第2章 向こう側の世界 1
生物のテストは、散々だった。
わかっていたけどねー。
ヤマも当たらなかったし、そもそも問題の意味さえ、全然わからなかった。あんなこと習ったっけ。
中間テストは赤点ぎりぎりだったけど、今回は危ないかも……。
週末、昼前の住宅街。夏の太陽が高く上がり、空も気持ちがいいくらい青い。
アスファルトの地面には熱がこもり、日差しはきつかった。
これから八月に向けてますます暑くなり、カッテージチーズのような入道雲が、とんでもないくらいアップになって空に盛り上がるだろう。今は山の上あたりに、出来そこないのサンプルのように、低く集まって溜まっているだけだが。
明るい景色の中に、昼間のけだるさが漂う。風の中に、どこかの家の昼食らしいカレーの匂いも混じっている。
朝、登校するときは、耳が麻痺するくらいに鳴いていた蝉の声も、今は一切聞こえない。
たまに街路樹の葉の間をナイフのような羽根をきらめかせて、スーパーボール大の黒い球体が出たり入ったりする。それが朝の蝉の大合唱の存在を、かろうじて主張していた。
静かで平和な、夏の昼時の風景――。
七都は、その風景を横切って行く。
中学生のときは、多少勉強はおもしろかった。
予習は授業をはるか彼方まで追い抜いていたし、復習も完璧だった。勉強をすればするほど成績は上がった。
塾にも行ったし、受験勉強も一生懸命した。第一志望の高校に余裕で合格するためにも。
制服が素敵で、ずっとあこがれていた高校――。
紺色のセーラー服の制服。襟全体は白で、紺の線が一本ぐるっと入っている。
背中の襟の角には星のマーク。胸元にはアルファベットを組み合わせた校章の刺繍。スカートは紺色のプリーツ。スカーフも紺色。
制服自体も安っぽい紺色ではなく、黒に近い落ち着いた紺で、その微妙な色も七都は気に入っていた。
冬服もシックでそれなりにかわいいとはいえ、夏服のかわいさは格段だ。
スカーフとスカートは冬服と同じ色なのだが、上着の色は白になる。そして、襟は反対に紺色。線と背中の星マークも白。
ちょっとレトロっぽいところが、また素敵な制服だった。黒とか紺のハイソックスをはけば、さらに引き締まって、全体がとても渋くなる。
だが――。
一ランク下げた高校にしておけばよかったかも。
少しだけ、七都は後悔している。
七都が入学した高校は、この地域でも一、二を争う進学校だった。
授業の進み方も早いし、中学のときのように、のんびりと立ち止まってはくれない。先生たちは、もう大学受験のことも口にする。
正直なところ、高校生になった途端、勉強についていけなくなった。文系の学科はどうにかなっているが、理系はまるっきりわからない。一年の一学期からこうでは、先が思いやられる。
一ランク下の高校に行った中学時代の友人たちは、高校生活を満喫しているように見えた。
勉強がわからないなどということもないらしく、おしゃれやクラブ活動や彼氏のことが、高校生活の大半を占めている。
七都もクラブ活動はしているし、気になる先輩もいるのだが、勉強の悩みがない点は、彼女たちがうらやましい。
まあ、いいや。
まだ二学期も三学期もあるし、最終的に赤点だったら、追試を受ければいいわけだし。
でも、「ええっ! 追試いい?」と果林さんに叫ばれると、心がずきんと痛いだろうな、きっと。
追試に落っこちたら、留年だし……。
七都は、溜め息をつく。
今の高校に決めたのは、果林さんのためでもあった。
七都に何かあると、全部果林さんのせいになる。
七都がお稽古事をさぼったり、友達を泣かせたり、教室で騒いだり、男の子をたたいたり。
そういう原因のすべてが果林さんのせいなのだ。
<やっぱり、本当のお母さんじゃないものねえ>
聞き飽きたセリフ。
七都は、周囲のそういう単純さがわずらわしかった。
取り敢えずレベルの高い学校に入ってしまおうと思った。この学校に通っているということになれば、周囲は当分何も言わないだろう。
それで頑張ったわけなのだが、合格=ゴールではなかった。
ゴール地点で切ろうとしたテープは消えてしまい、はるか遠くにまた現れて風に揺られている。
やはり合格したあとも、頑張り続けねばならないらしい。気を抜くと、赤点だ追試だと、いろいろなものが襲い掛かってくる。
七都は、自宅の門扉を開けた。
家と塀の間は、果林さんが育てているハーブでいっぱいだった。
名前を知らないものがほとんどだが、そのへんの葉をちぎって匂いをかいでみると、りんごやレモンや歯磨き粉の香りがしたりする。
ハーブをちぎることもなく、玄関ドアの鍵を開けて、七都は家の中に入った。
家の中には、誰もいない。
果林さんは料理教室に行く日だし、父の央人は出張で、帰ってくるのは明後日だ。
がらんとした家の中は、どこか寂しい。ナチグロはいるはずなのだが、寂しさを中和するほど、ナチグロの体は大きくはない。
とはいえ、数時間したら果林さんは戻ってくる。新しいレシピを持って。たまに、作った料理を持ち帰ってくれることもある。
七都は、きちんと掃除が行き届いた廊下を通り、リビングのガラス扉を開ける。
ナチグロが、あの緑のドアの前で伸び上がっていた。
はっとして、体勢を立て直すナチグロ。七都も、一瞬固まった。
「な、なにしてたのっ?」
七都に詰問されて、ナチグロはあたふたと目線を漂わせ、それから自分のおなかあたりをわざとらしく大げさに舐め始める。
失敗したときやごまかすときの、猫特有の行動だ。
単にナチグロは、爪とぎをしようとしていたのかもしれなかった。ドアが爪あとだらけなのは、いつも彼が爪とぎに使っているせいなのだから。
けれども、七都は見逃さなかった。
ナチグロは、確かにドアの取っ手に前足を伸ばしていたのだ。
今からドアを開けようとするかのように。いつもそうやって開けているかのように。
白い前足が確実に取っ手にかかっているのを、七都はしっかりと見てしまった。
緑のドアの取っ手はレバーハンドルになっているので、ナチグロが軽くタッチするだけでも開く。
リビングと廊下の間のガラス扉もレバーハンドルになっていて、外出から帰って玄関の猫用ドアから入ったナチグロは、苦もなくガラス扉を開けてしまうのだ。当然、緑のドアも開けられるだろう。
ただ今まで、そういうことを考えたこともなかった。
緑のドアはどこにも通じていないので、ナチグロが開けなければならない理由は、何もないのだ。
ナチグロは、美羽がどこからか連れてきた猫だった。
ほぼ黒猫なのだが、尻尾の先と両前足の先だけが白い。前足は、手袋をはめているように見える。
目は緑がかった金色で、瞳は闇のように真っ黒だった。尾は異様なくらいに長い。
もともと美羽がつけた別の名前があったらしいのだが、央人は長くて覚えられなかったようだ。
美羽がいなくなった後、央人の「黒いから『ナチグロ』で十分だろ」という一言で、名前はナチグロになってしまったらしかった。
その時たまたま央人の近くに、黒飴もしくは碁石があったのかどうかは、定かではない。
ナチグロ自身はその名前を気に入っていないようで、「ナチグロ」と呼ばれても、決して振り返ることも、返事をすることもなかった。
七都よりも年上なので、猫でいえば相当な歳になるはずなのだが、雄にしては小柄なせいか、どう見ても子猫のようにしか見えない。
ナチグロは、再び伸び上がり、緑の扉の表面をひっかいた。
いつもの爪とぎ。
七都にはその行動に、やけくそとごまかしが確実に混じっているように思えた。
かりかりかりという乾いた音が、うそっぽく聞こえる。
なんなんですか、ぼくは爪とぎをしていただけなんですよ、とでも言っているような……。
「きみ、今、そのドアを開けようとしていなかった?」
ナチグロは答えずに、ソファに飛び乗った。そして、今から昼寝するんだから邪魔するな、とでも言いたげに、あっという間に丸くなってしまう。
「わたしの気のせいだって、言いたそうだね」
ナチグロは無視して、顔をおなかの毛の中にうずめてしまう。
だが、耳だけは、七都のほうにしっかりと向けられていた。
七都は、緑のドアのレバーハンドルを握り、ぐいっと引いてみる。
カチャリという軽い金属音がして、ドアが開く。
ドアの向こうは、相変わらず灰色のコンクリートだった。
なんだ……。
このドアを開けるときに味わう、おなじみの失望感。
当たり前だ。他に何があるというのだ?
「ん~。ひんやりして、いい気持ち」
七都は、コンクリートの壁に頬を押し付けて、横目でナチグロを見た。
ナチグロは、既にお餅の形をした黒い毛玉と化している。当分モチ毛玉でいることをやめる気はないらしい。
「ドアを開けて、何をしようとしていたの?」
七都はナチグロの隣に座って、長い尻尾を持ち上げてみた。するりと尻尾は七都の手から抜けてしまう。
思いっきり起きてるくせに。耳、立ってるし。
「あー、おなかすいた」
七都は、キッチンに移動した。
テーブルの上には、果林さんが作ってくれた料理が、きっちりとラップにくるまれて乗せられていた。
昼食のメニューは、ナシゴレン。上には、ほどよい半熟の目玉焼きも乗っかっている。
前にアジア料理のレストランに家族で入ったとき、ナシゴレンがあまりにもおいしかったので、七都が何度もそのことを言っていると、三日後には、果林さんが作ったナシゴレンが食卓に登場した。
もちろん、材料も作り方もよく研究された、家庭料理をはるかに凌駕する味のナシゴレンだった。
以来ナシゴレンは、七都の家の定番メニューとなっている。
冷蔵庫を開けると、キャベツときゅうりのサラダが入っていた。白玉の入ったココナッツぜんざいも冷えている。
「果林さん、絶対カフェオーナーとか出来るよね」
七都は昼食を食べながら呟いたが、ナチグロは当然、返事はしなかった。
食器を洗ってから、七都は二階に上がった。
自分の部屋に入り、ベッドに寝転がる。
制服、着替えなくちゃ。
夏休みになったら、当分、この制服ともお別れか。
ちょっと寂しいかも……。
七都は、伸びをした。
期末試験が終わったから、もう授業はない。
来週はクラス対抗のバレーボール大会があって、そのあとは夏休みだ。
とはいえ、夏休みも山ほどの宿題が出る。
でも、今はまだ、考えるのよそう。テストがやっと終わったところだもの。
疲れた……。
ココナッツぜんざい、おいしかった。ナシゴレンも。
七都は、目を閉じた。
昼食後の満腹感とけだるさが、体全体を覆っていく。
カチャ……。
どこからか、聞き覚えのある、微かな金属音がした。