第6章 魔王シルヴェリスの出立 5
三人は広間を後にして、螺旋階段の前に出る。
ナチグロは、ふらふらとした足取りで、七都とナイジェルについてきた。
「しっかりしなさいよ、ロビー何とかかんとか。酔っ払ってるの?」
「ううう」
ナチグロは、うめいた。
気分が相当悪そうだ。だが、顔は少し紅潮している。
「ナイジェル、彼に何をしたの?」
「別に。ちょっと挨拶しただけ」
ナイジェルが微笑んだ。ぞくっと総毛立つような、妖しい微笑だった。
ナイジェルは、確実に元気になっていた。立ち方も違うし、肌と髪の艶も違っている。冠の輝きも違うような気がする。ユードと戦っていたときとは、まるで比較にならない。
今の彼は、体全体に力がみなぎっている。妖気というかオーラというか、何かゆらめくパワーのようなものが、彼を包んでいた。
「ナナト、ぼくにつかまって。上まで飛ぶから」
ナイジェルが、七都に左手を差し出した。
「あ、でも、私、ひとりで上まで行けるようになったし……」
七都は、口ごもる。
「もうぼくは、昼間の不甲斐ないぼくじゃないよ。体力も回復したし、魔力も使える」
ナイジェルが、首をかしげた。
「……それとも、きみがためらうのは、ぼくが片手だから?」
「それもあるかも……」
あと、男の子にしがみつき慣れていない……というか、しがみついたことないし。
こういうシチュエーションで、『あ、そうですか。ではお願いします』なんて軽く言うには、ちょっと抵抗があるんだよね。
七都は思う。
「変な気は使わないでほしいな」
「でも、あなたの右手を見ると、胸が痛むのは事実だよ」
「それはいけないね。ぼくはきみと何のこだわりもなく、ごく普通に接したい」
ナイジェルは、カトゥースの陶製の容器の蓋をあけた。そして、逆さまにする。
カトゥースは、容器からこぼれ落ちたが、床には散らばらなかった。
空中に浮いて固まり、ナイジェルのなくなった右手に吸収されていく。
やがて、ナイジェルの右手があったはずの位置に、カトゥースで出来たコーヒー色の半透明の腕が現れた。精巧ではないが、指もしっかりと形作られている。
「あ。すごい……」
七都は、思わず呟く。
ナイジェルは、カトゥースの腕を伸ばして見せる。
「腕は生えてこないけど、魔力を使って、こういうことも出来てしまうってこと。これで気を使わないで済む? さ、どうぞ、お姫さま」
そういう魔法の手を見せられたら余計に戸惑って、どんな態度を取ったらいいのか、もっとわからなくなったが、とにかく彼は、七都が気を使ったことにさらに気を使って、わざわざそういう手を出してくれたのだ。
七都は黙って、ナイジェルのコーヒー色の手を取った。
ゼリーを鷲づかみにしたような感触だった。ゼリーを鷲づかみにしたことはなかったが。
ナイジェルは、七都に左手をぐるりと回した。七都は、ナイジェルの肩につかまる。
「魔王がこういうことをする魔神族は、そういないと思うよ」
「たぶん、そうなんだろうな。貴重な体験だね」
ナイジェルは、左手だけで七都を持ち上げる。カトゥースの右手は、軽く上に伸ばされていた。
「行くよ」
「うん」
七都は、ぼおっと立っていたナチグロの、マントの端をつかんだ。
ナイジェルが舞い上がると、七都につかまれたナチグロも宙に浮く。
ナチグロは、おそらく彼にとっては不本意な、マントで吊るされるというような体勢になったが、カトゥースの袋を抱えたまま、真っ直ぐ上がってきた。
ナチグロの背中から羽根が伸びて、弱々しく羽ばたいているのが見える。
ばさばさと頼りなげに羽ばたいているその羽根は、以前見た透き通った虫の羽根ではなく、もっと黒くて分厚い羽根――コウモリの羽根だった。
彼、虫じゃなくて、コウモリだったとか……。
そもそも、なんで彼には羽根がはえてるんだろ。
ナイジェルにも私にも、はえていないのに。メーベルルだって、羽根なんかなかった。これも、帰ったら聞いてみなくちゃ。
ナチグロの羽根を見下ろしながら、七都はひそかに決意する。
七都は、左手でナチグロのマントの端をしっかりと持ったまま、向きを変えて、右手をナイジェルの首に回した。
(お姫様だっこは、結局、最後、ナイジェルにしてもらえたわけなんだ……)
七都はナイジェルの首を抱き寄せ、彼の顎の下あたりに自分の額をつけた。
もう彼の体には、先程のぞっとするような冷たさはない。七都は、安心する。
コーヒーのいい香りがする。しめった地下の遺跡の匂いも。
闇に浸された空気が、七都の耳の横を上から下に通って行く。
この瞬間は、すぐに終わってしまう。もう二度とこういうことはないだろう。魔王に抱きかかえられて、螺旋階段を上がっていくなどということは。
第一、ナイジェルにはもう会えないかもしれない。たとえ会えたとしても、こういう状況は決してないだろう。
改めてそう思うと、螺旋階段の真ん中を上がっていくその短い時間が、とても大切なものに感じられた。
絶対忘れない。ナイジェルの胸の静かなあたたかさ。とても近いところにある、やさしい息遣いも水色の目も。
七都は、ナイジェルの目を覗き込んだ。
なんて透明な、きれいな色。せつないくらいに。
それは、いつまでもずっと見ていたくなるほどに、澄んだ色だった。
「きみは、魔王とわかっても、ぼくとちゃんと目を合わせてくれるんだね」
ナイジェルが、七都をやさしい眼差しで見下ろして、言った。
「だいたい魔神族はみんな、ぼくの正体がわかると、目も合わせてくれないから」
「人と話すときは、ちゃんと目を見なさいって、親からうるさく言われてきたもの」
ナイジェルは、くすっと笑った。
「きみはきっと、きちんとした家庭で育ったんだね。でもそれは、魔神族の中では苦労するってことかもしれないよ」
「魔神族とは、価値観が違うってこと? そうだね。それに、わたしはこの世界のことも、魔神族のことも魔王さまのことも知らないから、だからあなたに対しても、こういう態度が取れてるだけなのかもしれない」
「じゃあ、もし今度会えたときも、きみがちゃんとぼくの目を見て話してくれることを期待しよう」
光が近づいてくる。太陽の突き刺すような光ではなく、淡い心地よい光。青い月の光だ。
月は、藍色の空に控えめに輝いていた。地上は、銀色の薄い膜で覆われたようだ。
やはり、魔神族であるこの体は、月を選んでいる。焼け付く太陽よりも、穏やかな月が恋しい。
七都は、月を見上げて安堵する。
ナイジェルは、月の光が静かに満ちた石畳の上に、ゆっくりと七都を降ろした。
カトゥースの袋を抱えたナチグロは、七都の足元にごろりと転がる。
「本当は、きみを魔の領域に連れて行きたいところなんだけどね」
ナイジェルが言った。
「正直、きみと一緒に風の城に行ってみたい。リュシフィンにも会いたいし、きみが何者なのか知りたい。だけど、やめておこう。きみが差し当たってしなければならないのは、自分のいた世界に帰ることだから」
七都は、頷く。
「わたしも、その風の城とかに行きたいし、自分のことを知らなければならないと思う。お母さんのことも……。でも、今回はあなたの言うとおり、うちに帰る。家族が心配しているから。あなたに会えて本当によかった。ありがとう、ナイジェル」
「ぼくはきみに、お礼を言われることは、たいして出来なかったけど。感謝しなきゃならないのは、ぼくのほうだろう」
「でも、わたしを助けようとしてくれたもの。自分だって危険だというのに」
「確かに、魔王としては褒められた行動ではなかっただろうね。でも、きみを元の世界に無事に帰せそうだしね。こうなったこと、後悔はしていないよ」
ナイジェルは、七都の額に唇を押し付けた。
(あ。私には、おでこなんだ……)
七都は、少しだけ残念に思う。
「またおいで、この世界に。そして、魔の領域にもね。ここでは、ぼくたちは怪我をしても血は流さないけど、魔の領域では血は流れる。きみの涙も石にはならずに、本来の液体になって流れるだろう」
「あなたに、また会える?」
七都は、ナイジェルに訊ねた。
「たぶんね。きみがまたこの世界に来れば、きっといつか、どこかで会えるよ」
月の光の中に人間が三人、ひざまずいているのが見えた。セレウスとセージ、そしてゼフィーアだ。
ゼフィーアは頭を垂れていたが、セレウスは控えめに、こちらを見ている。
セージは、二人に押さえつけられるように、地面に伏していた。アヌヴィムの姉弟は、セージには魔王の姿は見せない決意をしているらしい。
「きみを助けてくれたアヌヴィムか。カトゥースを作ったのも、彼らかな」
ナイジェルは、セレウスをちらりと眺めた。
水の魔王とまともに目を合わせてしまったセレウスは、びくりと体を震わせた。彼の時間が、一瞬凍り付いて止まったかのようだった。それから彼は体を硬直させたまま、ぎこちない様子で俯く。
「ゼフィーア」
七都は、三人に近づいた。
「おねえさん、石を拾ってくれてありがとう」
「は、はい……?」
七都が声をかけると、ゼフィーアはわずかに顔をあげ、怪訝そうな表情をする。
七都は制服のポケットから、涙の石が入ったガラスコップを取り出して見せた。
「これは、私の涙なんだよ」
「え……っ」
ゼフィーアは、驚いた顔をする。魔神族に詳しいという彼女も、魔神族の涙のことは知らないのだろう。
「セレウス」
七都はコップを直し、反対側のポケットから小箱を取り出す。ユードに切り取られた髪を入れた箱だった。
「これは、あなたが持っていて」
七都は、箱をセレウスに差し出した。
「また、あなたたちに会えるように」
「よろしいのですか?」
顔を上げたセレウスは驚いた表情をしたが、素直に箱を受け取った。そして、それまでの頭を下げてひざまずく体勢に戻る。
「きみが彼にした行為は、それなりの意味を持つことになるよ」
ナイジェルが、戻ってきた七都に、おもしろがっているように言った。
「よくないことだった?」
「いや。きっときみにとっては、そう悪くはないことだろう。彼にとってどうかはわからないが。……さてと」
ナイジェルは、石畳に打ち捨てられたように置かれていたメーベルルの馬に歩み寄った。
彼が触れると、ウィーンという音が、馬から響く。
ナイジェルは、ひらりと馬に飛び乗った。
「ぼくは、これで帰ることにするよ。この機械の馬に乗れば、そう時間もかからずに帰れるから。それから、これも使わせてもらおう。風よけに」
鞍にかけてあった笑っている猫の仮面を、ナイジェルは被る。メーベルルが一瞬、蘇ったようだった。
だが、魔神としての迫力というか、凄みが違う。
彼のその姿は、はかり知れない影響力で、周囲の風景を確実に別のものに変えていた。それはやはり、ナイジェルが魔王であるせいなのかもしれない。
「寄り道せずに帰ってね。あなたは怪我人なんだから」
七都は、ぐったりしたナチグロからカトゥースの袋を取り上げて、馬の鞍に乗せた。
「カトゥースのお茶は、確かに美味だった。花も、家に帰って食べてみることにするよ」
仮面の奥から、本来のナイジェルの声とは程遠い、機械的な声がする。
「花はね、余ったら、乾かして枕の中に入れたらいいと思うよ。よく眠れるかもしれないから」
「そうしてみる。ナナト、ここでのことは夢じゃないから。向こうに戻っても、忘れないで」
「うん。忘れないよ、ナイジェル」
「では、さらばだ。ロビーディアングールズリリズベットティエルアンクピエレル、ナナトをよろしく」
ナイジェルはナチグロに声をかけたが、ナチグロはだらしなく、石畳の上に伸びたままだった。
ナイジェルを乗せた機械の馬は、両前足を揃えて宙に高く上げた。
ナイジェルの銀の髪がふわりと浮き、マントがなびく。額の冠が、得体の知れぬ生命を持っているかのような存在感に満ちて、輝いた。
青い月の光の中で、ナイジェルの姿は、妖しいくらいに美しかった。
ナイジェルは最後に、七都に向かって軽く右手を挙げた。
七都は、しばしその姿に見とれる。せつなく寂しい思いが、体の奥底から上がってくる。
(やっぱり素敵だ、ナイジェル。かっこいいよ、魔王さま。きっとまた会えるよね)
そして次の瞬間、ナイジェルと機械の馬は、月の光に溶けるかのように消えてしまった。
機械の馬の音だけが遠ざかっていくのが、かすかに聞こえた。
やがて夜の静寂が、青白く照らされた遺跡に戻ってくる。
七都は、後ろを振り返った。
「では、私たちも帰るよ、ナチグロ。……じゃなかった、ロビー何とかかんとか」
「ロビーディアングールズリリズベットティエルアンクピエレル!」
ナチグロが体を起こしながら、疲れ気味の声で言う。
「そんな長い名前、覚えられないよ。そうだ、ロビンって呼ぼう。ナチグロよりは、ましでしょ?」
「まあ、許そう」
ナチグロ、もといロビンが、相変わらず力のない弱々しい声で、だが、えらそうに呟いた。
「ロビン、うちのリビングへのドア、開けられる?」
「もちろん。それ、愚問だよ」




