第3章 魔神狩り 1
何かの気配を感じて、七都は目を開けた。
紺色の空は、まだ頭上にあった。雲もゆっくりと渡っている。
あれー?
わたしの部屋のベッドじゃない?
そうか。まだあのドアの向こうの世界にいるんだ……。
夢は、未だ醒めてはいない。
透明な蝶たちが、静かに身構えていた。
張り詰めた空気が、蝶たちをことごとく覆っている。
七都は、顔を上げた。
蝶たちは、髪だけではなく、七都の腕や手の甲、肩、足、要するに体全体にとまっていた。
だが、七都が動いても、蝶たちはそのまま凍ったように動かない。
七都の正面に、ひとりの人物が立っていた。二十代半ばくらいの男性だ。
暗い灰青色の短めの髪に、灰色の目。
背が高くて、細身。動きやすそうな黒い服を着ている。その上には黒いマント。両手には黒い手袋、皮製のブーツも黒だ。
しかめっ面をしているが、美形の部類に入るだろう。
額には、鈍い銀色の輪がはめられていた。腰には、長い剣と短い剣を二本差している。
「蝶にたかられているから、死んでいるのかと思った」
その人物が呟いた。
彼が話した言葉は、日本語ではなかった。七都が授業で苦労している英語とも違う。
フランス語でもドイツ語でもスペイン語でもなさそうだ。聞いたこともない、不思議な言語だった。
けれども七都には、その言葉がわかった。
頭の中で意識することなく、ごく自然に言葉に意味が与えられ、イメージが形づくられていく。
夢の中なのだから、それも当然のことかもしれなかったが。
「誰っ?」
七都の緊張した声に反応したかのように、それまで動かなかった蝶たちが一斉に舞い上がる。
乱舞する蝶たちをその美形青年は、うっとうしげに眺めていた。
この幻想的な美しい光景をしばし愛でる、などという気は毛頭ないらしい。
蝶たちが飛び去ってしまうと、彼は少し警戒しながら七都に近づいた。そして、訊ねる。
「あんた、魔神か?」
「魔神って、何ですか?」
七都は、赤紫の透明な目で真っ直ぐ彼を見つめ返す。
彼は答えず、腰の剣をするりと抜いた。
氷のような透明な刃が、陽の光できらりと輝く。
なんなのよ、このヒト。物騒なものを。わたしを殺す気?
彼は黙ったまま、剣を七都にゆっくりと近づけ、七都の頬の真横でそれをぴたりと止めた。
透明な刃の中には、細い金属の線が、回路のような複雑な模様を描いて閉じ込められている。
刃全体は、水晶かガラスのような材質で出来ているようだった。だが、切れ味はとびきりのようだ。
ぴんと張り詰めた異様な空気で、七都はそれを感じ取った。
「魔神族ではなさそうだな」
彼の緊張が和らぎ、眉間の縦皺も消え失せる。
それから彼は、剣を鞘に収めた。見事な所作だった。
剣を使い慣れている。相当な腕かもしれない。
「あんたが魔神族だったら、この剣は反応するはずなんだが、特に何もなかった。つまりあんたは、魔神族ではないということだ」
彼が言った。
「それにしても、剣を突きつけられても怖がりもせず、頭をしっかり上げていられるあんたは、いったい何者だ? 魔神でなければ、アヌヴィムの魔女か?」
「その前に、あなたの態度って、ちょっと失礼じゃないですか? そんな危ないものをいきなり初対面の人間に近づけて」
七都は、彼を睨んだ。
現実ではこういう状況だったら、たぶん怖くて言い返せないだろうけれど、というより、こういう状況に遭遇すること自体あり得ないだろうけれど、今は夢の中なのだ。言いたいことは言わなくては。
「ああ。そうだな。あやまる。悪かった」
彼はあっさりと自分の非を認め、軽く頭を下げた。
あれ。意外と素直。
「わたしが魔神族だったら、殺すんですか?」
「当然だ。私はやつらを見つけて殺すこと、つまり魔神狩りを生業としている」
魔神狩り?
この世界には『魔神族』と呼ばれる人たちがいて、その人たちを狩って殺す人たちもいるということだろうか。
ということは、この人は魔神族を狩る魔神ハンター?
で、魔神族って? 悪魔みたいなもの?
その魔神ハンターの若者は、少し目を細くして、七都をしげしげと見つめた。
う。やばい。
そういえば、制服ぶかぶかだった。
七都は、少し慌てる。
だが、彼にとってはたぶん初めて見る服だろうし、サイズが合っていないことも判断できないかもしれない。それに期待しよう。
どちらにしろ、奇妙な服だと思われていることは、彼の様子からして察しがつく。
「それで、あんたはこんなところで何をしているんだ? こんな時間にこんなところに寝ていたら、魔神族に食われるぞ」
「えーと。その」
七都は、言いよどむ。
果たして本当の話をして、この人は信じてくれるのか?
ドアを通って違う世界を行ったり来たりするのが、ここでは割とポピュラーなことなら信じてくれるだろうけれど、どうもそんな雰囲気ではなさそうだ。
「別のところから来たんです。今、ちょっと戻れないので、知り合いを待っているところ」
それでも、あやしまれない程度に七都は説明を試みた。
「なので、このへんのこと全然わからないんですよね。今って、『こんな時間』……なんですか?」
「魔神族が出没する時間だ。もう少ししたら夜が明けて、魔神族は現れなくなるが。魔神族は太陽の光に当たると溶けてしまうから、夜しか活動はしない」
夜が明ける?
太陽がこんなに輝いているのに?
「今って夜なんですか? じゃあ、あの太陽は?」
七都が、先ほどよりもさらに傾いた銀色の太陽を指差すと、彼は怪訝そうな顔をした。
「あんた、馬鹿か? あれは月だ」
月っ!!!!!!
七都は目を見開いて、月だと彼が言った天の円盤を見つめた。
確かに太陽にしてはやさし過ぎる、やわらかくて淡い光だった。
太陽の皮膚にしみ込んで来るような、あのあたたかさも宿ってはいない。
けれども、七都にとっては充分まばゆく、親しみの感じる光だった。
この景色にしても、夜にしては明るく、色も鮮やかに溢れている。
あれが月なら、では太陽はどれだけ光り輝いて、地上はどれだけ明るく暑いというのだ?
「月のほかに、星も輝いているだろうが」
彼が眉間に皺をよせて、空を指差す。
七都は天を仰いだが、七都の知っている、あのキラキラと輝く星は見つけられなかった。
ただ、白くて小さい、何かゴミのようなものは見えるような気はする。あれが星なのだろうか?
「えーと。わたし、目が悪くて」
七都は、取り敢えず言い訳をした。
「太陽が現れたら、心行くまで見るといい。太陽は月よりもはるかに明るく、世界をあまねく照らす。魔神族を除いて、すべてのものの源だ。月も太陽も知らないなんて、あんた、これまでどこにいたんだ?」
「ここでの月と太陽を知らないってことです。わたしがいたところの月は、もっと光が弱くて、夜はもっと暗いです。太陽が、ここの月をもう少しだけ明るくしたような感じですよ」
七都は、ちょっと向きになる。
さっき馬鹿って言った? 失礼な!
子供の頃は、口の悪い男子から、そんなことを言われたこともあった。
だが、中学生になってからは一応優等生をやっていたので、誰からもそういうことを言われたことはない。ましてや、勉強が出来ることで一目置かれる高校に入学したばかりなのだ。
それなのに。面と向かって言われるなんて。そりゃあ、最近授業についていけなくなってるけど……。
「私には、夜は十分暗い。色の区別も、当然昼間ほどは出来ない」
彼が言った。
「ただ、発光性の蝶に囲まれていたおかげで、あんたはよく見えたが」
彼の眉間に、再び皺が寄る。
「……あの蝶は、魔神族の領域に住んでいるが、夜になるとこちらに飛んでくる、という説がある」
「……そうですか」と、七都。
「それに、ここの遺跡。ここははるか昔、魔王の神殿だったという説もある」
「そうですか」
「で、これは?」
彼は、招き猫を指差した。
「これは、わたしが持ってきたものです。わたしがいたところから」
「黒い猫だろう。魔王の使いをするという言い伝えがある」
この世界にも、猫がいるんだ。
それに、黒猫の伝説も似ている……。
ヨーロッパでは、黒猫は魔女の使いって言われているものね。
猫好きの七都は、嬉しくなる。
「この猫は、そのう、見た目は少しブキミかもしれませんが、一応、わたしのいたところでは魔除けで、幸運を招いてくれる置物なんですよ」
七都は言い訳したが、彼の眉間はそのままだった。
招き猫の高く上げた手が、なんとなくせつない。
「本当に魔神族じゃないのか?」
彼が訊ねた。探るような灰色の目が、怖くなるほど鋭かった。
「だって、剣、反応しなかったんでしょ?」
「そうだ」
「じゃあ、違うんでしょう、きっと」
「……そうだな」
彼は言ったが、あきらかにどこか納得してはいないようだった。
「単に常識のない、お供とはぐれた、どこかの金持ちのお嬢様ってとこか」
七都は、さらにむっとする。
別に高校生としての常識がないわけではないし(それどころか、持ちすぎていると思うくらいだ)、金持ちのお嬢様でもない。
何かとことん、どこまでもムカつく美形だ。
ふと七都は、ナチグロのことが気にかかった。
彼って……。猫から男の子になって、飛んで行った彼って……。
「背中に虫の羽根をはやして飛ぶ男の子って、魔神族ですかね?」
七都は、彼に訊いてみる。
「それは間違いなく魔神族だな。少なくとも、人間は羽根をはやして空を飛んだりはしない」
やっぱり……。
ナチグロは、魔神族なんだ。
じゃあ、ここで鉢合わせをしたら、ナチグロは彼に退治されてしまう。
七都は、あせる。
たとえ魔神族でも、うちの長年の飼い猫で、家族の一員だ。
「見たのか?」
彼が、鋭く問いかけた。
「さ、さっき。かなり前。山の向こうに飛んで行ったから」
「山の向こうは、『魔の領域』と呼ばれる魔神族の住処だ。そうだな。では、夜が明けるまで、あんたのそばにいることにしよう。また魔神族が現れないとも限らないからな」
「い、いいです。結構です。護衛してくれなくても。とてもありがたいですけど、あなたもお忙しいでしょうし。私が待っている人も、もうすぐ帰ってきますもん」
それが、羽根をはやして飛んで行った当の魔神族だとは、口が裂けても言えない。
「では、あんたの待ち人が来るまで、ここにいる。無知なあんたをひとりで置いておくのは、常識的にも危ない。それに……」
彼はしばし沈黙して、七都を眺めた。
「やはり、似ている……。だから、このまま無下に立ち去るわけにもいくまい」
彼が、記憶をたどるような遠い目つきをした。
「わたしが、あなたの知っている誰かに似てるってことですか?」
「そう。その人はもう存在しないが。昔のことだ」
彼に、少しだけやさしい表情が現れる。
どこか少年っぽい、ぎこちないが親しみやすい雰囲気が垣間見えた。
この人、やっぱりしかめっ面より、笑ったほうが、きっと素敵だ。
七都はちらりと思ったが、彼の申し出には困り果てた。
ナチグロが魔神族なら、夜が明ける前に帰ってくるのは必然ではないか。
太陽が苦手な魔神族が外に出ていられるのは、おそらく夜明けまでの暗い時間なのだから。
しかも彼が帰ってくるのは、魔神ハンターを職業としているこの人がいる、この場所になってしまう。
冗談じゃない!
でも、どうやって、この人を立ち去らせたらいいのだろう。
別に、自分の知っている誰かに似てるからって、ここにいてくれなくてもいいのに。
守ってやるって言ってくれてるわけだから、悪い人じゃないみたいなんだけど……。ちょっと性格、ムカつくとはいえ。
「あ、あのう……」
「私の名は、ユード。あんたは?」
「七都……」
「ナナト? 名前も変わっているんだな。ま、どちらにしろあんたは、とっとと自分のいた場所に帰ったほうがいい。ここは、あんたにとっては危ない場所だ」
「それは、同感ですね」
少なくとも七都のいる世界には、通常、剣を持ってうろつきまわる人はいない。いたら犯罪だ。魔神族とやらも、もちろん存在しない。
悪魔や魔王だって、普通は物語や映画やアニメ、ゲームの中のキャラクターにしか過ぎないのだ。
「あのう、ユード……」
「黙って!」
ユードが険しい表情をして、剣を半分抜いた。
刃が不透明になり、淡いオレンジ色に輝いている。
「剣が反応している。魔神族だ……」
ユードは輝く刃を見下ろして、静かに呟く。
「えっ!」
ナチグロが帰ってきたのか?
どうしよう。
そのとき、ウィィィィンという、奇妙な音が聞こえた。
カッ、カッという、何かが地面を駆ける音も。
それは七都とユードを中心にして、ぐるぐる旋回しているようだった。
「我々の周りを回っている」
ユードが、ささやくような声で言った。
七都はあたりを見渡したが、何も見えなかった。
音の主は、七都たちの視界に入らない、この丘のもう少し下あたりを駆けているらしい。
「魔神族の操る、生きていない馬の蹄の音だ」
「生きていない馬?」
「ちょっとこれをしばらく持っていてくれないかな、ナナト」
ユードが腰から短剣を抜いた。
その短剣もまた、まばゆいオレンジ色の輝きを放っていた。同じ種類の剣のようだ。
「え。そ、そんな危ないものをっ」
「ただ持っているだけでいい。魔神族に切りつけろとは言わない。あんたにそんな期待はしない」
ユードは、七都の腕をつかんだ。
手袋をしているとはいえ、その下の彼の手のあたたかさが伝わってくる。
この人、妙に体温高い……?
ユードは、短剣を七都に握らせる。
短剣の柄は、夏の強烈な日差しの中に長時間さらしたかのように熱かった。
刃の輝きは暖色のオレンジだったが、どこかぞっとするような冷たさと怖さがあった。
この短剣って、いったい何?
「では。少しの間、私は消える。健闘を祈る」
「え?」
ユードが黒い風のように素早く移動し、視界から消え去った。
「ちょ、ちょっと、どこ行くのおっ!!!」
七都は、たったひとり取り残される。
えー。うそでしょーっ。
無知な私を一人で置いておくのは、常識的にも危ないって言ってたじゃない!
カッ、カッ、カッ、カッ……。
何かが地面を蹴る音が、先ほどより大きくなった。
柱の残骸の間に、闇色の影が幽霊のように現れる。
それは、ナチグロが変身したあの少年ではなかった。