第6章 魔王シルヴェリスの出立 2
七都は暗黒の空間の中で、渦巻くように地下へと続く螺旋階段を見下ろした。
「この荷物を持ってこの階段を下りるのは、やっぱりちょっとつらいかな」
七都は、階段の底を覗き込んだ。
光はなかったが、魔神族である七都には、底ははっきりと見える。
「もしかして、出来るかも」
それは、エヴァンレットの剣を破壊出来ることが何となくわかった時の感覚に似ていた。あのときよりも、確信はある。
何かがどこからか教えてくれているわけではない。知っているのだ。魔神族の体が、覚えているとでもいうのだろうか。
今まですっかり忘れていたことを少しずつ思い出しつつあるかのような、奇妙な感覚。
七都は螺旋階段の、ぽっかりと開いた真ん中の空間に向かって、手を広げた。不安はない。
「前から一度、やってみたかったんだよね。螺旋階段のいちばん上から、こうやって……」
七都は、階段を蹴った。
体が階段に囲まれたその空間に投げ出される。だが、そのまま急降下はしなかった。
ゆっくり、ふうわりと、まるで鳥の羽根が落ちるように、七都の体は降りていく。
「こうやって、底まで下りるの。ほら、ちゃんと出来てる」
地下に降りていくという感覚が、心地よかった。
闇は、ゆるやかに七都を包み込む。
やがて七都は石の床の上に、とんと降り立った。
「やっぱり、出来た。やったね!」
七都は、軽くガッツポーズをしてみる。
「ん?」
七都は、正面の、広間へと通じる扉に顔を向けた。
違う。
先程ここを出た時とは、何か雰囲気が違っている。
<何かが違っています。違和感が……。館の空気が乱れている>
カディナが侵入したとき、それを感じ取ったセレウスがそう言ったが、たぶん同じだ。
誰かが空気を乱している。
そして何よりも、微かに漂うこの甘い香り。お香が炊かれたような……。
こんな香りは、出て行くときはしていなかった。何者かがここに入ってきたのだ。
「ナチグロ?」
七都が扉の前に立つと、扉は静かに開いた。
もう手を置かなくても、一瞥しただけで扉は開く。扉が七都の意志を汲み取ったかのように。
少しずつ、魔力の使い方のコツが、わかり始めたような気がする。
七都は、青い光に照らされた広間に入った。
甘い香りが、さらに濃くなる。
そして七都は、台の上を見て思わず立ち止まる。
そこには、ナイジェルが同じ姿勢で横たわっていた。
冠が、きらきらと光っている。だが、ナイジェルの上には、流れるように長い赤い髪の少女が、屈み込んでいた。
少女は、広間に入ってきた七都を振り返った。どこかで見たような緑色の目が、七都を凝視する。
七都の肩から、カトゥースの袋がどさりと落ちた。
「ご、ごめんなさいっっ!!!!!」
七都は叫んで、広間の外に走り出た。
そして、閉じた扉にもたれかかる。
えーっ。
え――――っ!!!!!!!
あれ、誰?
あの子、魔神族じゃない。たぶん、人間だ。ただの人間っぽくはないけれど。
ナイジェルの……彼女?
う、うそお。
でも、あの接近の仕方はっ。
そ、そりゃあ、彼は素敵だから、当然恋人がいたって不思議じゃないけど。
そんな話、全然しなかったし。
でも。でも……。
だけど、彼女じゃないとしたら、じゃあ、誰よ?
「ナナト!!」
広間から、ナイジェルの声がした。
「ナナト! このお嬢さんを地上まで送り届けてくれないかっ!?」
「え?」
七都は、おそるおそる扉を開けて、広間を覗いてみる。
「あら、魔王さま。とうにお目覚めでしたのね」
少女が、憮然として言った。
ナイジェルは、目を閉じたまま、横たわっている。
七都は、再び広間に入った。
そして、ナイジェルのそばにいる少女をまじまじと観察する。
台の上一面に広がった赤い髪は、七都よりも長い。そして、透き通るような白い肌。緑色の目。
髪の色は、たぶんセレウスと同じだ。この青い空間の中では薔薇色っぽく見えるが、おそらくもっと朱色に近い色に違いない。
緑の目も、セレウスと似ている。色だけではなく、その形も表情も。
セレウスを女性にして、もっと華奢で妖しげで透き通るような雰囲気にしたらこんな感じになるだろうという、まったくその通りの美少女だった。
「あなた、ゼフィーア?」
七都が名前を口にすると、少女は目を見開き、顔を引きつらせた。
「やっぱり、そうなんだ」
だが、見た目の年齢は、明らかにセレウスのほうが上だ。
「あなたさまは? 魔貴族の方ですか?」
ゼフィーアは、さぐるように七都を眺めた。
「シルヴェリスさまの恋人ですか? お妃さま?」
「姉弟そろって、同じようなこと聞かないでよね」
七都は、ゼフィーアに言う。
「あいにく、ぼくには恋人もいないし、妃もいない」
ナイジェルが、横から付け足した。
あ、そうなんだ。よかった。
七都は、心持ち胸を撫で下ろす。もっとも、だから? という感じではあったが。
ゼフィーアは、ここでいったい何をしていたのだろう。ナイジェルの看病だろうか?
「この人を外まで送ればいいの、ナイジェル?」
「そう。なかなか帰ってくれないから、困っているところだ」
七都は、ナイジェルが横たわっている台に近づき、ゼフィーアに手を差し出した。
「では、どうぞ、ゼフィーア。お帰りはこちらだよ」
ゼフィーアは、あきらめたように素直に従い、七都の手を取る。ユードやセレウスと同じ、人間の体温の高い手だった。
「もっと醜い下級魔神族が来るのかと思っておりましたけど。かわいらしい方ですのね」
ゼフィーアが微笑んだ。その微笑も、セレウスによく似ている。
「それは、どうも。あなたもなかなか素敵だけど」
七都が言うと、ゼフィーアは、大きな吸い込まれるような緑色の目で七都を見つめた。
「ナナト。彼女の目を見るんじゃない!」
ナイジェルが叫んだ。
「うん。人間とにらめっこしちゃいけないものね」
だがゼフィーアは、必要以上の距離で、七都にくっつくように立っている。
「おねえさん、近すぎるよ」
七都は、眉を寄せる。
「ま、あなたも魔王さまに負けず劣らず、つれないのですね」と、ゼフィーア。
「私は、だって、そういう趣味ないもん」
「まあ、そうですの」
ゼフィーアは納得したように、少しだけ七都から離れた。そして、七都に訊ねる。
「弟にお会いになりまして?」
「会ったよ。カトゥースの花と、お茶をくれた。感謝してる」
「カトゥースの花とお茶ですって? それだけですか?」
「もらったのはそれだけだよ」
「まあ、なんてこと」
ゼフィーアが、溜め息まじりに呟いた。
いったい何なのだ?
何かもらい忘れたものがあったのだろうか?
セレウスにしても、ティエラにしても、何か大切なことをわざと言ってくれなかったような気がする。
「そのアヌヴィムをさっさと連れて行ってくれ、ナナト!」
ナイジェルが、再び叫んだ。
「うん、そうする」
七都はゼフィーアの手を取り、扉の外に引っ張り出した。
二人が出ると扉は、七都の意志を受けて、ぴったりと閉まる。
「わたくしは、まだ帰りませんよ。魔王さまにも、そしてあなたにも、力が必要です」
ゼフィーアは、七都の手をつかんだまま、離そうとはしなかった。
「あなたもまた、しつこいね」
七都は、肩にかけていたお茶の容器を下に置いた。
「ちょっと失礼」
それから、ゼフィーアの背中と膝の下に手を伸ばす。
「な、なにを……!!」
七都は、ゼフィーアの体を持ち上げた。
「お姫様だっこ。まさか私がするとは思わなかった。やっぱ、するよりされるほうがいいんだけど」
ゼフィーアは七都より少しだけ背が高かったが、彼女の体は負担に思うほど重くはない。
「おねえさん、わりと軽いんだ」
「お、おろしてくださいませっ!」
ゼフィーアが戸惑って叫ぶ。
「もうちょっと我慢して」
七都は、石の床を思いきり蹴った。
ゼフィーアを抱えたまま、七都の体は、ふわりと浮かぶ。
七都は、螺旋階段の真ん中をゆっくりと上がった。
まるで暗い水の底から水面まで、真っ直ぐに移動するように。
七都は、階段の最上段に降り立つと、ゼフィーアをそのまま運んだ。
入り口が白く光っている。
それは次第に近づき、この日最後の太陽の光に照らされた遺跡の風景が、はっきりと見えてくる。
七都と、七都に抱えられたゼフィーアは、外に出た。
白い光が、巨大な空間となって、とてつもなく広がる。
沈む前の太陽の光とはいえ、頭がくらくらするくらいに眩い。
「あ……」
ゼフィーアは、驚いたように七都を見つめる。
まだ太陽の光が満ちているというのに、自分を抱えているこの魔神族は、その光の中に平気で立っていられるということに気がついたのだ。
「私は、太陽は大丈夫だから。気にしなくていいよ。なんか特殊な魔神族みたいだから」
「太陽の光の中にいられる魔神族というのは、わたくしが存じ上げているところでは、地の魔王エルフルドさまを始め、ごくわずかな方のみです」
「そう。その地の魔王さまとやらに、真っ昼間に会ってみたいな」
「ナナトさまっ!」
そのとき、セレウスの声がした。
セレウスとセージが、駆け寄ってくる。
「あ……姉上?」
「ゼフィーア?」
二人は、七都が抱えている人物が、姉であり従姉であるゼフィーアだということに驚いたようだった。
「あなたたち、まだ帰ってなかったの?」
七都はあきれて、二人を見比べる。
別れの挨拶をきちんとしただけに、何となく気まずい。
「まあ、ちょうどよかったけど」
七都は、やっとゼフィーアを下ろした。
セレウスは、彼女を抱きとめる。
「姉上、この下におられたのですか?」
セレウスが訊ねた。
「では、魔王シルヴェリスさまにもお会いしたということですね。よく無事で戻って来られましたね」
「収穫はありませんでした」
ゼフィーアが言った。
「私に魅力がなかったのかもしれません」
彼女は、うなだれる。
つまりゼフィーアは、ナイジェルに『取り入ろう』としたのだ。
相変わらず七都には、『取り入る』ということがどういうことなのか、いまいちわからなかったが、それは何となく理解できた。
「おねえさんは、十分すぎるくらい魅力的だよ。でも、まあ、それぞれ好みってものもあるから」
七都は呟いた。
本当はどこかに、ナイジェルが彼女を拒否してくれて、ほっとしている自分が確かにいる。
「魔王さま方のご趣味は、確かに未知ですね」と、セレウス。
「魔王さま方は、ごく稀な例外を除いて、通常、人間を相手にされない。アヌヴィムの魔法使いといえども、やはり人間。もちろん、それは、わかっていたのだけど」
ゼフィーアが言った。
「では、その、ごく稀な例外に賭けたのですか」
セレウスが諌めるようにゼフィーアを見つめ、溜め息をつく。
「なんと大胆なことを、姉上!」
「引くに引けなかったということもあります。ここが魔王さまの神殿として使われていたのなら、きっといつかどなたかが姿を現して下さるのではないかと、子供の頃から漠然と夢見ていました。でも、実際、本当に現れた水の魔王さまを前にすると、どうしたらいいのかわからなくなって、ただ気だけがはやり、勢いで行動してしまった……。シルヴェリスさまは、私には何もされませんでした。それは私にとっては、運がいいことだったのかもしれません」
「おそらくそうでしょう。もう無謀なことはしないで下さいね」
セレウスが言った。
遺跡の地下の広間で妖艶な雰囲気を漂わせていたゼフィーアも、地上では、無力なただの少女のようだった。
行き倒れの病人を家に連れ帰って手当てをする彼女は、本当は心のやさしい普通の人間の女性なのかもしれない。七都は、思う。
「では、おねえさんは確かに返したから。私は戻るね。あなたたちも町に帰ったほうがいいよ。もうすぐ暗くなる。ここでは太陽が沈んだあと、人間がむやみに外に出てるのはいけないことなんでしょ」
七都が忠告すると、セレウスは首を振った。
「暗くなったら、あなたは緑の扉の向こうの世界に帰られるのでしょう。それを見届けます。それまでここにいさせてください。あなたがいなかったら、きっと姉はここにこうして無事にはいられなかったのですから。その感謝の印として」
「そう。じゃあ、気をつけて。あ、もし、虫の羽根のはえた魔神族の男の子がここに来て、あなたたちに友好的じゃないことを何かしようとしたら、私の知り合いだと言ってね。で、下の広間に来るようにって伝えてくださいな」
「かしこまりました」
セレウスは、丁寧に頭を下げた。




