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緑の扉 <ダーク七都Ⅰ>  作者: 絵理依
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第5章 魔法使いの館 11

「ちょっと寝すぎたかな」


 七都は、呟いた。


「早めに遺跡に帰らなくてはいけなかったのに。ナイジェル、心配してるかも……。もし起きてたら、すっごく心配してるだろうな。黙って出てきたし。でも、彼があのままずっと眠ってたら、早めに帰っても暇なだけなんだけど」


 太陽は既に頂上を通り過ぎ、随分傾いているように見える。

 地上に戻った七都とセレウスは、再び回廊を並んで歩いた。

 午後のけだるげな陽の光が中庭に注いでいる。回廊のあちこちにいた猫たちの姿は、今はもうなかった。


「でも、あのお茶を飲んで、お花を食べて少し寝たら、気分がとてもよくなったよ。元気が出てきた感じ。太陽も、そんなに鬱陶しく思わないし」


 七都は、歩きながら両手を突き上げて、うーんと伸びをする。


「……あの、ナナトさま。お聞きしてもいいですか?」


 収穫したカトゥースの袋を抱えて、黙って歩いていたセレウスが言った。


「ん? なあに?」

「そのナイジェルというお方……。我々は水の魔王さまのことは、シルヴェリスさまというお名前でお呼びしていますが……。その方は、あなたの恋人か何かですか?」


 七都は、ぶんぶんと首を激しく振った。


「まさかっ。だって、ナイジェルとも会ったばかりなのに。そりゃあ、ナイジェルには助けてもらったし、いろいろ心配してもらったし、教えてもらったし、第一、彼は何かとやさしかったけど、そんな感情は、まだ……」


「まだ? では、将来的にはそういう感情を抱かれるということですか」


 セレウスが、暗めに訊ねた。


「そんなのわからないよ。未来のことなんて、誰にも予測できないでしょ。でも、確かにナイジェルは素敵だと思うけど」


「……そうですか」


 セレウスが、溜め息をつく。


「あ、あなたも素敵だから。ね。わたしが住んでる世界にもしあなたが来たら、女の子たちはみんな、絶対に振り返ると思うよ。街を歩いたら、俳優とかアイドルのスカウトも、いっぱい来ると思う」

「それは、どうも……。あなたが後半おっしゃったことはよくわかりませんが、たぶん褒められているのでしょう」


 相変わらず、暗い感じでセレウスが言う。


「遺跡に帰られたら、それからどうされるのですか?」

「それから? 太陽が沈んだら、たぶんうちの飼い猫のナチグロが帰ってくるから……あ、その猫も、たぶん魔神族。そのナチグロと一緒に扉を開けて、元の世界に帰る。ナイジェルは、魔の領域とかにある自分のお城だか宮殿だかに帰るんじゃないかな」

「では、もうすぐお別れなのですね」


 セレウスは言ったが、はっと顔を上げ、二階へと続く階段を見つめる。


「どうしたの?」

「何かが違っています。違和感が……。館の空気が乱れている」

「そういえば、猫たちがいないけど……」

「走ります!」


 セレウスは言うなり、カトゥースの袋を素早く床に置き、音をたてずに階段を駆け上がった。

 七都も、あとに続く。



 廊下を走ってユードの部屋の前で立ち止まったセレウスは、扉に耳を押し当てた。

 遅れて到着した七都も、セレウスの隣で同じように耳をつけてみる。


「話し声がする。ユードと女の子の声だ」


 七都は囁いた。


「おそらくユードの仲間でしょう。開けますよ」


 セレウスは、勢いよく扉を開けた。

 ベッドのユードが振り返る。

 窓にしがみついていたカディナは、部屋に入ってきた二人を思わず交互に眺めた。


「これは、先ほどの魔神狩りのお嬢さん」


 セレウスが、にこやかに言った。


「行儀がいいとはいえませんね」

「仕方ないでしょ。中に入れないんだから」


 カディナは、セレウスを睨んだ。それから七都に視線を移し、眉をひそめる。


「その人、魔神……? こんな昼間の時間に?」


 カディナは、エヴァンレットの剣を鞘から抜いた。

 剣は相変わらず、青味がかった銀色に、ぼうっと光っている。


「ほんとだ。全然反応しない……」


 カディナは、呆然と呟いた。


「カディナ! その剣をしまえ! 破壊されるぞ!」


 ユードが叫ぶ。


「そんな、片っ端から粉々にはしないよ」


 七都は、少しむっとして言った。


「今のところその子には、わたしをどうこうしようって気はないみたいだしね」

「だいたい、どうこう出来ないでしょう。それに、エヴァンレットの剣は粉々にすべきですね。そういう力をお持ちなら」


 セレウスが言う。

 カディナは慌てた様子で、剣を鞘に収めた。


「カディナさんとやら。お仲間と話が出来てよかったですね。でも、そろそろお引き取りいただきましょうか」


 セレウスは、あくまでにこやかに話しかけた。


「それとも、一緒にお茶でも飲みますか?」

「冗談でしょ」


 カディナは、セレウスを睨み付けた。


「あ。わたしも彼女とお茶飲みたいな。彼女、かわいいし」


 七都が言うと、カディナは、今度は七都を睨んだ。


「いいですね。新鮮なカトゥースで、花のお茶を作りましょう」


 セレウスが、微笑む。


「人間も、あのお茶飲めるの?」

「飲めないことはないですよ。ただ、一般の人は決して飲みませんけど。飲むといえば、一部のアヌヴィムと、ごく一部の特殊な人間でしょうね。人間にとっても、そんなに味はまずくはないですよ」

「あんなまずいもの、魔神族しか好まん」


 ユードが呟く。


「飲んだことあるんだ」

「飲んだことあるんですね」


 七都とセレウスは同時に言って、顔を見合わせた。

 ユードは、二人の反応を無視して横を向く。


「取り敢えず、きょうは帰る」


 窓枠につかまっていたカディナが、体を少し伸ばして言った。


「そのほうがいい。とっとと行け」と、ユード。

「じゃあ、ユード、また……」


 カディナが言いかけたとき、猫たちがユードのベッドから移動した。

 床に下り、尻尾を立てて、カディナがいる窓に近づく。


「あなたは猫が好きなのですね。猫たちは、そういうことを一瞬で見抜きますから」


 セレウスが、カディナに笑いかける。

 猫たちは、窓とカディナを見比べた。明らかに、どこか適当に乗っかれるところはないかと探しているようだ。

 やがて猫たちの中の一匹が、カディナの膝に照準を合わせ、体を低くした。銀色の毛の大きな猫だ。


「だめよ! この窓には魔法の壁があって、ぶちあたってしまうわ」


 カディナが、まさに飛び上がろうとしている猫に叫ぶ。

 だが、猫はしなやかに床を蹴った。そして、窓を突き抜け、目的地であるカディナの膝に着地する。


「なんで……」


 大きな猫にしつこくすりすりと頬ずりされながら、カディナは力なく呟く。


「猫たちには、その窓の透明な障壁は、問題なく通り抜けられるようにしてありますから。この館の住人とお客さまもね。通れないのは、外部からの招かれざる方と、ここから出て行ってもらいたくない方のみです」


 セレウスが説明する。


「つまり、今現在では、カディナと私ということか」


 ユードが言った。


「ま、そういうことです。でも、あなたに関しては、私としては、いつ出て行っていただいてもかまいませんよ」と、セレウス。


 銀色の猫は、カディナの膝から肩へと移動した。それから、カディナの頭に前足を乗せて、伸び上がる。


「や、やめて。動かないでっ」

「その猫は、この館でいちばん重い猫です。気を付けてくださいよ」


 セレウスが注意する。

 床に座ってカディナと銀猫を観察していた黒猫が、鞠のように、ぽんとはずんだ。カディナの背中には、黒猫が追加される。


「あ。あーっ!!」

「やっぱり、みんな、居心地のよさそうなところには乗ってみたいんだよね」


 七都は、解説した。

 部屋にいた猫たちは、それを実証するように、次々とカディナめがけて飛び上がる。


「私の体のどこが居心地いいっていうのよっ。やめなさいっ……! 下りられないじゃないっ!」


 そこは二階なので、それほど高い場所ではない。いつものカディナなら、簡単に下りられる高さだ。

 だが、着地するべき地面を見下ろして、カディナは、うめき声をあげた。

 そこにも猫たちがたくさんいて、カディナを見上げていた。

 まるで猫の絨毯だ。これでは、猫を蹴散らさなければ、地面に到達することは不可能だ。

 銀猫が、カディナの腕に乗った。痩せた少女の腕一本で支えられる重さではなかった。おまけに、黒猫がカディナの足にぶらさがる。

 白猫と金猫は膝の上でくつろごうとし、さらにもう一匹、ちょうどカディナの膝に爪を立てて飛びついたところだった。


「あーっ!!!!」


 カディナは、窓枠から滑り落ちた。

 カディナに乗っかっていた猫たちは、素早くカディナから離れ、それぞれ難なく地面に着地する。

 下の猫たちの上に落ちるのを避けるために、一瞬カディナは、体をねじって向きを変えようとした。

 けれども、猫たちがその方向にわざわざ移動したから、たまらない。完全にバランスを失って、地面に激突することになってしまった。

 猫たちは、蜘蛛の子を散らすようにさーっと引いて、カディナを遠巻きにして眺めた。


「痛っ! いたいっ!!! 腕がっ!」

「……猫好きが命取りだ」


 ユードがベッドの上で溜め息をつき、額に手を当てた。


 セレウスは、窓から下を眺めて確認し、優雅な動作でふわりと地面に飛び降りた。

 それから、痛さに呻いているカディナの傍に立つ。


「その様子では、骨が折れてるかもしれませんね」


 セレウスは、腕を押さえているカディナを見下ろして、屈みこんだ。


「さ、さわるな!!」


 カディナが叫ぶ。


「この高さから飛び降りて骨折とは、ろくなものを食べていないようですね」


 セレウスは、カディナを軽々と抱え上げた。


「はなせ! 下ろしてよっ!」


 カディナは、じたばたと暴れて抵抗する。


「暴れると治るのが遅くなりますよ。あーあ。また一つ部屋を用意しなければなりませんねえ。別に、魔神狩人専門の病院を始めたわけではないんだが。姉上が帰って来られたら、病人が増えててびっくりされるでしょう。ところで、あのけたたましい犬は?」


 セレウスは、おとなしくなったカディナに訊ねた。


「この町の宿に置いてきた」

「では、宿の主人に、当分世話をしてもらうように頼まないといけませんね」


 セレウスは、カディナをあっさりと運んで行く。



「あー、お姫様だっこだ。いいなー」


 七都は、窓から下の二人を見下ろした。

 カディナを阻んだ見えない魔法の壁は、七都には全く感じられなかった。


「やっぱりわたしも、さっきしてもらったほうがよかったかも。セレウスって見た目より力あるんだ」


 言ったあと、ユードと思いっきり目が合う。灰色の冷たい目が七都を眺めた。


「あ、あなたには、関係ないことだから」

「意味がわからん」


 ユードは呟いて、枕に頭をうずめる。


「あのカディナさんって子、今はちょっと痩せすぎって感じだけど、もっと食べて栄養を取ったら、きっときれいになるよ。髪も艶が出るだろうし」


 七都は、ユードに話しかけた。


「なんか、いろいろきれいにしてあげたいっていう衝動にかられる子だね。ドレスの着せ替えとか、お化粧とか。男装なんかも似合いそうだし。楽しそう」

「玩具にしようとするな」と、ユード。「あんたは、いつまでここにいる気だ?」

「わたしは、これから帰る。お花とコーヒーをもらって、遺跡に戻って、それから日が暮れたら、自分の世界に帰るよ。あなたの前からもうすぐ消えてあげるから、それまでの我慢ってこと」

「では、自分の世界に帰ったら、ずっとそこにいることだ。ここにまた戻ってこようなどとは考えずにな」

「それはわからない。私は、ここでまだまだ知らなければいけないことがあるみたいだもの」

「言ったはずだ。今度あんたと会ったら、私はあんたを殺さねばならん。太陽に委ねるなどという生ぬるいことは、もうしないからな」


 ぞっとするような殺気を七都は感じた。


「ほんと、しつこいんだから。未来永劫あなたと会わないことを願ってるよ」


 ……また、おちょくってやろうかな。


 七都はベッドに近づき、少し勇気を出して、ユードの肩に手を置いてみた。

 やはり、熱いくらいにあたたかい。

 その皮膚の下には、血が流れている。生きている。それが明確すぎるほどにわかる。

 ユードは、黙って七都を睨んだ。だが、七都の手を払いのけようとはしなかった。

 七都は、ユードの顔を覗き込む。

 特にそうしようと意識したわけではないが、ふと気が付くと、ユードの顔が間近にあった。

 ユードは黙り込んだまま、七都を凝視している。

 ぴんと張り詰めた緊張感が伝わってくる。

 この緊張は、ユードのものだ。七都を恐れている。

 七都は、さらに彼に顔を近づけた。

 深い緑色の艶やかな長い髪が、彼の肩にはらりとかかる。

 部屋にいる猫たちの背中が、ざわっと逆立ってくる。

 灰色の透明な目。

 きれいだ。ナイジェルほどじゃないけれど。

 それに、やはりあたたかい。頬も、額も、焦がれるようなあたたかさで満ちている。

 ユードは、動かない。抵抗しようともしない。

 目を見開いたまま、七都の姿をただその灰色の目に映しているだけだ。

 怪我をしているとはいえ、ある程度の抵抗は出来るはずなのに?

 七都はユードの頬に、手のひらを沿わせるようにして、ゆっくりとくっつけてみた。

 ユードが、さらに体をこわばらせるのがわかる。

 彼の額から汗が噴き出て、流れて行く。

 七都の髪が、水の中に漂うように、やわらかく、ゆらゆらと浮き上がった。

 あの時と同じだ。

 ユードの二本目のエヴァンレットの剣を破壊したときと同じ、ふわっとした気分。

 そのまま自分を抑えられなくなってしまいそうな、危険な兆候を含んだ、だが、どこか高揚した気分。

 カトゥースで癒されていたはずの喉の渇きのような不快感が、どこからか湧き上がってくる。

 この渇きは、癒さねばならない。

 七都は、ぼんやりと思う。

 ユードが叫ぶのが、どこか遠いところで聞こえた。

 何だろう。

 わたしは、何をしようとしているのだろう?


「ナナトさまっ!!!」


 セレウスの声が降ってきた。

 七都は、はっと顔を上げる。

 セレウスは、七都をかっさらうように、ベッドから遠ざけた。

 全身の毛が見事に逆立った猫たちが、耳障りな鳴き声をあげる。


「病人には、ちょっと刺激的ですね」


 セレウスは、ちらりとユードを見た。

 ユードは、階段を全速力で駆け上がった直後であるかのように、口を大きく開けて、苦しそうに喘いでいる。


「えーと。わたしは、いったい何を……」

「しっかりしてくださいね、ナナトさま」


 それから、セレウスは声をひそめた。


「目が、真っ黒になってましたよ」

「え?」

「それに、お体もちょっと浮き上がっていたようですし。ここから出ましょう。彼をゆっくり療養させてあげないとね」

「カディナは?」

「別の部屋に連れて行きました。姉上が帰るまで待ってもいられませんので、医者も呼びました。ご心配なく。さ、行きますよ」


 セレウスは子猫をつまみあげるように、七都をユードの部屋から素早く放り出し、扉を外側からしっかりと閉ざした。

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