第3章 魔神狩り 2
黒い金属の鎧で覆われた馬に、その魔神族は跨っていた。
銀色に輝く鏡のような甲冑。
肩に巻いた真珠色の薄布が、半透明のやわらかい翼のように風に舞う。
魔神族の顔には仮面が付けられていた。
仮面は、どう見ても猫の顔だった。
カーブを描いた線で出来た両目は、目を細めた時の猫にそっくりだ。笑っているようにも見える。
仮面の上部の二つに分かれた部分も、猫の耳のようだった。
七都の持つ短剣のオレンジの輝きが、さらに増す。
不思議なことに七都は、その魔神族に対して恐怖は感じなかった。
馬に乗った仮面の姿にも、昔どこかで見たことがあるかのような、妙な懐かしささえ覚えた。もちろん、そんなはずはないのだが。
仮面をかぶった魔神族は剣をかざし、七都の周りを円を描いてぐるぐると回った。
ウィィィィンという音は、馬から発せられているようだ。
(機械?)
七都は一瞬、魔神族も馬も、その鎧の下には冷たい機械の部品が詰まっているような気がした。だが、少なくとも魔神族のほうは、生身らしかった。
銀色の鎧を通して、七都の耳に、微かにやわらかい息遣いが聞こえた。
兜の下からは金色の長い髪が伸び、たおやかにゆらめいている。
七都の変化した髪も美しいが、それは光を吸い込む闇の緑色。その魔神族の金の髪は、七都の髪とは対照的だった。月の光を反射して、輝くようだ。
「エヴァンレットか。この場所にその剣を持ち込んだ勇気に対しては、褒めてやってもいいぞ」
仮面の下から、くぐもった声が聞こえた。
何か機械によって変えられたかのような、不自然な声。
聞く者が恐怖を感じるように考えられ、設定されたかのような声だった。
馬上の魔神族は七都に近づき、高くかざした剣を七都めがけて振り下ろした。
七都はかろうじて、その刃をかわす。
体が、考えるよりも先に勝手に動いた。
「おのれ」
魔神族が、剣を再び振りかざす。
笑っている猫の顔が、その体の行動とはまるっきりかけ離れている。
「やめてっ!」
七都は叫んだが、当然魔神族は、やめる気はなさそうだった。
握りしめた短剣の柄が、熱い。
持っているのが苦痛に感じるほどだ。
魔神族の剣がきらめいた。
七都の真横で、剣がずさりと刺さって止まった。
招き猫だ。
招き猫の頭――耳と耳の間に、魔神族の剣がめりこんでいる。
あー、なんてことを。
果林さんになんて言い訳しよう。
魔神族は、招き猫から剣を引き抜いた。
そして、七都に狙いを定める。
「やめてってば!」
再び招き猫の額に、傷がざっくりとつけられる。
これでは、招き猫が真っ二つにされるのも時間の問題かもしれない。その前に、七都が真っ二つにされるかもしれないが。
この短剣のせいなのか?
この短剣が、魔神族をひきつけている?
「別に、あなたと戦おうとか思ってないよっ。これを持ってるのは、仕方なくなんだから!」
七都は、輝く短剣をかざして叫んだ。そして、付け加える。
「これがほしいのなら、あげるから!」
もちろん短剣の持ち主はユードなのだが、彼に断っている暇などあるわけはない。
魔神族の行動が短剣を渡すことでおさまるなら、この場合そういうのもありだ。ユードの損得なんて気にしている状況ではない。
「それは喜ばしい申し出だが」
魔神族はしばし動きを止め、七都を見下ろした。
「私はその剣に触れられぬ。そなたが処分しろ」
「処分?」
七都は、短剣の刃を見つめた。
とにかくこの短剣をどうにかして、この魔神族と話がしたい。
なんとなくユードよりも話しやすそうに思えるし、いろんなことを知っていそうだ。
どうすればいいのだろう。
そうだ。
これは夢なんだから、こういうことも出来たりする?
いや、なんか出来そうだ。
七都は、いきなり短剣の刃を片手で握りしめた。
手のひらに、一瞬、熱さが走る。
やっぱり、夢でも痛いかも……。
七都は覚悟したが、痛みはなかった。
短剣のオレンジ色の輝きが消える。まるで、突然壊れた蛍光灯のように。
ぴしっという鋭い音がして、刃に細かいひびが入った。
ひびの入り方があらかじめ決められていたかのような、整然とした割れ方だった。
やがて、刃は七都の手のひらの内側で、ぼろぼろと崩れる。
幾千もの透明なかけらが、手からこぼれ落ちていく。
七都の手に、刃を失った柄だけが残った。
それを地面に落とすと、カランという乾いた音がした。
七都の足元の石畳には、無数の透明な砂となった短剣の残骸が、月の光を反射してきらめいていた。
「さ、処分したよ」
馬上の魔神族は、固まったように動かなかった。
あきれているのかもしれない。
これって、やりすぎ?
手のひらを見ると、赤くただれていた。
痛みは感じないが、どうやら火傷をしたらしい。
ちょっと、やばかったかな。
機械音が止まった。馬も動かなくなる。
魔神族は、両手で静かに仮面をはずした。
仮面の下からは、美しい白い顔が現れる。
透明な銀の目に、闇の色の瞳。整った顔立ちは彫像のようだ。
優雅な仕草で兜を取ると、豊かな金色の長い髪がふわりと広がる。
(女の人?)
七都は、魔神族を見上げた。
魔神族は馬からひらりと降り、七都に歩み寄る。
七都は一瞬身構えたが、魔神族はひざまずいて、七都の手を取った。
「なんと無謀なことを……」
魔神族は諌めるような、だが、いとおしげな表情をして、七都を見つめた。
睫毛が長い。きれいな女性だった。
声も涼やかなハスキーボイス。猫面を付けていたときとは違う。
「私の名は、メーベルル。闇の魔王ハーセルさまに仕えるもの。大変、失礼を致しました」
彼女が頭を垂れた。
そして、七都の火傷をした手のひらに、自分の唇を押しつける。
彼女の手も唇も冷えてはいたが、内部には心地よいあたたかかさがあった。
ユードの体温の高い手とは対照的な、落ちついたやさしいあたたかさだ。
火傷のあとが、たちまち消えていく。
瞬くうちに、七都の手のひらの火傷は完全になくなってしまった。
「治してくれたんですか? ありがとう」
「いえ。治ろうとしているあなた自身の力に手をお貸ししたまでのこと」
メーベルルは、微笑んだ。
「あなたは、ここにいてはいけない。これからあなたをお送りします」
「え? どこへ?」
「風の魔王リュシフィンさまのもとへ。風の城へ」
「リュシフィン? 風の城?」
そのとき――。
黒い影がメーベルルの背後で伸び上がった。
七都の目に、ユードが輝く剣を振りかぶっているのが、スローモーションのように映る。
「危ない!!」
七都は、叫んだ。
だが、間に合わなかった。
メーベルルは、七都の目の前でくず折れた。
「メーベルル・アルディメイン女侯爵。こんな大物の魔貴族をしとめられるとは」
ユードが、横たわって動かないメーベルルを見下ろして呟いた。
「とどめは刺さん。日が昇れば跡形もなくなるからな」
そして彼は、突っ立っている七都を射抜くように見つめた。
「やはり、あんたは魔神族だったわけか」
ユードは、たった今メーベルルに振り下ろした剣を七都に向けた。
メーベルルに反応してオレンジ色に輝くその剣が近づくと、七都の闇色の瞳は、すうっと針のように細くなった。明るいところの猫の目のように。
ユードはそれを確かめると、七都の手首をつかんだ。
「はなしてっ!」
「あんたも、魔王に侍る魔貴族のお姫さまか。どこかの城の奥から抜け出して、お忍びの散歩でもしていたってところか」
「はなしてよっ」
「剣に触れるなよ。この剣まで粉々にされてはたまらん。あんたは簡単に破壊するが、これは貴重なものなんだからな」
ユードは剣を鞘におさめ、両手で七都の肩をつかんだ。そして、恐ろしい力で、七都の体を遺跡の折れた柱に押し付ける。
この人は、敵なんだ。
それが理解出来てくると、それまで感じなかった恐怖が、じわりと七都の体に這い上がり始めた。
この人は、私を殺そうとしているんだ……。
「あんたには恨みはないが、仕方がない。まだそんなに生きていないのに、非常に気の毒だと思う。私に対しての殺意もない。まだ無垢で、人間を襲って殺したこともないだろう。しかし、将来魔王の花嫁となって、次世代の魔王を生まないとも限らないからな」
ユードは腰のあたりから、しゃらしゃらと音をたてる金具のようなものを取り出した。
そして、素早くそれを七都の手首にはめる。長い鎖が付けられた手枷だった。
ユードは手枷の鎖を柱に回し、七都をそこに縛り付けた。
「これは、見た目は華奢で軽いが、案外しっかりした品でね。大柄で凶暴な下級魔神族でも、身動きが取れなくなる。もうすぐ日が昇る。ここで太陽に焼かれて、仲間と一緒に灰になるがいい」
ユードが言った。
「実に残念だな。あんたは、何で魔神族なんだ? エヴァンレットの剣が反応しないとは、そして、剣を破壊できるとは、どういう魔神族だ?」
七都は、キッとユードを睨む。
「あなたは、私をおとりにしたんだね。その何とかの剣を持たせて、魔神族に対峙させた。姑息で卑怯で汚い考えだと思わないの?」
「あんたが魔神族かもしれないという疑いを持っていたからだ。人間だと確信していたら、そんなことはしない」
「なんで魔神族だからって、こんな扱いを受けなきゃならないの? 魔神族がどういうものだかよく知らないけど、魔神族だって、たぶんみんな一生懸命生きてる。生んでくれた人もいるし、育ててくれた人もいるし、感情だって、知性だって持ってる。あなたと同じだよっ」
ユードは眉間に皴を寄せ、七都の顎に手をかける。
「あんたの今の言葉は、まさしく魔神族に対して我々が言いたいセリフだ。魔神族が我々人間に何をしてきた? 魔神族がいる限り、人間に平安はない」
七都は、ユードの顔を至近距離から見上げた。
感情を読み取れぬ、氷のような冷たい顔だった。
そんな顔を七都は生まれてからこの方、見たことはない。
自分を殺そうとしている誰かの、恐ろしい顔――。
こわい。
体全体が凍りつきそうなくらいに、こわい。
そのとき、倒れていたメーベルルが突然起き上がった。
「その人に触れてはならぬ!」
メーベルルはユードに襲いかかったが、ユードは素早く剣を抜き放ち、真正面からメーベルルに輝く剣の刃を浴びせた。
「メーベルル――!」
彼女は、再び倒れる。
石畳の上に横たわった彼女の銀の鎧に、紺色から明るい水色へと変化した青い空が映っていた。
「さすが魔貴族だな。まだ形を保っていられるのか。下級魔神族なら、最初の一太刀で分解しているところだ」
ユードが言った。
「だが、それも間もなく終わる。太陽が、おまえたちを跡形もなく消し去ってくれるからな」
ユードは、七都の髪をつかんで、指に絡めた。
「あんたのことは忘れない。不覚にも、殺すのに躊躇した唯一の魔神族だ。あんたに死んでもらうのは、実にいやな気分だ」
「あなたを呪ってやる。取り憑いて、殺してやるから」
七都は、呟いた。
誰かに対してそういうセリフを吐くなど、想像したこともなかった。
「そうするがいい。そうできるものなら。だが、太陽は魔神族の体だけでなく、心も魂も焼き尽くす。あんたのすべては存在しなくなる」
七都は口を開け、目の前のユードの指におもいっきり噛み付いた。
七都には自覚はなかったが、ユードに噛み付いた七都の歯は、その瞬間だけ鋭く尖っていた。
ユードの指から、血が噴き出る。
赤い血だ。
七都がよく知っている、現実の自分の体の血と同じだった。
だが、口の中に残った彼の血は、鉄のような不快な味はしなかった。
甘いジュースのような――。
美味? 信じられないことだったが。
「見ろ。人間は血を流す。だが、魔神族は、その体を切り裂いても血は流れない」
「そうなの? 切り裂いたことないから、わからない」
ユードは、七都の髪をひとつかみ、剣で切り取った。
「あんたが太陽に焼かれる醜い姿は、見たくはないからな。ひとまず立ち去ることにしよう。あんたたちが消えたあと、それなりの弔いはしてやる。花も手向けよう。美しい魔神族二人の死を悼んで」
「結構! 花なんかいらない! 悼んでなんかほしくない! 二度とここに来るなっ!」
七都は、叫んだ。