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緑の扉 <ダーク七都Ⅰ>  作者: 絵理依
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第6章 魔王シルヴェリスの出立 3

「でも、ナチグロ、本当に戻ってくるのかな」


 七都は通路を歩きながら、ひとり言を呟く。


「もし、帰ってこなかったら……。わたし、ずっとナチグロを待って、この遺跡に住まなきゃならないとか。セレウスの家でやっかいになるわけにもいかないし。だいたい、ユードがいるものね。といって、ナイジェルに頼るのもなんだし」


 七都は、ためらうこともなく、ごく自然に螺旋階段の底にダイブした。

 落ちていく途中で、くるりと回ってみる。

 魔神族の体は、思ったとおりに動く。何と軽いことか。

 七都は膝を抱えて、そのポーズのまま、ゆっくりと闇の空間を地下へと下りた。


「だけど、長いことこの世界に居すぎると、何だかこの世界に取り込まれてしまいそうな気がする。元の世界の記憶が薄くなって、帰れなくなるような気がするんだよね……」


 七都は、優雅に石の床に降り立った。

 宙で渦巻いていた髪が、ふわりと背中におさまる。


「今度は、いつか地上で……空の高いところでこういうの、やってみようっと。そういう機会があればだけど」


 七都は、そこに置いておいたお茶の容器をつかみ、広間の扉を開けた。


「ナイジェル、ただいまっ」


 ナイジェルは相変わらず台の上に横たわっていたが、答えなかった。

 先程と同じように、固く目を閉じている。


「あのアヌヴィムの魔女さんは、ちゃんと地上に連れて行ったからね。彼女の弟と従妹がちょうど上にいたので、引き渡しといた」

「ありがとう……」


 ナイジェルが囁くように言った。話すのがつらそうだ。

 七都は、台に近づいた。


「もしかして、具合、悪くなってる?」

「いや。随分よくなったよ。ただ……」

「ただ?」

「別の問題が起こっているから」

「そうなの?」


 七都は、ナイジェルを見下ろした。

 冠を額にはめて横たわるナイジェルは、やはり妖しいくらいに美しい。ますます彫像めいている。


「カトゥースのお茶、飲む? 採れたてのお花もあるよ。いっぱいもらってきた」

「ナナト……。きみは、すばらしいよ。きみは無事に戻ってきた。地上では何も問題を起こさなかったらしいね。おまけに、新しいお茶と花まで調達してきた」

「たまたま運よく、親切なアヌヴィムの魔法使いさんたちに出会えたもの。この遺跡の管理をしてる人たちにね。そんでもって、その家でユードも世話になってたから、彼に切られた髪も取り戻してきたよ」

「さらに、すばらしい」


 七都は、カトゥースのお茶をガラスコップに入れようとして、そこに中身の入った別のコップがあるのに気づく。

 それは、七都の涙の石だった。

 ガラスコップの中には、床に散らばったはずの七都の涙が、きちんと入れられていた。


「涙……。集めてくれたの? その体で?」

「ぼくじゃない。さっきのアヌヴィムの魔女……ゼフィーアだ。魔法を使わず、一つずつ拾ってくれた。嫌そうだったけど」

「あらら。今度会ったら、お礼を言わなくちゃ」


 七都はカトゥースのお茶をコップに注いだ。


「もうアイスコーヒーになっちゃったけど。少し飲んだら? 絶対気分がよくなるよ」

「ナナト、ぼくに近づくな」


 ナイジェルに言われて、七都はコップを持ったまま、立ち止まる。


「それは、やっぱり、相当具合が悪いってこと?」

「日が沈んだ。ぼくはもう、自分を抑えられなくなる」

「え?」

「きみを襲わないと約束できない。出来ればきみも、ここから出て行ってほしいくらいだ」

「……」


 七都は、固く目を閉じて横たわるナイジェルを見下ろした。


「うーん。襲われるのは、やだな」

「じゃあ、それ以上近づくんじゃない」

「日が沈むと人格が変わっちゃう? それとも化け猫に変身するとか?」

「似たようなものかもしれないね」

「ねえ、ナイジェル。あなたは魔王なの?」


 広間の青い空間が一瞬凍りついたかのように、七都には思えた。

 冠が、妖しくきらめく。


「そうだよ。水の魔王シルヴェリスと呼ばれている」


 少し間をおいて、ナイジェルが答える。


「こわい?」

「……特にこわいとかは思わない」

「そう。よかった……」

「ユードは、あなたが水の魔王だってこと知ってたよ」

「なんだ。ばれてたのか。残念だな」


 ナイジェルは、弱々しく微笑んだ。

 彼の目が、開く。

 その目は、宇宙の闇を切り取って嵌めこんだかのような暗黒だった。


「うわ。目が真っ黒」


 そうか。私もユードをおちょくってた時、こんな感じだったんだ。あと、二本目のエヴァンレットの剣を壊したときも、たぶん……。

 七都は、思った。


「こわくないって言ったけど、その目はこわいよ」

「喉が渇く。からからに干からびている」


 ナイジェルは呟いて、左手を宙に伸ばした。


「だから、カトゥースのお茶を飲みなさいってば」


 七都はコップを握りしめて、再びナイジェルが寝ている台の傍に歩いた。

 そして、ゼフィーアがしていたように、台の上に腰掛ける。

 コップをナイジェルの顔に近づけたが、飲んでみようという意欲も、その気配も感じられなかった。


「飲んで、ナイジェル。お願いだから」

「実はぼくは、それを飲む習慣はない」


 ナイジェルが言った。

 目は暗黒なのに、それまでと変わらずに話しているのが、あまりにも異様で不気味だった。


「人に勧めといて、何無責任なこと言ってるんだよ。これ、割とおいしいよ。花はどちらかといえば、まずいけど。でも、両方とも、体を元気にしてくれる力を確かに持ってる。私も、随分元気になったもの」

「……」


 ナイジェルは、黙ったまま答えない。


「どうしても拒否するってわけだね。仕方ない」


 七都は、深呼吸をする。


「こういうことは、ドラマやマンガの中のことだとばかり思ってたんだけど」


 七都はコップの中のカトゥースを、くいと口に含んだ。

 そして、ナイジェルの顔にゆっくりと近づき、彼の唇に自分の唇を押し当てる。

 冷たい唇。氷のようだ。だが、やわらかい。

 七都の口の中に含んだカトゥースは、歯の間を通り抜け、徐々になくなった。

 唇を通して、カトゥースがナイジェルの口の中に、確実に流れて行く。

 ナイジェルは、とても長い、だが、とても穏やかな呼吸をした。


(私のファーストキスは、ナイジェルってことになっちゃうのかな)


 七都は、ナイジェルの顔を見下ろした。

 目の中に溢れていた暗黒が、溶けるように縁から徐々に消え去って行く。

 やがて、ゆっくりと、ナイジェルの透明な水色の目が戻ってくる。


「ほら、気分がよくなったでしょ」


 ナイジェルの目は元に戻ったが、その瞳は黒い針のようだった。

 彼は目を見開いたままで、相変わらず話そうとはしない。


「昼間の猫の目みたい。ナイジェル、ネコ耳とか付けたりしたら、きっと似合うよ」


 七都は、ナイジェルの髪を撫でた。

 ナイジェルの左手がすっと伸びて、七都の手首をつかむ。ぞっとするほど冷たい手だった。


「もっと飲む? 今度は自分で飲んでよね」


 七都は、一抹の不安を覚え、ナイジェルの指を無理やり手首から引き剥がした。

 それから、代わりに、カトゥースが入ったガラスコップを彼の手に押し付ける。


「七都さんっ!!!!!」


 そのとき、扉の付近で、誰かが叫んだ。

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