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緑の扉 <ダーク七都Ⅰ>  作者: 絵理依
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第3章 魔神狩り 3

 ユードがいなくなると、静寂が訪れた。

 山々の向こうの空が、真珠色を帯びている。

 間もなく、太陽が姿を現すのだろう。

 ここは他よりも一際高い丘の上。光が差し込むのも、どこよりも早い。

 遠くで鳥が鳴いているのが聞こえる。

 太陽の登場が嬉しくて、待ちきれない喜びの声。

 さわやかであるはずのその声は、七都にとっては、虚しく禍々しい音に過ぎなかった。

 それにしても、暑い。

 なんて暑いのか。


「メーベルル……。まだ生きてる?」


 七都は、横たわった魔神族に話しかけてみた。


「……あなたに刃を向けた報いだ……」


 メーベルルが、弱々しく呟く。


「ね。本当に太陽が出てきたら、私たち、溶けちゃうの?」

「申し訳ない……。あなたを守れなかった」

「……本当みたいだね」


 七都は、溜め息をついた。

 でも、これ、夢だもの。夢だよね。


「だが……。最後まで望みは捨ててはならぬ、風の娘よ……。あなたはこんなところで終わってはならぬ人だ……」

「魔神族って何? 魔王って? 魔貴族って? 風の城はどこにあるの? あなたは、私のことを知っているの?」


 七都は訊ねたが、メーベルルはもう答えなかった。


 山々の向こうに漂う雲の縁が、金色に輝いた。

 太陽の光の筋が、触手のように空に伸びる。

 光の触手は空を真珠色に染め、森の表面を黄金色に照らし、やがて七都たちのいる遺跡にも下りてくる。

 それは、ユードが『エヴァンレットの剣』と呼んだ、あの剣と同じ色だった。

 そのオレンジ色の景色の中に、町が照らし出されるのを七都は眺めた。

 建物が密集したその様子は、レアチーズケーキを切って、壇の上にたくさん並べたようだ。

 ああ、あんなところに町がある。

 あの町に行くこともないのだろうか。


 光が、七都の縛られている柱にも到達する。

 七都のいる位置は、ちょうど柱の影になっていたが、横たわったメーベルルは光に飲み込まれた。

 メーベルルの鎧がまばゆく輝き、金色の長い髪が煙をあげた。

 七都は、柱の影から息を呑む。

 流れるような見事な髪は、瞬時に白い煙に変化して、空中に消え去っていく。

 髪が溶けたあと、メーベルルの体も煙を噴き、赤い炎に包まれる。


 七都は、炎が上がったとき、頭の中に叫び声が突き抜けたような気がした。

 たくさんの言葉とメッセージが詰まった悲鳴――。

 七都には言葉が多すぎて、そしてあまりにも悲しすぎて、理解は出来なかったが。

 やがて炎は黒い塵となり、塵は空気の中に溶け去った。

 メーベルルはもう、どこにもいなかった。

 ただ、銀色の鎧と半透明の真珠色の衣が、打ち捨てられたように、そこに転がっているだけだった。


「メーベルル! メーベルル!! メーベルル!!!」


 七都は叫んだ。

 何回も何回も叫んだ。

 けれども、誰も答えなかった。


 太陽が昇ってくる。

 あつい。

 皮膚が焼けるようだ。

 体中が、悲鳴を上げ始めている。

 光に照らされた周囲の景色が、目がくらむくらいに眩しい。

 まるで、白い光に攻撃されているよう……。

 七都が縛られている場所は、今はまだ柱の陰だが、太陽が動くにつれて、やがては光に包まれるだろう。


 これは、夢。

 悪い夢。

 なのに、何で醒めないの?

 七都は目を閉じ、再び目を開けた。

 迫ってくる太陽。何の変わりもない。


「もう夢はたくさん。さっさと醒めてよ!」


 七都は叫んだ。

 だが、醒めなかった。何度目を閉じ、目を開けても。

 なぜ?

 夢なのに?

 夢じゃないの?

 早く戻りたい。リビングに。自分の部屋のベッドに。

 そして、果林さんがおみやげに持って帰って来てくれる料理を食べるんだもの。

 果林さん、きょうは料理教室で何を作ったのだろう。

 きっと彼女は、こまごまと説明してくれる。

 窓から見える隣のビルのヨガ教室の様子とか、他の曜日から振り替えでやってきたメンバーが、ものすごくイケメンなんだけど、ものすごく料理が下手だとか、おじいちゃんの生徒さんがヒヨコのエプロンしてたとか、料理に関係のないことまで説明してくれる。

 そしてまたいつもの日常が、ずっと変わらずに続いて行くのだ。

 うんざりするけれど、それなりに充実している、あのいとおしい日々が……。

 けれども、夢は醒めない。


 七都は、刻々と面積を広げて行く日溜まりを見つめた。

 最後まで望みは捨てるなと、メーベルルは言った。

 でも、これはもう、最後ってこと?

 そして、この最後は現実?

 夢じゃなくて?

 わたし……わたし、溶けてしまうの?

 太陽に焼かれて、黒い灰になって……。

 メーベルルみたいに、跡形もなく……?

 そんな……。


 ばさっという、鳥の羽ばたきのような音がした。

 七都の視界が、突然闇に包まれる。

 七都は、闇に手を伸ばした。

 やわらかい布が手に触れる。

 七都の体は、その布で覆われていた。

 なに、これ?

 布の終わりをさぐって開けてみると、目の前に誰かがいた。


「夢じゃないよ、これは」


 その人物が言った。


「ここにいると、きみは間違いなく太陽に焼かれて灰になる。きみのいた世界にも、もう帰れない。それは現実なんだ」


 それは、テノールの若々しい声だった。

 ユードでもメーベルルでもない、聞いたことのない声。


「ナチグロ?」


 だが、そこにいたのは、ナチグロが変身したあの少年ではなかった。

 淡い銀色の髪に明るい水色の目の人物が、七都を見下ろしている。

 若い男性だ。

 まだ少年と呼べる外見だった。歳は、七都より少しだけ上かもしれない。

 どことなく優雅な雰囲気の白い服を着て、黒い手袋をはめている。


「それをかぶっていれば、太陽の光はきみには届かない。当面は安心だよ」


 彼が言った。


 闇の隙間に、薄いグリーンの布の端が見える。

 七都が被っているのは、この布らしい。

 外套――どうやらマントのようだ。

 七都はその隙間から、もう一度彼を見た。


「これ、あなたの?」


 彼は、にっこり笑って頷く。

 首筋くらいの長さの、少しボサボサ気味とはいえ、きれいな銀の髪。男性にしては白い肌。

 目は、水色の猫の目。懐かしいような透明な淡い青。

 七都がいる現実の世界の空の色を、薄く溶かしたような色だった。

 彼の右の耳には、金色のリング形の飾りが輝いている。


「ありがとう。でも、あなたも魔神族なんでしょ。このマントをかぶっとかないと、あなたも太陽に溶けてしまうよ」

「うん。たぶんね。だから、手っ取り早くきみを助けないと」


 彼は、七都を柱に縛り付けている鎖に剣を振り下ろした。

 だが、鎖はびくともしない。

 何回剣を振り下ろしても、鎖は刃を弾き返した。


「やっぱり、この時間は力が出ないなあ。夜だったら、一発で切れるんだけど」


 彼は、ふうっと溜め息をつく。


「そもそも、鎖を剣で切ろうなんてのが、無理なのかな」


 ……その可能性も大だ。いや、きっとそうかも。

 七都は思ったが、黙っていた。

 彼の穏やかでのんびりした雰囲気は、とても安心感があって好感は持てるが、今のこの状況ではちょっときつい……と思う。


「どうしようかな。しかし、暑いな」


 七都がマントの隙間から見上げると、彼は微笑み返してくれた。けれども、明らかに顔はひきつっている。

 疲れも目立ってきた。ふらふらしている。今にも倒れてしまうのではないかと心配するほどだ。


「もう……もういいよ。このマントをかぶって、どこか太陽の当たらないところに避難して。あなたもそろそろ限界でしょう。助けてくれようとしただけで嬉しかった。ありがとう。それに、この夢ももうすぐ醒めるだろうし」


 七都が少し自棄気味に言うと、彼はこわい顔をする。


「まだ夢の中だなんて、しつこく思ってるの? その鎧の主が消えたのを見たんでしょう。次は、きみの番なんだよ」


 彼は、メーベルルの鎧を指差した。


「これは、夢じゃないの?」

「そういうこと」

「なんであなたは、夢じゃないってこと知ってるの? それに、私が別の世界から来たことも知ってる?」

「うん。だって、ぼくもそうだから」

「え?」


 そのとき――。


「ナイジェル!」


 ユードの声が響いた。


 七都が顔を上げると、ユードが朝の光の中に立っていた。

 まるで太陽を味方につけているかのように、陽射しを体いっぱいに受けている。

 髪と肩に光のラインが縁取られ、彼の影は石畳にくっきりと張り付いていた。

 魔神族の少年は、ゆっくりと振り返った。

 振り返る動作さえ、きびしそうだった。

 ユードの手には、あのオレンジ色に輝く剣が握られている。

 太陽からカケラを切り取って、そこに植えつけたかのように輝く、あの剣が。

 そして、もう片方の手には、野に咲いているとおぼしき白い花が、束になって握られていた。


 うわ。

 本当に、花持ってる。

 七都は、うんざりする。

 彼が先程口にした言葉通り、七都とメーベルルを弔うつもりだったのだろう。

 やっぱり、基本的には悪い人じゃないんだろうけど……。


「ユード。そうか……。いたいけな少女を鎖で縛って、太陽の光で焼いて殺そうなんていうひどい悪趣味は、きみの仕業か……」


 ナイジェルと呼ばれた魔神族の少年は、透明な水色の目でユードを見据えた。

 だが、倒れそうな彼の瞳に、ユードの姿がちゃんと映っているのかさえあやしい。


「こんな時間におまえに出会うとはな。おまえが出てくるとは、この娘はいったい何者なんだ?」


 ユードは、ナイジェルのマントをかぶった七都に、チラと目をやった。


 この人たち、知り合いなんだ。

 七都は、マントの隙間から、二人を見比べた。

 魔神狩りを生業とするユードと、魔神族のナイジェル。

 当然、友情で繋がれた関係ではないだろう。


「このお嬢さんの正体は、ぼくは知らない。ただ、きみに殺された魔神族の女性の最後の言葉を聞いた。彼女は、この人を助けたがっていた」


 ナイジェルは言って、剣を構えた。


「だが、この時間では、こちらに分があるな。その柱の影から引きずり出してやる」


 ユードは輝く剣を高く掲げ、ナイジェルに飛びかかった。

 ナイジェルは、刃を素早く受け止めたが、彼の剣に力は入っていなかった。

 キン、キンという鋭い透明な音が、朝の空気の中にこだまする。

 ユードのほうがナイジェルよりも背が高く、体格も優れていた。見た目だけでも、ナイジェルが不利なことは明らかだ。

 何回か防戦するうちに、剣がナイジェルの手から手袋ごと、振り払われるように地面に落ちた。


「あっ……!」


 七都は、小さく叫ぶ。


 ナイジェルは、あらわになった白い手でユードの攻撃をかわそうとしたが、力の差は歴然だった。

 ユードは、剣をナイジェルの喉に突きつけた。

 ナイジェルの瞳は、剣のまばゆい光で、針のように細くなる。

 次第にナイジェルの体は、ずるずると柱の根元に追いやられていく。


「やめて!」


 七都は足をばたつかせることしか出来なかった。

 ああ、このままでは、この人は、太陽の下に放り出されてしまう。

 いったいどうしたら……!

 ユードは、ナイジェルを石畳の上に組み伏せた。

 ナイジェルの体のすぐ横で柱の影は切れ、その向こうには、太陽が金色の光の膜を石畳の上に作っている。


「そう短くはないつきあいだったが、お別れだな。弱ったおまえを殺すのは忍びないが……。もうすぐ、ここにも陽の光が届く」


 ユードは、ナイジェルを押さえつけたまま、至近距離から彼を見下ろした。

 ナイジェルの水色の目は宙をさまよい、口からはうめき声が漏れる。

 ナイジェルは、右手でユードの肩をつかんだ。だが、ユードはその手を引き剥がし、石畳に押し付ける。


「このまま太陽に溶けるがいい。最後まで見届けてやる。さらばだ、ナイジェル」


 ナイジェルの透明な目の中で、暗黒の瞳がゆっくりと、大きく広がり始める。耳にとまった金の輪が、きらりと瞬きするように輝いた。

 柱の影がゆっくりと動き、太陽の光がユードとナイジェルに到達する。

 七都は、悲鳴を上げた。

 ナイジェルの白い手から、煙が上がった。

 煙は赤い炎と化し、ナイジェルの右手は、見る間に炎に包まれる。


「ナイジェル!!!!!」


 もう、やめて!

 ナイジェルも、メーベルルのように、消えてしまう!

 もう、目の前で、誰かを失うのはいやだ!

 やめて、やめて、やめて――!!!


 七都は、声にならない叫びを上げ続けた。

 突然、視界が真っ赤になる。

 七都の目は、全体が透明なワインレッドに変化した。

 そして、闇色の丸い瞳があふれるように大きくなり、それはたちまち目の表面を覆い尽くす。


「は……」


 ユードの動きが止まり、顔色が変わった。

 周囲の空気が緊張している。

 何か、目に見えぬ力が働いている。

 風が止まった。木々も、ざわめかない。


 ピシ!


 ユードが握っていたエヴァンレットの剣に、無数の亀裂が入った。

 やがてそれは乾いた砂と化して、流れるかのように、さらさらと砕け落ちる。

 ユードは呆然と、柄だけとなった剣を眺めた。

 ナイジェルは、透き通った刃のかけらを振り落としながら、右の肩を抑えて起き上がる。

 素早く彼は、太陽が届いていない柱の影に戻った。


 七都は、光の中に立っていた。

 くるまっていたナイジェルのマントは、足元に落ちていた。

 体を戒めていた鎖も、手枷も、蒸発して大気に飛び散ってしまったかのように、消え失せている。


「平気なのか! 太陽が……!」


 ユードが七都を凝視して、うめくように呟いた。

 七都の体は、石畳から五十センチくらいのところで、宙に浮いていた。

 長い髪は固定されたように、背後に渦巻いて止まっている。

 太陽の光は七都を包み、七都の髪を鮮やかな緑色に染め上げていた。

 まるでそれは、一枚の幻想的な絵画のようだった。

 七都の、全体が暗黒に変化した目が、ユードを見据える。

 光をすべて吸い込んでしまいそうな、真っ黒の宝石をはめ込んだような両の目。

 ユードにとっては、今までに無数に対峙してきた魔神の目と同じもの。

 だがそれは、すべて夜の闇の中でのみ見た目だ。太陽の下では遭遇するはずのないものだった。


 ナイジェルが動いた。

 落ちていた自分の剣を拾い上げ、ユードの背後から、それを浴びせる。


「今のは、きみに殺された魔貴族の女性の分」


 ナイジェルは呟き、それからユードの右腕を剣でえぐった。


「これは、ぼくの手の分」


 ユードは、くず折れた。

 血がみるみるうちに、ユードの背中と右手を覆っていく。

 七都は宙に浮いたまま、闇色の瞳で、ぼんやりとその様子を眺めていた。


「背中は急所をはずした。手当てをすれば治る。だが、きみの右手は、そのままではもう使い物にはならないだろう。これでおあいこだ。きみも左手だけで生きていくがいい。もっとも、魔力など使えぬ人間のきみのほうが、ぼくよりもずっと苦労することになるだろう」


 ナイジェルが静かに言った。それから彼は力なく微笑んで、付け加える。


「ただ、血を吐くような訓練と努力をすれば、きみの右手は、多少は動くようにはなるかもしれないけどね」


 ユードが顔だけ上げて、ナイジェルを睨みつける。


「あとね。早めにここから立ち去ったほうがいいと思うよ。このお嬢さんが爆発炎上しないうちに。爆発したら、今のぼくには止められないから」


「く……」


 ユードは痛みに顔を歪めながら、それでも体を立て直し、這うように二人の視界から消えた。

 石畳の上には、ユードが残した赤い血が、点々と続いていた。


「降りてきたら?」


 ナイジェルが、宙に浮いたまま止まっている七都に、無事だったほうの手を差し出す。柱の影からはみ出さないように注意しながら。


「少し、落ち着いて」


 七都は、手袋をはめたその手をつかんだ。

 ナイジェルの力は弱かったが、それでも彼は、七都の手をしっかりと握り返した。

 闇の瞳は消え去り、七都の目は元通りになる。


「あ。あ。あーっ!」


 七都は、ナイジェルの手をつかんだまま空中で足をじたばたさせたが、やがて地面が七都の足の裏にしっかりとくっついた。


「はい。お帰り。よかった。あれ以上暴走しなくて」


 ナイジェルが、微笑んだ。

 だがその微笑ははかなげで、無理して作っているということが、痛いほどにわかる。


「そ、それどころじゃないでしょう。あなたの手はっ!?」


 七都は、口を押さえる。


「あ……!」


 ナイジェルの右手は、肘から下が存在しなかった。


「残念ながら、太陽の光で溶けてしまった。きみは大丈夫なんだね。びっくりした。ぼくも、他の魔神族に比べると光には強いほうなんだけど、やっぱりだめだったな……」

「黙って。もう、喋らないで!」


 七都はマントを拾い上げ、ナイジェルを覆った。

 フードもきちんとかぶせて、深く下ろす。


「どこか、光が届かないところに移動しなくちゃ」

「あの建物の中がいいよ」


 ナイジェルが、石畳の庭の真ん中にある、ドーム型の建物を指差した。

 建物は、表面が白く輝いていたが、その奥の入り口とおぼしき場所には、闇がアーチ型にはめこまれていた。闇の空間は、結構奥まで続いていそうだ。

 七都は、ナイジェルに腕を回した。

 ナイジェルのほうが背が高いので、七都がナイジェルに抱きついている格好になってしまったが、それでも七都は、ナイジェルをしっかりと支える。

 ふと足元を見ると、白い花束が落ちていた。ユードが摘んできたものだ。


「ちょっと待って」


 ナイジェルが立ち止まる。


「せっかくだから、太陽に溶けてしまった彼女に……」

「でも、これ、ユードが持ってきたものだよ。あなたにひどいことしたユードの……」

「彼がこれを持ってきたその気持ちと行為は、無視しなくてもいい。本心からのことだからね。それに、この花には罪はない。彼女のために摘んでこられたのだろうから、役割を果たさせてあげないと……」


 そりゃあ、花には罪がないかもしれないけど……。

 ユードはナイジェルの片腕を奪ったのだ。

 そのユードが持ってきた花なのに、腹が立たないのだろうか。

 お人好しにも、程がある。

 わたしだったら、花を投げ捨ててる。

 七都は内心思ったが、その思いをしまいこんだ。


「……わかった。なんか、素直に納得できないものがあるけど、あなたがそう言うなら……」


 花束を拾い上げ、七都はメーベルルの鎧のそばに膝をつく。

 それから七都は、鎧の上に花束を置いた。

 見たことのない花だったが、美しく可憐だった。

 星の形をした花と、鈴蘭をもっとダイナミックに拡大したような花。そんなに甘くはない、柑橘系のすっきりした香りがする。

 ユードの美意識は、割とレベルが高いのかもしれない。

 空を映した銀の鎧の上に花束を置くと、花束はまるで空に浮いて漂っているかのようだった。


「メーベルル。あなたのことは、決して忘れない」


 七都は、呟いた。


「あなたの眼差しも、馬に乗った勇ましい姿も、わたしを守ろうとしてくれたことも、絶対忘れないよ」


 わたしは、ユードがやったことも、やろうとしていることも、許さない。許せない。

 いつかこの感情は変化するのかもしれないけど、今は無理だ……。


 ナイジェルは黙ったまま、フードの下から、たたずむ七都を眺めていた。

 七都は、立ち上がる。

 太陽の明るすぎる光に少し足がふらついたが、元の世界で、真夏日の昼間に外で運動するよりは、我慢できそうだった。


「さ、行くよ」


 七都は、ナイジェルの腰に再び腕を回した。


「黒猫がいる……」

「えっ」


 ナイジェルが、指差した。

 彼の指の先には、招き猫が石畳の上に、影のようにぽつんと立っている。

 耳の間のえぐられた白い傷が、なんとなく痛々しい。


「ああ、あの猫の置物は、わたしが持ってきたの。わたしが住んでる世界から」

「あれは、頭をかこうとしているのか、何かにじゃれつこうとしているのか。星を取ろうとしているのか……」

「幸運を招き寄せているらしいよ。右手を上げているとお金を招いて、左手を上げていると人を招くんだって。これは左手だから、人だね」


 七都は、果林さんが前に説明してくれた通りに言った。

 それとも、右手が人で、左手がお金だったっけ?

 だが、たとえ間違っていたとしても、ここでは誰も困らないし、誰にも責められない。

 こういう状況で招き猫の説明をしているのが、なんとなく現実離れしていて、夢の中のようだった。

 七都にとって現実は、招き猫のほうなのだが。


「幸運をね? それにしては、傷だらけ……」

「メーベルルの仕業。もう招き猫のことはほっといて、はい、行くよ」

「あの猫、いいな……。いらないんだったら、くれない?」と、ナイジェル。

「残念だけど、あれにはちゃんと持ち主がいますので。それに、あれは目印だから。今はなくなってるけど、あのそばには、私がこの世界に抜けてきたドアがあるはずなの。その目印」

「きみが住んでいる世界へ通じている扉か……」

「飼い猫を追いかけてドアを開けたら、ここに出たの。その飼い猫も、どうやら魔神族が化けてたみたいなんだけど。山の向こうに飛んでってしまって、ドアも閉まって消えてしまったから、その猫に化けてた男の子が帰ってくるまで、私はここで待つしかない」

「この猫の像が、その猫少年を早く招いてくれるといいね。しかし、つまりきみは、いきなり異世界と通じる扉からここに出てきて、ユードに出会ってしまったわけだ……。運が悪かったね」


 七都はナイジェルを覗き込み、睨んだ。


「うわ。怖い顔……」


 ナイジェルが、フードの奥からおののく。


「あまり喋らないの! よそ見しないの! あなたは今、それどころじゃない状態でしょっ! 弱ってるわりには口数多いよっ。それに、だいたい私はマントなしで暑いんだからっ」

「はいはい……」


 七都はナイジェルを引きずるようにして、ドーム型の建物へと向かった。

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