第1章 リビングの不思議なドア 2
銀色の淡い光の中に、階段があった。
階段のてっぺんには、背もたれが異様に長い椅子が据えられている。
椅子は雪のように真っ白で、全体に植物のような彫刻が施されていた。
その椅子には、少女が一人、座っている。
少女は、ドレープが美しい足元まで届く長いドレスを着て、赤紫色のマントを羽織っていた。
少女の額は、金色に輝いている。冠をはめているようだ。
顔は、わからない。
だが、もう少し近づくとはっきりとするだろう。
もう少し……。
もうすぐだ。
もうすぐ……。
七都は、目を開けた。
「ナナちゃん、遅刻するよー!」
果林さんが、階下から叫ぶ声が聞こえる。
しまった。寝過ごした。
七都は、飛び起きた。
「はいっ。起きてますっ!」
七都は、叫び返す。
なんてことだ。目覚まし時計を止めて、また寝てしまった。
時計を見ると、いつもより十分くらい、遅い。
よかった。十分なら、なんとかなる。余裕だ。
いつもは、一旦部屋着に着替えるのだが、七都はパジャマから直接制服に着替えた。
きょうはこのまま顔を洗って、朝ごはんも済ませてしまおう。
きょうは、期末テストの最終日。苦手な生物もある。
なのに、寝過ごすなんて。
最悪。自己嫌悪……。
七都は、鞄を持って部屋を出た。
廊下の洗面台で手早く顔を洗い、髪を梳かす。
父と果林さんは一階の洗面所を使っているので、二階にあるこの洗面所は、必然的に七都専用となっている。
鏡の中には、紺色の襟の白いセーラー服を着た、眠そうな、だが、少しあせっている少女が映っていた。
髪は黒、目も焦げ茶色っぽい黒。ごく平凡な、よくある黒目黒髪。
果林さんの目は、透き通った茶色で、髪も栗色だ。色も白い。あんな感じだったらよかったのに。そう思うこともある。
とはいえ七都は、自分では、まあまあかわいい部類には入るんじゃないかと、ちょっぴり思っている。
そんなにもてるわけではないが、たまに年上の人たちからエキゾチックな顔立ちをしているね、などと言われたりする。
中学生の頃は、下級生の一部から、憧れの眼差しで見つめられていたこともあった。
もちろん、コンプレックスを数え始めると、きりがないのだが。
七都は、階段を降りた。
珍しくソファに央人が座っていて、コーヒーを飲みながら、新聞を読んでいる。
ソファの、央人から少し離れたところに、飼い猫のナチグロも寝ていた。クッションの間に、やわらかい黒い毛玉が埋もれている。
央人はいつも六時には家を出て行くので、朝、七都と顔を合わせることはなかった。帰ってくるのは十一時を過ぎることが多いので、夜会うことも少ない。
会社ではどんどん人が減っているのだが、仕事は反対に増えているのだという。減った人員が補充されることもなく、残ったもので仕事をこなしていかなければならない。
央人は特に仕事の不満を家で口にすることもなく、毎日黙々と会社に出かけるのだった。
「お父さん、珍しい」
七都が呟くと、央人は新聞をめくった。
「きょうは出張だからね。直接会社には行かなくていいんだ」
央人は若い頃は華奢で、女の子もうらやむきれいな顔をしていたらしいが、今は少し中年太り気味のフツーのおじさんだ。だが、笑うと少年っぽさがまだどことなく残っている。
たまに取れた貴重な休みの日には、書斎に閉じこもって、プラモデルを作っている。果林さんによると、アニメキャラのプラモデルだという。
父がオタクらしいということは、口が裂けても、友達には言えない。
テーブルには、果林さんが作った朝ごはんが並ぶ。
きょうは、ツナマヨ入りのオムレツだった。
付け合せは、ゆでたブロッコリー、レタスとシソのサラダ、チーズとパセリがかかったトマト。
そしてガラスの器には、りんごとキーウィとプルーンを使った、ヨーグルトのフルーツ和え。
色とりどりの野菜が入ったピクルスの瓶も並んでいる。パンは、こんがり焼けたクロワッサン。ジャムは、見た目も涼しげな八朔のマーマレード。
ピクルスもクロワッサンもジャムも、果林さんの手作りだ。
和食党の央人のために、果林さんは、味噌汁や焼き魚などのメニューも作る。
味噌汁は、いりこからだしを取り、具もたっぷり。さらに、央人と七都のお弁当も、当然毎日。
ただ今日は、七都はテストで午前中には帰ってくるため、お弁当はいらない。
コーヒーに関してだけは、毎朝央人が自分で入れていた。
央人はコーヒー豆も自分で買ってくるし、コーヒーメーカーもポケットマネーでいいものを購入している。
七都はコーヒーが飲めないので、朝は紅茶だった。
コーヒーを飲むと、胃の調子が悪くなる。くらくらめまいもする。体が受け付けないのかもしれない。
だが、今、テーブルの上でおいしそうな香りを漂わせている紅茶を見下ろして、七都は溜め息をつく。
果林さんが用意してくれる紅茶は、ティーバッグではなく、ポットにリーフを入れて作ったもの。
今朝はダージリンだが、ハーブティーのこともあるし、チャイのこともある。全部本格的なものだった。
(……別にティーバッグでもいいのに。ティーバッグなら、自分でも入れられるし……)
一回、そう口に出して言ってみたことがあった。
すると果林さんは、魔女に時間が止まる魔法をかけられたかのように、一瞬固まってしまった。禁句だったようだ。
「い、いいです。訂正。ぜひ、葉っぱから入れてください……」
七都が慌てて言い直すと、途端に果林さんは、魔法がとけたように元に戻った。
「でしょ? やっぱり、味が違うものね」
今も果林さんは上機嫌で、七都のトーストに八朔のジャムをたっぷり塗っている。朝のいつもの果林さんが、当たり前のようにそこにいる。
もしかして、こういう『がんばる果林さん』も、父が出した条件なのだろうか。七都は、時々思ってしまう。
果林さんは、とにかく本当によく働く。体を動かしていなければ、何かに取り憑かれてしまうかのように。
果林さんが七都の家に来たのは、二十代前半。
だが、三十路を過ぎた今でも、果林さんは若く見える。
肌はつるつるだし、スタイルも完璧だ。服装によっては、二十代でも通用するだろう。
専業主婦をしているには、少しもったいないかもしれない。
そういえば、最近、この二人、一緒にいても会話がないような……。
七都は、ちらっと思ったりする。
長年連れ添った夫婦は、そんなものかもしれないけど。
水とか空気みたいな存在、なんていうものね。
「ナナちゃん、また、変な夢を見てた?」
果林さんが、訊ねた。
七都は、トーストをほおばったまま頷く。
「女の子が出てくるんだっけ」
果林さんが言うと、新聞を読んでいた央人がこちらに顔を向けた。
「うん。女の子が、階段の上の椅子に座ってる夢」
二ヶ月くらい前から、七都は同じ夢を見るようになった。
夢は、見る度に鮮明になってくる。
最初は銀色の空間だけだったが、やがて階段が現れた。
さらにぼんやりと人物が見え始め、それが少女だとわかるようになった。
少女が額に冠をはめ、足元まで届くくらいの長い髪をしているのも、最近見え始めた。
夢の中の少女は、微動だにしない。じっと正面を見据えたまま、静かに座っている。
「その椅子って、玉座じゃない? だから、階段の上にあるのよ。その女の子は、きっと女王様か何かよ」
果林さんが、にこにこしながら言った。
「そうなのかな。わかんないけど」
七都は言葉を濁す。
朝からにこやかに、自分の夢を話題にされるのは、なんか抵抗がある……。
「その女の子の髪は、緑っぽい黒髪で、目はワインレッド?」
央人が、突然会話に割って入った。
父が夢の話題に興味を持つのは珍しかったので、七都はびっくりする。
(な、なんなのよー。朝から二人して、娘の夢を話題にするって。果林さんはともかく、お父さんまで食いつくなんてっ)
もしかして、思春期の娘とコミュニケーションを持とうとする、涙ぐましい努力の試みなのだろうか。
にしても、その髪と目の色の組み合わせは、いったいどこから出てきたのだ?
「髪とか目の色は、まだわかんないよ。ぼやけてて」
七都が答えると、央人は頷くような首をかしげるような、どうとでも取れる反応をして、眼鏡の真ん中を軽く指で押し、再び新聞に目を落とした。
(あれ。もう、コミュニケーション、終わりなんだ)
「もっとはっきり見えるようになったら、教えてね」
果林さんは言ったが、七都はあまりこの夢のことは話題にしたくなかった。
他の夢なら聞いてほしいけれど。子供の頃からそうしてきたように。
一緒に夢占いの本を調べたりして、果林さんと夢の話をするのは楽しかった。
空を飛ぶ夢。何か恐ろしいものに追いかけられる夢。高いところから落ちる夢。
本によると、それぞれ全部に、もっともらしい意味がある。
でもこの夢は、そういった他愛のない多くの夢とは違うような気がする。
誰にも触れさせてはいけない、プライベートな、特別で大切な夢のような……。
ナチグロが目を覚まして、大きなあくびをした。
七都の夢にかじりついてきそうな、見事な尖がった歯が並んでいた。
それからナチグロは、これでもかというくらい、闇色の体を長く伸ばし、伸ばし終わったあと、透明な金の目で、家族三人を順番に見つめた。
まるでそれが合図であったかのように、央人は新聞をたたんで立ち上がり、七都は残っている紅茶を胃の中に流し込んだ。果林さんは、洗い物を片付けにかかる。
いつもと同じような朝が、いつもと同じように始まった。