第4章 魔王の神殿 1
建物の中は、しんと静まり返っていた。
七都とナイジェルは、入り口にうずくまる二匹の猫の像の間を通り抜け、レリーフの壁で飾られた闇の中の通路を進んだ。
猫の像は通路のあちこちに、そこの守り神であるかのように配置されている。
建物の内部は、遺跡や廃墟に特有の、時間の経過による乱雑さが全くなかった。
壁や天井の崩壊もなく、それどころか、埃さえ降り積もってはいない。定期的に手入れされ、きちんと管理されているかのように、どこか整然としていた。
やがて、階段が現れる。
階段は螺旋を描いて、地下へと続いていた。
「そういえば、ここって暗闇のはずなのに、目が見えてる」
七都は、天井を見上げた。
天井にも、なにやら複雑な彫刻がされているのが、細部まで見渡せる。
天井に描かれているのは、たくさんの星々。広大な宇宙のようだ。
「それは、きみが魔神族だから……」
ナイジェルが、フードの奥から言った。
七都は、ため息をつく。
「やっぱり、わたしは魔神族なんだ」
「しかも、結構強い魔力を持ってると思う……」
「えー」
七都は、顔をしかめた。
二人は、長い螺旋階段を一段ずつ、ゆっくりと下りた。
底に下って行くにつれて、太陽の存在も遠ざかっていくのがわかる。
七都の体も、少しずつ楽になっていった。
太陽の下でも溶けずにいられたとはいえ、その光は何千もの針で突き刺すかのように、七都の肌にまとわりついていたのだ。
階段を下りきると、真正面に石の扉が現れる。その表面もまた、複雑で美しい彫刻で覆われていた。
石の扉は、重々しく通路を塞いでいる。
「この扉、どうやって開ければ……」
「簡単だよ。開けって命令すれば開く」
ナイジェルが言う。
「えーと。そんじゃ、ひらけ、ゴマ、とか……」
扉に変化はない。
「なに、それ……。本気でちゃんと思って、言わないとだめだよ」
ナイジェルは、扉を指差した。
「じゃあ、手を置いて。そのほうが早い。言葉にするより感覚で命令するといい……」
七都が試しに扉の表面に手を置いてみると、扉はすんなりと開いた。
なんか悔しい……。
七都は、特に罪もない石の扉をチラリと睨んだ。
扉の向こうは広間になっていた。
天井は高く、中の空気も悪くはない。
二人が入ると、壁に沿って並べられたガラスのランプに、白味がかった青い炎がずらりと灯った。
「あれ、あなたがつけたの?」
「いや。自動的につくようになっているんだろう、きっと。便利だね……」
広間の正面には、平たい石の台があった。
祭壇というより、どこか寝台のようにも見える。
大きさもだいたい、セミダブルベッドくらいだ。
陶器の大皿とポットが一つずつ、そしてガラスの小さな器が数個、石の台の脇に置かれた細長いテーブルの上に乗せられていた。
大皿には、たくさんの丸いお菓子のようなものがきちんと並べられている。それはよく見ると、蓮を矢車菊くらいに小さくしたような、チョコレート色の花だった。
石の台の向こう側の壁には、七人の人物の絵が描かれている。
七人はそれぞれ、違った仮面をかぶっていた。
どの仮面も猫を思わせるデザインで、メーベルルがかぶっていたのと同じようなものもある。
衣装もさまざまで、鎧を着た者もあれば、長いドレスをまとった者もあった。手にしているのも、剣や琴、笛など、全部違っている。
広間には何箇所か、上部が平たい皿状になった棒状の家具が置かれていた。香を炊く台のようだ。
「居心地は悪くないみたいだね。ここ、魔王の神殿だってユードが言ってたけど、なんか、どこかの古いお城の中にありそうな、広めの部屋みたい。ちょっと殺風景だけど」
七都は、感想を言った。
もちろん、七都は『古いお城』に行ったことはなく、テレビを通して見ただけだ。
「昔は、魔王の神殿だったのかもしれない……。でも、今は、魔神族の避難所になっている」
ナイジェルが言った。
「避難所?」
「ぼくらみたいに、夜が明けるまでに太陽から逃げ切れなかった魔神族のための避難所さ。だから、ほら、掃除もされていて、きれいでしょ。食べ物もあるし……」
七都はテーブルの上をもう一度見た。
飲み物が入っているらしいポットと、大皿に盛られた花。
食べ物って、あれ?
魔神族の主食って、お花?
「このあたりに住むある一族は、魔神族の血を引いているとも、神官の子孫だとも言われているらしい。彼らは数少ない魔神族の味方で、ここの管理をしてくれている。ぼくらがいつ来てもいいように。だからきっと、きみが通ってきた扉も、この遺跡に通じるように設定されているんだろう……」
七都は、ナイジェルを台の上に寝かせた。
ナイジェルは仰向けになり、目を閉じる。
「大丈夫? 痛い?」
「魔神族は、痛みを感じない。痛みを感じるほどの強い刺激が起こった場合、勝手に傷みの回路が切れる構造になっているらしい」
ナイジェルが言った。
確かに、七都がユードの短剣を壊して火傷をしたとき、痛みは全く感じなかった。
(魔神族の体になったせいなんだ……)
七都は、火傷の跡形もない自分の手のひらを眺めてみる。
ナイジェルは、耳につけていたリングを片手ではずして、枕元に置いた。
「いつもはちょっと邪魔だからこの大きさにしてるんだけど……」
金の小さなイヤリングは、瞬く間に巨大化した。
腕輪の大きさになり、それを通り越して、さらに膨らんでいく。
やがて、美しい彫刻が施された見事な冠が現れた。
ランプの光を反射して、きらきらと輝く冠――。
それ自体が生き物であるかのような、奇妙な存在感があった。
「すごい。魔法の冠だ」
七都は、呟く。
「悪いけど、額にはめてくれる? 片手では、ちょっと無理があるから……」
ナイジェルが、目を閉じたまま言った。
「うん」
七都は、金色に輝く冠を両手でそっと持ち上げた。
冠は七都の手の中で、びくりと身じろぎをしたように感じられた。
だがそれは、すぐに七都の手になじむ。まるで冠が、七都を確認して納得したかのように。
「あ、しまった! きみ、それにさわっちゃだめだ!」
ナイジェルが小さく叫んで、慌てて体を起こした。
「え?」
「言うのを忘れてた。きみはその冠には直接触れられないから、このマントか何かで……」
「……おもいっきり、さわってますけど?」
ナイジェルは、冠を両手で捧げ持っている七都を見て、あんぐりと口を開ける。
「人間はもちろん、魔神族も、普通はその冠には触れられない。下級魔神族なら、さわっただけで深手を負う。なのに、きみは……」
「すみませんね。魔神族なのに、いろいろ変わってるんですっ。剣も光らないし、壊せるし、太陽に溶けないし、冠もさわれるんですっ」
七都は、口を尖らせて言う。
「ちょっと興味を持ってきた。きみが何者なのか。きっとメーベルルには一瞬にしてわかったんだろうね……」
「あ、そ。ほら、動かないで」
七都は、冠をゆっくりとナイジェルの額にはめた。
それは、ナイジェルにぴったりだった。
彼の顔とも調和が取れていて、よく似合う。
冠をつけたナイジェルは、気高さと気品に満ちている。
そして七都は、それとよく似た冠を知っていた。
夢の中に出てくる少女――。
彼女が額にはめているのも、確かこんな感じの冠だ。細かいデザインは違うようだが。
「あなたは、王子さまか何か?」
「そんないいもんじゃないよ」
ナイジェルは横たわり、再び目を閉じた。
「これを付けると、体力は回復する。力を引き出して、増幅してくれるんだ」
「さっき使えばよかったのに。手がなくなる前に」
七都は呟く。
「太陽の光の下では無力だ。ただの装飾品に過ぎない。多少は守ってくれるかもしれないけど。第一、さっきはユードと戦ってたから、はめてる暇さえなかったし」
「冠をはめたら、あなたの手は治る? 新しい手がはえてきたりする?」
「うーん。いくら魔神族でも、それはないな。手は、永遠にこのままだ。一旦失ったものは、二度と戻らない」
七都は、ナイジェルの右腕におそるおそる触った。
そこに本来あるべきはずの、肘から下の手が存在しない。
七都は、彼の腕を両手で押し包んだ。
「メーベルルは、わたしの火傷を治してくれたのに……」
「怪我の種類が違うからね。たとえきみがどんなに魔力が強くても、どうすることも出来ないんだ」
それまで抑えていた感情が、七都の全身をかけあがってくる。
胸の、とても深いところが痛い。
目の奥が、かっと熱くなる。
ああ。どうしよう。
わたしのせいだ。
わたしを助けようとしたから、この人はこんな目にあってしまって……。
これから一生、ナイジェルは、片腕のまま過ごさなければならない。
なんてこと……。
「……泣いてるの?」
ナイジェルは、透明な水色の目を開けて、七都を見上げた。
「え?」
七都が瞬きをすると、目の縁から透き通った硬いものが転がり落ちた。
拾い上げるとそれは、水晶で出来たビーズのような、小さな丸い石だった。
「これは……」
「魔神族は、普通、泣かない」
ナイジェルが言った。
「でも、魔神族が涙を流すと、そういうことになるんだね」
七都の目から涙の石が、再びぽとんと落ちた。
「自分のせいだと思ってる?」
「だって、あなたをそんな目にあわせたのは、わたしなんだもの。あなたはこれからずっと、左腕だけで生活しなきゃいけなくなった。魔神狩りの人と出会ったら、左腕だけで戦わなきゃならないし、ご飯だって、左手だけで食べなきゃらないんだよ、毎回」
「多少魔力は使えるから、さほど不自由はしないと思うけどね。剣を使うときはともかく、食事のときは、もともとあまり手は使ってないし」
「え?」
「い、いや。なんでもない」
ナイジェルはいたずらっぽく、くすっと笑った。
「メーベルル……。メーベルルだってね、わたしを助けようとして死んでしまった。わたしがこの世界に来てしまったばかりに……」
七都の目から次から次へと、とめどなく涙の玉が落ちた。それはナイジェルの服や床の上に、ぱらぱらと転がる。
ナイジェルは涙の石をつまみあげ、明かりにかざした。
「責任は感じなくていいと思う。きみのせいじゃないよ。この世界では、魔神族と人間は敵対している。魔神族が魔神狩りの連中と出会ってしまったら、どちらかが傷ついたり死ななければ収拾がつかない。メーベルルは油断したのだろう。ぼくも自分を過信して、本来は出ては行けない時間にこのあたりをうろついていて、結局太陽に捕まってしまった。自業自得だ」
「でも、わたしを助けようとしたからでしょ。そのまま無視したってよかったのに」
「そうだね。きみをほっといても、結局太陽には平気だったわけだし。きっときみは、自分で戒めを解いて、脱出しただろう。でも、それはわからなかったから。きみを見殺しには出来なかった。メーベルルの最後の言葉が聞こえたしね。きみを助けてほしいって叫んでいた」
<だが……。最後まで望みは捨ててはならぬ、風の娘よ……。あなたはこんなところで終わってはならぬ人だ……>
彼女の言葉が、耳の中に一瞬こだました。
メーベルル。
死ぬそのときまで、わたしのことを気にかけてたんだ……。
「メーベルルの最後の悲鳴。わたしには何て言ってるのかはわからなかった。あなたにはわかったんだね」
「魔神族は、死んだら体は残らない。太陽に当たらなくても、遺骸は溶けてなくなってしまう。だけど、亡くなったということは、身近な人にはわかるんだ。亡くなるときに、ありったけの思いを飛ばすから。ぼくは、それを感じた。他人だから、ほんの少しだけどね。彼女の家族とか恋人には、確実に届いただろう」
「彼女の大切な人たちは、彼女がもういないこと、知ってるんだね」
それは、だが、何とせつないことでもあるのだろう。
突然、前触れもなく一方的に届く、身近な人からの最後のメッセージ。
受け取った側は、どんなに悲しいだろう。
「彼女には、一度だけ会ったことがある」
ナイジェルが言った。
「直接話したことはないけど。軽い会釈程度かな。ある祝宴でね。そのときは、あんな勇ましい鎧は着ていなくて、裾の長い、とても魅力的な、女性らしい衣装をまとっていた。美しかった」
「うん。彼女は、きっとドレスアップしたら、すっごくきれいな貴婦人になったんでしょうね」
金の髪と銀の目の、すらりとした貴婦人。
七都は、メーベルルのドレス姿を想像してみる。
「彼女は、魔神族の間では結構有名だったみたいだ。闇の魔王が思いを寄せていた、なんて噂も聞いた。たぶん彼女は、外見以上にとても長いこと生きていたんだと思う。いろんなことを知っていて、さまざまな魔貴族や魔王たちとも交流はあっただろう。貴重な人をなくした」
メーベルル。
彼女は、もういないんだ。
そんなきれいな人が、貴重な人が、あっけなく死んでしまったんだ。
七都の目から涙のビーズが、再びぽとぽとと落ちた。
何か我ながら、とても感傷的になっている。
いろいろあったから、当然のことかもしれない。
誰かに明らかな殺意を持って殺されそうになったことも初めてだったし、目の前で、それまで生きていた人が太陽に溶けて消えてしまった、なんてことも、もちろん初めてだ。
ショックだった。
あまりにもショックな出来事の数々。
七都が瞬きをするたびに、透明な石は床に宇宙を作っていった。
「もう泣かないで。泣くと体力を消耗してしまうよ。本当は、魔神族は泣けないんだから」
ナイジェルは七都の頭に手を乗せ、そっと撫でた。
家族以外の人にそういうことをされるのは、初めてだった。
果林さんは七都が子供の頃、よくやってくれたような気がする。今でもたまに冗談ぽく、頭をなでなでしてくれる。
父の央人には撫でてもらった記憶はないが、たぶん、小さい頃はしてくれていたのだと思う。
ナイジェルの手は、まだ大人になりきっていない少年のどこか華奢な手だったが、心地よかった。
このまま、ずっと撫でられていたい。七都は思う。
「それからね、忠告だけど、この世界にいるときは、泣かないほうがいい。この涙の石をうかつに落としたりして、それが人間……たとえば魔神狩りの連中なんかの手に渡ったら、やっかいなことになる。ここを引き払うときは、残らず拾っていかなきゃならないよ。たとえ涙とはいえ、体の一部だったものを人間に渡してはならない。よほど信頼のおける相手でない限り」
ナイジェルが言った。
「あ……」
七都は、あることを思い出して、声をあげる。
「それなら、やばいかも」
「え?」
「さっき、ユードが私の髪を切り取って、持ってった……」
「それは……」
ナイジェルが、顔を曇らせた。
「近いうちに、取り返したほうがいいね……」
「えー。じゃあ、また彼と会わなきゃならないってこと?」
七都は、顔をしかめた。
もしこの先、ユードと会う機会があったら、自分でそう望まなかったとしても、彼に何かしてしまうかもしれない。危害を加えるとか……。
彼の剣を粉々にしてしまったから、彼を粉々に出来ないことはないだろう。無意識にしてしまわないとは言い切れない。
だから、出来れば彼とは金輪際、顔を合わしたくはない。
「彼が魔神狩人をやっている限り、どこかでまた遭遇せざるを得ない。それは仕方がないだろうね。こちらが無視しても、向こうが追いかけてくる」
ナイジェルが言った。
「なんで魔神族は、人間と敵対してるの?」
「それは、定め。人間は魔神族を恐れて嫌っているし、魔神族は人間を見下している。ここに来たとき、ぼくも最初は戸惑った。でも、ぼくがこの世界で属する一族なんだ。ここで生きていくのなら、それを受け入れるしかない。それにね。魔神族と人間が愛し合うこともある。ぼくの父は魔神族だった。別の世界に行ったときに、人間の母に出会って、ぼくが生まれた。だから、ぼくは半分だけ魔神族。でも、魔神族の血のほうが濃かったみたいだけど。太陽の光に体が耐えられないってことがわかったしね。太陽が平気なきみが、うらやましい。きみも……たぶん、きみのお父さんかお母さんは、魔神族なんだと思う」
「お父さんが魔神族なんてことありえないから、あやしいのはお母さんだ」
七都は呟いた。
「きみのお母さんは? きみが住んでる世界に?」
「ううん。お母さんは行方不明。もしかして、この世界のどこかにいるのかもしれない。風の城にいるのかな。メーベルルは、わたしを風の城に連れて行くと言った。結局連れて行ってくれる前に死んじゃったんだけどね」
「風の城には、男の魔神族がひとりで住んでいるって聞いた」
ナイジェルが言う。
「え? 男の人?」
「だから、その人が風の魔王リュシフィンだと思ってたんだけど。どちらにしろ、きみは風の魔神族らしい。そういえば、名前を聞いていなかった」
「七都。七つの都っていう意味。お母さんが付けたの」
「ナナト。七つの都か。魔神の領域は七つに分かれていて、七人の魔王がいる。そして、それぞれの領域を『都』と呼ぶ。風の都とか、水の都とか。きみの名前は、そこから来ているのかもしれないね」
「魔王って、七人もいるの……」
「それで、魔神狩りの連中も大変なわけ。ぼくは、ナイジェル。水の魔神族」
「ナイジェル。あなたが元いた世界って、わたしが住んでる世界と同じなのかな?」
「それは、わからない。少なくともぼくは、きみが着ている衣装は、見たことはない」
七都は、サイズの合わない自分の制服を見下ろした。
やっぱり、しっかり、観察されている……。
「この世界に来て、長い?」
「いいや……。だから、ここのことはあまりよく知らない。時々散歩がてら、うろうろして、あちこち見て回っている段階。風の魔神族に会ったのも、きみが初めてだな。噂によると、最近風の魔神族は、ほとんど姿を見かけないらしい。きみはおそらくいろんなことを知りたいだろうけど、ぼくはきみにたくさん教えてあげられない。ごめんね。魔神族に関しては、自分の一族のことで、もう手一杯なんだ」
「別にあやまらなくてもいいけど。ユードは知り合いみたいだね」
「ユードとは、出会ったときは、お互いに正体を知らなかった。気が合ったから、いい友達になれると思ったんだけどね。そう思ったのも束の間、正体がわかって、残念な結果になってしまった」
「ユードと気が合うんだ……」
七都は、少しあきれる。
「彼も、背負っているものがあるらしい。道楽で魔神狩りをやっているわけでもないみたいだ。ちなみに彼をおちょくると、結構おもしろい」
「じゃあ、もし今度会う機会があったら、おちょくってみる」
「やりすぎないようにね。……ところで、ナナト。せっかく用意してくれているんだから、それ、食べてみる?」
ナイジェルが七都の後ろを指差す。
七都は、テーブルの上に置かれた大皿を振り返った。
そういえば、少し疲れた。いろいろあったし。
体に何か力になるようなものを与えなければならない。その必要性は、何となく感じる。
七都は大皿から花を一つ、つまみあげてみる。
どこから見ても枯れている。完璧にドライフラワーだ。
これは、わざと乾燥させて、保存食にでもしているのだろうか?
「あまりおいしそうじゃなさそう……」
「あ。それは、食べないほうがいいね。古いから」
七都がつまんでいる花をちらっと見て、ナイジェルが言う。
「そっちのほうは? 中身は入ってる?」
七都は、陶器のポットを抱えた。
白いポットの表面には、一匹の赤い蝶が浮き彫りになっていた。七都に群れごととまっていた、あの透明な蝶たちの形に似ている。
蓋を開けて覗いてみたが、ポットの中身は空っぽだった。
ただ、こげ茶色の何か液体のようなものが入っていた形跡がある。
匂いをかいでみると、微かにコーヒーの香りがした。
七都はコーヒーが苦手だったが、それはとても懐かしく、芳しい香りに思えた。
「いい香り……。これ、何?」
ナイジェルは、ポットに顔を突っ込んでいる七都を眺めて、ふうっと溜め息をつく。
「それにはお茶が入っているはずなんだけどね。そっちもだめか。これは、手抜きだな」
「え?」
七都は、ポットから顔を上げる。
「まあ、きっと魔神族はここへはめったに来ないから、一度置いたら、しばらくはそのままなんだろうね。普通、こういうものは毎日、小まめなところは一日に何回か、取り替えるんだけど」
「つまり、ここの食料って、『お供え』状態ってこと」
「彼らにとっては、もはやそういう意味しかないのかもしれないね。仕方がない。夜になるまで我慢できる?」
「わたしはだいじょうぶだけど。あなたは、せめて何か飲んだほうがいいと思う。水とか」
「……人間が飲む水は、そのままでは、ぼくらは飲めない」
ナイジェルが静かに言った。
「じゃあ、何か探してくる。何か食べられそうなもの……」
「言っておくけどね。この世界のものは、うかつに食べちゃだめだよ。水も野菜も果物も、すべて太陽の光の影響を受けている。魔神族の体が受け付けないものばかりだ」
「食べると、溶ける? 太陽に当たったときみたいに」
「そうはならないけど。試しに一回食べてみるといいよ。もしかしたらきみは、おいしく食べられるかもしれないしね」
「でも、とりあえず、この花と同じものを探してくればいいんでしょう。これならあなたも食べられそう?」
「ナナト。外に出てはいけない。ここにいるんだ」
ナイジェルが左手を宙に伸ばした。
七都は、その手をそっとつかむ。
表面は冷えているが、あたたかい手。
メーベルルと同じ、やさしいあたたかさだった。
「確かにきみは太陽の光には強いみたいだけど、長時間当たるとどうなるかわかったものじゃないよ。外に出てきみに何かあっても、ぼくはもう、きみを助けてあげられない。だから、夜になるまでここにいるんだ」
「でも……」
「いい子だから。約束して。ここにいるって」
ナイジェルは、水色の透明な目で七都を見上げる。
なんという、澄んだきれいな目。
「うん……」
七都は、仕方なく頷いた。
弱いな、その目。抗えない。
「よかった。ありがとう」
ナイジェルは、微笑んだ。
「なんであなたは人のことばかり心配するの? そんな状態なのに。メーベルルだって、最後までわたしのことを心配してた。魔神族って、そういうやさしい人たち? 単にあなたがそういう性格?」
「さあ?」
「わたしは今までの人生で、そんなにたくさんの人に出会ったわけじゃないけど。でも、あなたがとんでもなくお人好しなのは、なんとなくわかるよ。お人好しで、すごく能天気だってこと」
「ノーテンキ……」
ナイジェルは七都の言葉に怒りもせず、声を出して笑った。
「うーん。似たようなことは、元の世界にいた頃はよく言われたな。でもここでは、ぼくにそういうことを言う人は、さすがにいないけど」
う。よく言われてたんだ……。
やっぱり……。
「ユードだって、ほんとは殺せたのに、あなたは殺さなかった」
「あの場で死なせて終わりにしてしまったら、おもしろくないでしょう。ぼくの片腕を奪ったのだから、彼も同じ目にあって苦労してもらわなきゃね」
ナイジェルが答える。
あ、それ、『目には目を』ってことかな?
一学期の始めに世界史に出てきたっけ。ちょっと怖い法律かも、なんて思ったんだ……。
けれども、今の七都には、高校の世界史の授業など遠い遠い記憶の彼方、夢の果てに存在するかのような距離にあった。そんなことを思い出しても、何の役にも立たない。
ナイジェルは、目を閉じた。
「ぼくは少し眠るよ。きみも眠ったほうがいい。まだまだ太陽は沈まない。魔神族は、活動してはならない時間だ」
「うん……」
七都はナイジェルの手を握ったまま、彼を見下ろした。
メーベルルもきれいだったけど、ナイジェルもやっぱりきれいだ。
こうして近くから見ると、改めてそう思う。
冠をつけて横たわる彼は、古代の高貴な王さまの彫像のようだった。
ナチグロも遠目からとはいえ、美少年だった。七都のこの世界での姿かたちもそうだ。
魔神族は美形が多いのだろうか。人間のユードも、それなりにイケメンだったが。
「わたしね、本当はこういう体じゃないんだ。顔も違うし、目も髪もこんな色じゃない。この世界に来て、いきなり変わってしまったから」
七都は、呟いた。
「……ぼくもそうだよ。ぼくが来た世界では、こんな姿ではなかった。もっと見た目は悪かったな。自分なりに気に入ってはいたけどね」
ナイジェルが言った。
なんだ、まだ眠ってなかったんだ。半分ひとりごとだったのに。
「ちょっと安心した。そういうのってわたしだけじゃないんだね。あなたは、元の世界には帰らないの?」
「ぼくは選んだ。この世界を。ここで生きていくことをね。だから、もう帰らない。現実の世界は二つもいらない」
「そう……。でも、わたしは帰らなきゃならない。ここに来て、もう随分たってるから、家族は心配してると思う。実際、日が暮れて、飼い猫に化けてた魔神族の男の子が戻ってきて、ドアを開けてくれるまでは戻れないんだけど」
「そうだね。きみの居場所は、きみがいた世界にあるんだね。今のきみにとっては、そこが現実の世界だ。きっと帰れるよ……」
ナイジェルの手から、すうっと力が抜けた。
「おやすみ、ナイジェル……」
七都は、ナイジェルの手をそっと彼の胸の上に乗せた。
彼の頬をなでてみる。それから、睫毛をつついてみる。
彼は動かない。深い眠りについたようだ。
ここではこんな外見だけど、元いた世界では、ナイジェル、実は中年のおじさんだったりして。
七都は思った。
外見の割には、妙に大人っぽいものね。ノーテンキだけど、どこか醒めてるし。
七都は、マントをきちんとナイジェルの体にかけた。
「さてと」
七都は、立ち上がる。
「残念だけど、ここで夜になるまでじっと我慢できるほど、わたしっていい子じゃないんだよね、ナイジェル。ぜんぜん眠くないしね。こんなところにいたら、息が詰まっちゃう。それにやっぱり、あなたは何か飲んだほうがいいし、食べたほうがいいよ。たぶん、わたしも」
七都は石の扉に手を置いた。扉は、ゆっくりと開く。
振り返ると、青味がかった白く淡い光の中で、ナイジェルは神々しく横たわっている。
まるでこの神殿の主はナイジェルで、ナイジェルのためにここのすべてのものが存在するかのようだ。
彼の周りで、彼を引き立てるようにきらきらと輝いているのは、七都が落とした涙の石だった。
あ、そうだ。あれ、拾わなくちゃ。
でも、ここを出るときにってナイジェルが言ってたし。まだいいよね。
ナイジェル、きらきらが似合うから、そのままにしとこう。
「すぐ帰ってくるからね」
七都は、扉を閉めた。
再び七都は螺旋階段を上がり、レリーフのトンネルを抜けて、闇の中を地上へと歩いていく。
やがて、明るい円盤のようなものが現れた。それは眩い光に照らされた、地上の空間への出口だった。
「あー、やっぱり、暑そう……」
七都は、外に出るのを躊躇する。
遺跡の石畳の庭には、さらに高く上った太陽の光が溢れていた。
おそるおそる、手を光の中に差し出してみる。
大丈夫だ。多少熱いだけ。溶けたりなんかしない。
七都は、光の中に出た。
元の世界で、真夏の真昼に外に出たときをはるかに上回る不快感があった。
だが、我慢できないこともなさそうだ。
メーベルルの鎧の上に置かれた花束は、まだ枯れもせず、風に吹かれて揺れている。
七都は、先程ユードに縛り付けられた柱の近くに、メーベルルの馬が佇んでいるのを見つけて、近づいてみた。
馬は、美術館の庭に置かれたアートオブジェのように動かない。
目はうつろなガラスで、どこも見てはいなかった。
首筋を触ると、ひんやりとした感触があった。
『生きていない馬』と、ユードは言った。
(これ、やっぱり、機械だ)
たたいてみると、金属っぽい音がする。
馬が鎧で覆われているのではなく、馬そのものが鎧のような素材で造られているらしい。
どこかにスイッチがあって、それを入れたら動き出すのだろう。
じゃあ、魔神族は、魔力を使って、機械も操るんだ。
魔力というのがどういうものなのか、あまりよくわからないけど。
七都は、機械の馬のなめらかな背中を撫でた。
いったい魔神族って、どういう人たちなんだろう。
やさしくて、お人好しで――それは、ナイジェルだけかもしれないとはいえ――、太陽の光に触れると溶けてしまって、花を食べて、人間に嫌われ、山の向こうの『魔の領域』という場所に住んでいるという……。
そして七都自身も、その魔神族の血をひいているらしい。
馬の鞍の脇に、小さく畳んだ布がくくりつけられてあった。
七都はそれをはずして、広げてみた。
ナイジェルが着ていたのと同じマントだ。
フードが付いていて、すっぽりと体を覆えるようになっている。
表は明るいエンジ色で、裏は黒だった。
メーベルルが、太陽の光から身を守るために持っていたのだろう。
「メーベルル。これ、もらうね」
七都はメーベルルのマントを羽織って、フードを下ろした。
「ああ、涼しい。なんて楽」
七都は、思わず呟く。
太陽の光を通さない上、この世界の人には、たぶん奇妙な服だと思われるセーラー服も隠せる。
メーベルルは七都より背が高かったので、裾は引きずるくらいに長いが、ついでにぶかぶかの靴もいい感じで隠れてしまう。
マントも、魔法がかかっているというよりは、何か太陽の光を遮る特殊な繊維で作られていそうだった。
魔神族は、やはり科学に長けているのかもしれない。
七都は、招き猫の前で立ち止まった。
異界に連れて来られた招き猫は、どことなく寂しげに手を上げたままだ。
ナチグロは、まだ帰って来てないよね。
七都は、少し不安になる。
だいじょうぶ。まだ夜じゃないもの。
わたしみたいに昼間外を歩ける魔神族って、珍しいみたいだし。
彼はたぶん、太陽が苦手な普通の魔神族。きっと太陽が落ちてから戻ってくる。
それでも、この世界に置き去りにされる不安は拭いきれない。
あの猫――男の子かもしれないし、虫かもしれないが――だけが頼りなのだ。
七都は制服のポケットから、生徒手帳とボールペンを取り出した。
「やっぱり、制服でここに来たのは正解だったかも」
生徒手帳に挟んであった、猫キャラのかわいらしい付箋をつまみあげる。
それは、商店街の文房具店で、なんとなく気に入って買ったものだ。いろんな色の猫の付箋が七種類、セットになっている。
付箋なんてほとんど使うことはないのだが、色の組み合わせがきれいだったのと、猫のキャラクターがかわいかったので、思わずレジに持って行ってしまったのだった。
七都は、色の違う4枚の付箋に、ボールペンで文章を分けて書いた。
<ナチグロへ>
<遺跡の中にいるので(ちょっと留守にしてるかもしれないけど)>
<絶対に来てね>
<七都>
それから七都は、付箋を招き猫の頭にぺたぺたとくっつける。
招き猫の頭は、たちまち賑やかになった。
「これで、もし私がいない間にナチグロが帰ってきても、きっとあの神殿に行ってくれる。あの中にはナイジェルが寝てるけど、同じ魔神族同士なんだから、仲良くしてくれるよね」
ふと、ナチグロは果たして文字が読めるのかという疑問も、浮上する。
「それもだいじょうぶ。だって、十五年以上リビングのテレビの真ん前にいっつもいて、テレビ見てるもん。読めないわけがないよ」
七都は、招き猫の前で軽く手を合わせた。
「お願いします。では、行ってきます!」