人の視線の中に晒されてスリルを味わう。
彼らは他人の目をも鏡にして、自分を見ているのだ。自己完結するまなざしの交歓。
「自分に恋してるから、女装するの。彼は異性愛者だったから、自分を女として見るしか方法がなかったのよ」
「でも李菜とつきあってたんでしょ」
「そうね」
李菜は唇に人差し指を当て、少し考えてから言った。
「完璧な女装って難しいのよ、実際。女と男の身体って、大きさや細さだけじゃなくて骨格が違うから、ちょっとやそっとじゃ誤魔化せないのよね。だから、トランスジェンダーの男を狙うとしたら、まずはおしゃれして、女の子らしく見た目を整えること。そしたら勝てる」
「勝てる?」
「うん。彼の『理想の女』に勝てる。理想の女は彼にとっては自分でしかなく、結局は妄想の中にしか存在しないもの。だから現実を突きつけてしまえばいいの」
「……とにかく、おしゃれって大事なのね」
女装した男より綺麗な女になればいいらしい。思ったよりハードルが低い。大抵の女は女装した男よりは女らしいだろうから。
しかし、
「もし須賀君が女装したら私、勝てないかもって思ってた」
「うん、まあ僕は似合うだろうけど。でも今そういう話してる場合じゃない気がする」
変態を前にして、さすがの須賀君の声も少し緊張している。登校中の小学生である私たちの目の前には、女装した男。視点の定まらない瞳は明らかに危ない人のそれだ。
ただ女装しているだけならいい。問題は、男の右手に包丁が握られていること。
「おおおおお嬢ちゃんたち、ちょちょちょちょっとわわわワタシとあああそばないいい?」
これは思ったよりも危険だ。私はともかく、須賀君が。
「どどどどうしたの、かなあ?」
黙っている私たちに、男は苛々した様子で言葉を重ねる。須賀君は後ずさる。私は曖昧な笑みを浮かべた。逃げたいが足が動かない。
「あら、ステキなワンピース着てるのね」
落ち着いた声にはっとした。李菜だ。いつのまにか私たちのすぐ後ろに立っている。
「ねえ、この子たちよりあたしと遊びましょう」
李菜の手の重さと温かさを肩に感じる。もう片方の手は須賀君の方へ。
李菜はどんな顔をしているのだろう、私は前を向いたまま考える。少しかすれた低めの声は誠実味すら帯び、目の前の男に対する嫌悪など微塵も感じられない。
李菜はそういう女なのだ。あらゆる男に優しい。あらゆる男の理想の女を演じることができる。
「あの、あの、その……」
男はおどおどしながら李菜に吸い寄せられるように一歩前へ出た。李菜も私たちの前へ出て、少しずつ男に近づく。
「ねえ、大丈夫よ。お話しましょう。どこかへ座って。ね?」
大丈夫、大丈夫、とあやすように繰り返し、李菜は男の手にそっと触れて包丁を取り上げる。
「行きなさい、学校に遅れるわ」
その言葉に頷き、私はぽかんとした表情の須賀君の手をつかんだ。
「李菜、ありがとう。行ってきます」
李菜がひらひらと手をふっているのを目の端にとらえた。そのまま須賀君を引っ張って男の脇を通り過ぎ、走った。
「だい、じょうぶなの?」
息を切らしながら須賀君が問う。
「大丈夫。李菜はすごいからなんとかなる」
「でも、なんで李菜さん助けに来てくれたんだろう」
私は黙って携帯電話を取り出した。李菜の番号にボタンひとつでつながるようにしてある。
「ポケットの中に入れたまま呼び出したのよ。ヒヤヒヤした。手に汗かいたわ」
須賀君は納得したように頷いた。
「それにしても、ほんとに魔性の女なんだ」
須賀君の言葉に、そうよ、李菜はビッチなの、と私は胸を張った。手の中の携帯電話が震え、李菜からメールが届く。あたし好みの男だわ、とっても楽しめそう、ご紹介ありがとう。
おわり。