第2章 向こう側の世界 2
あれは……。
緑のドアを開けるときの音だ。
あのレバーハンドルは古いものなので、必要以上に軋んだ音を響かせる。
ひゅううううっ。
今度は、風の音。
もの悲しい、笛のような……。
パタン。
ドアが閉まった。
風の音がやむ。ドアの向こうに、無理やり押し込められたように。
七都は、飛び起きる。
夢?
ううん。確かに聞こえた。
風の音も、ドアが開く音も、ドアが閉まる音も!
七都は、階段を駆け下りた。
寝起きでくらくらして、転げ落ちそうだった。
ソファでモチ猫になっていたナチグロがいない。
七都は、緑のドアを振り返る。
いつもと同じドアがいつものところにはまっている。
けれども、どことなくいつもとは雰囲気が違うような気がする。
それに――。
リビングに微かに漂っているこの見知らぬ外気は、何なのだ?
七都は、緑のドアに耳をくっつけてみた。
ひゅうううう……。
風の音がする。この向こうはコンクリートなのに?
七都は、金色のレバーハンドルに手を置いた。
深呼吸をしてから、レバーハンドルを下に回し、ぐっと引く。
風が、リビングに吹き渡った。
七都の髪が乱れ、制服の襟がばさばさとはためく。
バン!
七都が力を緩めると、ドアは空気に引っ張られた形で、勢いよく閉まってしまった。
七都は再びレバーハンドルを握り、緑のドアの表面を見つめる。
違う――。
このドアの向こうは、あの灰色のコンクリートのぬり壁じゃない。
壁はなかった。
今、垣間見えたものは……。
七都は力をこめて、緑のドアを開けた。
今度は風で閉まらないように、体全体でドアを支える。
七都は、目を見開く。
ドアの向こうには、コンクリートの壁は存在しなかった。
そこにあったのは、果てしない空間――。
銀色っぽい、青い空間が広がっていたのだ。
うそ……。
目が慣れてくると、銀青の空間の中身がはっきりとした形を取ってくる。
それは、どこかの景色だった。
地面は灰色で、規則正しい正方形の石が平たく並んでいた。古い石畳のようだ。
その向こうには、石畳の平面を取り囲むようにして、折れた柱が何本も並んでいる。
柱のはるか彼方の紺色の空には、綿菓子のような雲が浮かんでいた。
そして、雲の間には太陽が輝き、景色全体を淡い銀色に染めている。遠くに、濃い紫の山々の陰も見えた。
七都の知らない風景だった。
ここは、いったい……?
あのコンクリートの壁は、どうなったの?
七都は、緑のドアをしっかり押さえたまま、立ち尽くす。
遠く石畳の上に、動くものがあった。
小さな黒い影。ナチグロだ。
尻尾を高く立てて優雅に歩いていたナチグロは、次の瞬間、縦に伸びた。
黒猫の闇が、そのまま長細く、大きく広がった。
闇は、一人の少年の姿に変化する。
え――――?
歳は、七都より三つか四つ下といったところだろうか。
黒髪を肩のところで切りそろえている。
顔は、よくはわからない。だが、日本人でないことは確かだ。
ナチグロが変化したその少年は、白っぽいマントのようなものを羽織っていた。
少年はうーんと伸びをし、ぴょんと飛び上がった。それから側転で石畳の上を回り、立て続けに宙返りを難なくこなして着地する。
まるで、猫から人間に変わって、嬉しくてたまらないという感じだった。
(……すごい。オリンピックに出られそう)
やがて、少年は中腰になった。
少年の背中から、透明なガラスのようなものが一瞬で伸びる。
羽根だった。
鳥の羽根ではなく、蝉かトンボの羽根のような――。
羽根は小刻みに震え始め、同時に少年の体は宙に浮く。
上下に大きくはばたいて、少年はさらに上空へと昇った。
透明な羽根は太陽の光で、銀色にきらきらと輝いた。
(あ……。待って!)
少年は、彼方に広がる紫の山々の方角へ向きを変え、あっという間に飛んで行ってしまった。
羽根のきらきらも、たちまち見えなくなってしまう。
少年が消えた方角を七都はしばらく眺めた。
「えーと……」
七都は、おそるおそる声を出した。
とにかく何か言わないと、頭が変になりそうだった。
「……ナチグロは、猫じゃなくて、虫だった……とか」
七都は、振り向いた。
いつものリビングが、背後にはある。
ソファに窓にカーテン。パキラ。テレビ、招き猫、七都が描いた静物画。父の会社の名前が入ったカレンダー。
けれども、前方には、見知らぬ銀青の風景も広がっている。
緑のドアを1枚隔てて、二つの世界は隣り合っていた。
「うん。これは夢だね。絶対、夢」
七都は、今起こっているこのわけのわからない状態を、取り敢えず夢ということで納得させようとした。
夢じゃなければ何なのだ? 説明出来ないではないか。
夢に決まっている。
そうだ。夢なら、もっと楽しんじゃお。
「だったら、その前に」
七都はドアを押さえながら、リビングに戻った。
けれどもドアは、七都の手からもぎ取られるように閉まってしまう。
「ああ、もうっ」
再びドアをそうっと細く開けると、あの風景はやはりドアの向こうにあって、七都は安心する。
「オッケー。そのままでいてよね」
七都は玄関に走って、靴を取ってきた。靴は何の迷いもなく、履き慣れたスニーカーにした。
スニーカーをしっかりと履いた七都は、リビングを見渡す。そしてパキラの横、その辺のスペースをたくさん取って置かれているオブジェに目をとめた。大きな黒い招き猫だ。
それは、果林さんがインターネットで見つけて購入した、招き猫のドアストッパーだった。
けれども届いてみると、思っていたよりもはるかに大きく重かったようで、果林さんは持て余したらしく、結局ドアストッパーとしては使われていない。単なる巨大な置物と化している。よくお店の前なんかに飾られている、大きめの信楽焼のタヌキにさえ、この招き猫は勝っているかもしれない。
果林さんによると、黒い招き猫は魔除けの力を持っているらしいのだが、七都の家を訪問したお客は、その招き猫に妙な不気味さを感じるのか、大きさに圧倒されるのか、たいがいドン引きするのだった。
七都は、その招き猫を持ち上げた。
お、重い。夢の中でも重い!
果林さんは、なんでこんなの買ったんだろ。
左手を高く上げた招き猫は無表情のまま、よたよたと足元がおぼつかない七都に、緑のドアの横まで運ばれた。
七都は緑のドアを開け、招き猫をやっとの思いで置いて、ドアを固定させる。
これでドアは、もう閉まらないだろう。
招き猫の前を通り、七都は向こうの世界に出てみた。
スニーカーの下に固い石畳があった。それは、確かに存在している。
夢なのに、なんてリアルなんだろう。
七都は、深く息を吸った。
どことなく、ハッカの匂いが混じったような、新鮮な空気。
吹き渡る風も気持ちよかった。
地上全体を覆っている太陽の光も、心地いい。
何というやさしい光。体をふわっと包み込むような……。
ただ太陽特有の、じんわりと浸透してくるようなあたたかさは感じられなかったが。
今、時刻はどれくらいなのだろう。
太陽の傾き加減では、夜明けと真昼の真ん中くらいか、それとも真昼と日の入りの間くらいか……。
七都は、ドアのことが少し心配になって、振り返る。
あの緑のドアは、ちゃんとそこにあった。
こちら側から眺めてみると、緑のドアは何もない空間に浮かんでいた。
ドアの背後には、ドームのような形の白っぽい小さな古い建物があった。
入り口はアーチ型にぽっかりと開いていて、内部の濃い闇が垣間見えている。
その両側には、猫のような動物の像が、左右で一対になるような配置で、神社の狛犬のようにうずくまっていた。
人の気配は、まるでない。ここはやはり、遺跡か何かなのだろう。
緑のドアの隙間には、七都の家の明るいリビングの一部が見えた。
七都が置いた黒い招き猫が、おいでおいでをするように、ドアの前で手を上げている。
なーんてシュールな風景。
夢だから、シュールなのは当たり前か。
七都は、あたりを見渡してみた。
この遺跡のある場所は、どうやら低い丘の上にあるようだ。
七都が立っているところは庭のようになっていて、石畳が続いている。
崩れた柱が並んでいるところで、石畳は終わっているようだ。
庭のあちこちに、自然に種が落ちて育ったらしい木々が茂って、風に揺れている。
木のシルエットも葉の形も、いつも見慣れたものとは微妙に異なっているような感じがする。
(あれ……?)
七都は、さっきまでとは何かが違っていることに気がついた。
制服が重い。それに着心地が変に悪い。そして、妙に歩きにくい。
七都は、スカートをつまんでみた。
「え――――――?」
ウエストが、ぶかぶかだった。
相当の空間が、七都のウエストとスカートの間に開いている。
上着の袖も、なんとなく長くなっているような気がする。
だいたい上着自体、こんなに大きかっただろうか?
それに、スニーカーは、今にも脱げそうな状況になっていた。ちょっと足を振ると、軽く飛んで行きそうだ。
七都は、両手をかざしてみた。
銀色の太陽の光を浴びて、やけに白かったが、その白さは、光のせいだけではなさそうだった。
こんなに肌は白くなかったはずだ。
それに、手のひらが少し小さくなったような……。
指は、前より細く、きれいになったような……。
第一、ペンだこがなくなっている。
腕も、ほっそりしたような気がする。
そして七都は、肩を覆っているものに気づいて、ぎょっとする。
髪だ。
長い髪が、肩から地面へ届くくらいに伸びていた。
七都は、髪は伸ばしていたが、肩から少し下くらいの長さだった。
いつも、それくらいまでと決めている。あまり長いと手入れが大変だからだ。
だが、今の七都の髪は、『肩から少し下』くらいなものではなかった。
髪は、石畳すれすれくらいにまで長く、風に吹かれて、ゆらゆらとなびいていた。
そしてその髪の色は、いつもの七都の黒髪ではなく、どう見ても、黒に近い緑色だった。
うわ。長っ。
「つまり、ここに来て、姿が変わっちゃったってことなんだ」
だが、そういうのもおもしろい。夢ならではだ。
というより、夢なんだから、そうでなくっちゃ。
ナチグロは美少年(虫?)に変身したわけだし。
七都は、石畳の庭の隅のほうに、平たい蓮のような花の形をした水盤を見つけた。
水はたくさん入っていて、紺色の空を映している。まるで鏡をそこに貼り付けたようだ。
七都は水盤の縁に手をかけて、覗き込む。
見知らぬ少女が、水鏡の中から七都を見上げていた。
透明な白い肌。葡萄酒色の目。妖精のような、ミステリアスな雰囲気……。
緑がかった長い黒髪が、水盤の周りにこぼれ落ちる。
「きれい……」
七都が呟くと、水鏡の中の少女の唇も動いた。花びらのような、可憐な唇。
その髪と目の色の組み合わせは、朝、央人が言っていたのと一緒だった。
七都は、そのことにふと気づく。
<その女の子の髪は緑っぽい黒髪で、目はワインレッド?>
「やーだ。お父さんがあんなこと言うから、おもいっきり影響を受けてしまってる」
七都は呟く。水鏡の中の少女が、微笑んだ。
……かわいい。
どきっとするくらい、かわいい。
それにやはり、見とれるくらいに美しい。
自分のことを自分でそう評価するのも何だが。
「ん~、なんて素敵」
口元が、自然とほころんでくる。
何せ夢の中なのだから。何と褒めようと、どれだけうぬぼれようと、当然許されるのだ。
体は、本物の七都よりは小さいようだった。
身長は百五十センチないかもしれない。
それで、制服や靴が大きくなったのだろう。
制服はサイズが合っていないのはもちろん、そもそも、それ自体似合っていない。
今の七都に似合うのは、ギリシアやローマ時代の衣装とか、中世ヨーロッパ風のドレスだろう。
そんな衣装をつけて水盤を覗き込んでいたら、間違いなく絵になるに違いない。
ただ、体は異様に冷たかった。真冬に雪の中で遊んで冷えた体のようだ。
外気はそれほど冷たくはないのに、なぜこんなに……。
(そういえば……)
七都は、思い出す。
玉座にすわっていたあの夢の中の少女に、似ているかもしれない。
あの少女の顔は、はっきりとはわからなかったが、白いドレスを着て赤紫のマントを羽織れば……。そして、金の冠を額にはめれば……。
バン――!!!
何かを無理やり閉じ込めるような、騒々しい音が響いた。
七都は、飛び上がる。
あの緑のドアの音だ。
しまった。
変身した自分に見とれていて、すっかりドアのことを忘れていた。
七都は、あわてて、緑のドアがあったところに戻った。
だが――。
ドアがない。
ドアがあったとおぼしき場所の下あたりに、巨大な招き猫が転がっている。
どうやら緑のドアは、招き猫をこちら側に引き入れて、閉まってしまったようだ。
招き猫ははずみでひっくり返り、そしてドアは消え失せた……。
「うそお……」
七都は、愕然とする。
ドアがあったあたりを手で探ってみるが、何もない。
周囲と同様の空気しかない。
七都の白い手は、虚しく宙を漂った。
どうしよう……。
ドアがなかったら、帰れない。
七都は途方に暮れかけたが、思い直す。
ちょっと待って。
冷静に考えてみなければ。冷静にっ。
取り敢えず自分を安心させなければ。
もともとドアは、消えるようになっていた。
うん。きっとそうだ。
だって、あのままここにあんなドアがあったら、不自然だもの。
こっちの世界にだって人はいるだろうし、怪しまれるよね。
だから閉めると消えるように設定されていた。
で、ナチグロだ。
あの猫(虫?)は、ドアを開けて出て行った。いつも頻繁にそうしているのかもしれない。
ドアを通り抜けて、リビングとこちらの世界を自由に行き来しているのだ。
だとしたら、またここに帰ってきて、ドアを開けて、リビングに戻る確率が高い。
果林さんが帰ってきたらごはんをくれるから、それまでに戻るはず。
ここで待っていれば、そう遠くなく、ナチグロは帰ってくる。
たとえナチグロが、変身した七都がわからなくて警戒しても、この巨大な招き猫のことは知っているはずだ。
いつも招き猫はリビングにあるし、前にナチグロは、招き猫の頭の上に乗っかっていたこともある。
正体が男の子だろうと、虫だろうと、招き猫のことはすぐにわかるに違いない。
だから、誰かがリビングからドアを通って出てきて、招き猫をここに置いたという事実は把握するだろう。それでもって、招き猫のそばにいる七都のことも、当然わかってくれる。
うん。間違いないよ。
「そんじゃ、ここで待っていようっと」
それに、第一これは夢ではないか。
七都は、付け加えた。
ナチグロを待たなくても、そのうち目が覚めるかもしれない。
これが夢ではないなんてことは、考えたくもなかった。
七都は、転がっている招き猫に手を伸ばした。
軽く押しただけで、招き猫は起き上がる。
あれ?
この世界では、招き猫は軽くなったとか?
それとも……。
「わたしの力が強くなった……?」
七都は、自分の細くてきれいな手を眺めたが、何の答えも出てこなかった。
七都は招き猫の横に、体育座りをしてうずくまった。
この世界で、唯一七都の世界のものは、この招き猫だけだった。
招き猫の小判に書かれている「開運」という文字が、何気になつかしく、いとおしいものに思えた。
周囲を探索する気には、何となくなれない。その間にナチグロが帰ってくるかもしれないのだ。
七都は、天を仰いだ。
それにしても、なんて心地よい世界なのだろう。
空は透明な紺色。太陽は、それなりにまばゆいが、ほとんど銀色に近い金色。
静かだ。
風が木々を渡る音しか聞こえない。
太陽は、さっきより沈んだ気がする。
もうすぐ夕方になるのだろうか。
銀色にきらめく透明なものが、ふわふわと空を飛んできた。
蝶だ。
それは、七都の周りをひらひらと頼りなげに旋回する。
羽根の向こうに、空が透けて見える。
「なんてきれいな蝶々……」
七都は蝶は苦手なのだが、その蝶は大丈夫そうだった。
蝶が飛んでくると、いつも身構えてしまうのだが、それが全くない。
やはり、夢の中だからか?
七都が人差し指をかざすと、蝶はためらうことなく、ゆっくりととまった。
まるで華奢なガラス細工のようだ。
いや、ガラス細工よりも、もっともろい。
だが、羽根をゆっくりと動かしている。
作り物ではない。生きている。
やがて蝶の背後の空に、透明のふわふわが、たくさん現れる。
七都の指にとまっているのと同じ蝶だった。
蝶の群れが、七都の周りを飛んでいる。
空と透き通った蝶たちが織り成す、幻想的な光景。
蝶は嫌いなはずなのに、その光景には、のめりこんでしまいそうな癒しさえ感じる。
蝶たちは、やがて七都の扇形にひろがった長い髪に、次々ととまり始めた。
七都の髪は、たくさんのリボンをつけたようになる。
現実の世界でこんな状況になったら、蝶が苦手な七都は、たぶん気を失ってしまうだろう。
眠い……。
ゆったりした眠気が七都を包み込む。
ナチグロが戻ってくるまで、ちょっとここで寝よう。
七都は、自分の膝にもたれかかった。
心地よい空間の中で、透き通った蝶たちに囲まれ、七都は眠りに落ちる――。