第5章 魔法使いの館 2
セレウスは、ホールの近くにあった、こぢんまりとした感じのいい部屋へ七都を案内した。
あまりこの世界のことを知らない七都でさえ、一目で洗練された高級なものであることが理解出来るような、家具や調度品が置かれていた。
その部屋には窓がなかったが、天井の青味がかったガラスを通して、やわらかい光が落ちている。
猫たちも数匹ついてきて、床の上におとなしくうずくまった。
七都は、曲線のラインが美しい、座り心地のよい椅子に身を沈める。
テーブルを挟んで置かれたもう一つの同じ椅子に、セレウスが座った。
「この部屋では、そのマントを脱いでも大丈夫ですよ。あのガラスを通すと、太陽の光も無害ですから」
「もしかして、魔神族のために、そういうガラスを使ってるの?」
七都が訊ねると、セレウスは頷く。
「魔神族の方がこの屋敷に来られたときに、ご案内するために作った部屋ですから」
七都は、マントのフードを下ろした。マント自体は脱がないことにする。何せ中身は、サイズの合わないぶかぶかのセーラー服だ。あらわにするわけにはいかない。
フードを取った七都を、セレウスはじっと見つめた。
「あなたのお名前を教えていただけますか?」
「七都です」
「では、ナナトさま。アヌヴィムのことを本当にご存じないのですか」
「知らない。ごめんなさい。わたしはこの世界のことは、何も知らない」
セレウスは、七都の眼差しから目をそらした。
「アヌヴィムにもいろいろいるのですがね。つまり……魔神族に取り入って、その魔力を少し分けてもらい、自分のものとして魔法を使う……。それがアヌヴィムの魔法使いと呼ばれる者たち。私の一族も、そうなのです」
「魔法使い……。魔法が使えるの?」
セレウスは、頷いた。
「私の先祖……曽祖父の祖父くらいだと思いますが、彼は強い力を持つ、アヌヴィムの魔法使いでした。魔神族の血を引いていたとも伝えられています。彼は、ある日この町にやってきて住みつき、魔神の神殿を守っている一族の娘と結婚しました。その子孫たちの多くは、魔神族に直接関わることはありませんでしたが、魔神族にある種の憧れを抱いて、神殿と共に静かに暮らしていたのです。でも、私の姉のゼフィーアは、自らアヌヴィムになることを望んでこの町を出て行き、魔神族の貴族の屋敷にしばらくいました。だから姉は、あなたがたのもてなし方に詳しいだろうと思います」
魔神族のもてなし方って? 何か特別なもてなし方なのかな?
そういう疑問がふと沸いたが、七都はそれよりも、さっきから気になっていたことをセレウスに訊ねた。
「あなたが子供の頃に会った魔神族のご婦人のことだけど……」
「あなたに似ていましたよ。髪の色も目の色も」
「その人とは、この町で会ったの?」
「いえ。私がお会いしたのは、あの神殿の遺跡の庭です。庭の空間に突然緑色の扉が現れて、そこを開けて出て来られたのです」
遺跡の庭の空間に、突然現れた緑の扉――。
それは、七都が通り抜けてきた、アイスグリーンのリビングの扉だ。間違いない。
「それ……。もしかして、わたしの母かもしれない……。ううん、絶対、母なんだと思う」
七都は、呟いた。
「ナナトさまのお母上。それで、よく似ておられるのですね」
やはり母は、あのドアで二つの世界を行き来していたのだ。
そして母も、今の自分と同じような姿をしていたのだ。七都は、確信した。
それで、父は言ったのだろうか?
<その女の子の髪は緑っぽい黒髪で、目はワインレッド?>と。
では、あの夢に出てきた少女は、母なのか?
階段のてっぺんに置かれた、玉座のような椅子に座っていた少女……。
(お父さん、ここから帰ったら、お母さんのこと、この世界のこと、いろいろ絶対問い詰めるからねっ)
七都は、ひそかに決意した。
「で、その、わたしのお母さんらしき女の人は、それからどこへ?」
「存じません。でもおそらく、山の向こうの魔神族が住む領域でしょう」
セレウスが答える。
「山の向こう。『魔の領域』ってことだね……」
「私はその時、あなたの母上から魔力を少しいただきました。今でも、まだ魔法は使えます。ああ、別に母上に取り入ったわけじゃないですよ。まだ子供だったし、何もわかりませんでしたから」
セレウスは、緑色の瞳を真っ直ぐ七都に向けた。
「でも今は、あなたに取り入ろうかなと、ちょっとだけ思ってます」
「は? そ、そんなの、無理。ぜーったい無理!」
七都は叫んだ。
『魔神族に取り入る』とはどういうことなのかよくわからなかったが、いずれにせよこういう場合、断っておくに越したことはない。七都は、とっさに判断する。
「わたし、魔力の使い方なんて知らないもの。自分が魔力を使えるなんてことも信じられない。あなたに分けるなんて、とんでもない」
「おや。魔力が使えないのですか? そんなはずはないと思いますが」
「そ、そりゃあ……。さっき剣を二本、粉々にしてしまったけど。でもそれは、特にそうしようとしたわけじゃなくて……」
「粉々にしてしまったのは、魔神狩人が持っていたエヴァンレットの剣ですか?」
「え?」
セレウスは、胸元から小さな箱を取り出し、テーブルの上に置いた。
彼が箱を開けると、中から緑色がかった黒い髪の切れ端が現れる。
それは紛れもなく、ユードに切り取られた七都の髪だった。
「それ、どこで……」
「やはり、あなたの髪なんですね。では、彼のあの惨状は、あなたの仕業?」
セレウスは、くすっと笑う。
七都は、椅子をけたたましく鳴らして、思わず立ち上がった。
「ユード! いるの、彼? ここに?」
「姉が、彼をどこからか連れて来ました。手当てをして、部屋で寝かせています。姉は時々、そうやって怪我人を連れてくるのですよ。魔法で、ある程度の怪我なら治せますからね。アヌヴィムは、人間からは嫌われる立場ではありますが、この町の人々には医者の代わりとして重宝がられているのです。で、彼に会われますか?」
「……別に、会う必要ないもの。会わない」
七都は、再び椅子に深く座り直す。
まさか、ユードがここにいるなんて……。
「そうですか。余計な詮索は致しませんが」
セレウスは言ったが、明らかに七都がユードに会いたくないという理由に興味は持ったようだった。
「ところで、そのエヴァなんとかの剣って、何? 普通の剣じゃないよね」
七都は訊ねる。
「魔神族の力を奪い、その体を分解させる力を持っているという剣です。普段は透明で、魔神族が近づくと金色に光り、アヌヴィムが近づくと銀色に光るとか。そして、あの剣の前では、魔法でどんな姿に化けていようと正体を現すと。やはり、魔神狩りの連中が携帯していることが多いです。もっとも、あの剣を作ったのは魔神族だという話ですけれどね」
「魔神族が? 自分たちを殺すための武器を作ったの?」
「そうなりますね。でも、人間だって、自分たちを殺す武器は作りますから。魔神族も例外ではないということでしょう」
確かに七都の世界にも、人間が作った人間を殺す武器は溢れるくらいに存在している。自らを守るためにそれを携えることを、正当化さえしている。
「でも、その剣は、私には反応しなかった。光らなかったの」
「そうなのですか。あなたは昼間に外を歩けるし、エヴァンレットの剣も反応しない。ご自分の一族のこともあまりご存知ないようだ。特殊な魔神族なのでしょうか?」
「特殊な魔神族……」
「太陽に平気な魔神族が、最近現れ始めたという話は聞きますよ。何かが魔神族に起こっている……ということなのかもしれませんね」
七都は、箱の中にきちんと納まっている自分の髪を指差した。
「この髪、返してもらってもいい? ユードから取り戻さなければならなかったの」
「もちろん、どうぞ。元々あなたのものですから」
セレウスは、箱に蓋をして、七都の前に置いた。
「ありがとう」
七都はそれを制服のスカートのポケットに入れる。
よかった。ユードと顔を合わせたり戦ったりせずに、髪を取り戻せた。
七都は、ほっとした。
「ナナトさま。もしよろしかったら……それを私にくださいませんか?」
セレウスが、ためらいがちに口にする。
「あなたに?」
七都は、テーブルの向こうのアヌヴィムの若者をまじまじと眺めた。
緊張しているのがわかる。きっと勇気を出して言ったのだろう。
だが、気軽に「はいどうぞ」とは、決して言えない。
というよりも、他人の髪を欲しがるなんて、いったいこの人はどういう思考の持ち主なのだ? この世界では、ごく当たり前のことなのだろうか?
「こういうものは、よほど信頼のおける相手でない限り人間に渡してはいけないって、水の魔神族の人に言われたの」
七都は再び、ナイジェルが言ったことを引き合いに出す。
「私は、信用できませんか?」
「ごめんなさい。だって、会ったばかりだし……」
「ごもっともです」
彼は言ったが、その緑色の瞳はどこか悲しげだった。
扉が開いて、小間使いの女性が入って来る。
こうばしい香りが部屋に漂った。
それは遺跡の地下の広間に置いてあった、あのポットに残っていたのと同じ香り。懐かしい、コーヒーによく似た香りだった。
彼女は七都の前に、黒っぽい液体の入った熱いカップを置いた。銀のスプーンも添えられている。
七都が御礼を言うと、小間使いはにっこり微笑んで頭を下げ、部屋から下がった。まだ七都の正体は、知らされていないようだ。
七都は、カップを両手で包みこんだ。
色といい香りといい、どう見てもコーヒーだ。
苦手なコーヒー、飲めるだろうか。だがこれは、魔神族の飲み物なのだ。
七都は、おもいきって一口含んでみた。
少し熱いが、抵抗なく喉を通っていく。
おいしい。口の中がすっきりする。先ほどのプチトマトもどきとは雲泥の差だ。体が、みるみるうちにあたたまっていく。
七都は、いっきに全部飲み干した。
自分の世界に戻ったら、コーヒーに挑戦してみよう。ミルクとお砂糖をたっぷり入れて。
案外、飲めるかもしれない。
「カトゥースという花のお茶です。飲まれるのは初めてですか?」
七都は、こくんと頷く。
「あなたは不思議な人ですね。まるで、魔神族になったのがつい最近みたいだ」
「じつは、つい最近なの。夜明け前になったところ」
「では、それまでは人間?」
「こことは違う、別の世界の人間。そこではこんな姿形じゃないし、魔力も使えない。扉を開けてこの世界に来た途端、こうなったの」
「魔神族には謎が多いですからね。そういうこともあるんでしょうね」
七都は、銀のスプーンをつまみあげた。
「セレウス。これ、魔法で曲げられる?」
「曲げるんですか?」
セレウスは一瞬躊躇して、七都からスプーンを受け取った。
彼の指先でスプーンの頭が生き物のように動いて、ぐにゃりと垂れる。
「わ。すごーい」
七都は、思わず手をたたいた。
スプーン曲げは、父の央人が食事のメニューがカレーやオムライスのときなんかに、たまに思い出したように挑戦して、果林さんに怒られていた。央人が子供の頃、そういうのが流行ったらしい。
央人は、スプーンを簡単に曲げて七都を驚かせたが、それは超能力でも魔法でもなく、単なる手品なのだと主張した。とはいえ、七都が何度しつこく頼んでも、その手品のタネを教えてくれたことはない。
「あなたも曲げられるはずですよ。ごく簡単なことで、魔法の部類にも入らない」
セレウスは、変形したスプーンを七都に渡した。
「元通りに直してみてください」
七都は、スプーンを見つめる。
「えい」
力をこめると、スプーンの頭は一瞬で起き上がったが、スプーンは七都の手からびゅんと飛び出し、天井に深く突き刺さった。
猫たちが、いっせいに天井のスプーンを見上げる。
「し、しまった」
「加減がよくわかっておられないようですね。では、これは?」
セレウスは、空になったお茶のカップを指差した。
カップは、テーブルから五センチほど浮き上がって、空中に静止した。それから、すとんと元の位置に戻る。
「やってみられます?」
七都は、カップに手をかざしてみた。
カップはふわりと浮き上がったが、パンという音とともに、空中で細かいかけらとなって分解した。
かけらは飛び散って、テーブルの上も床も、白い粉だらけになる。
猫たちは尻尾を三倍くらいに膨らませ、一匹残らず部屋から走り出てしまった。
「だめだ。やっぱり、どうしても破壊的になっちゃう」
「そのうち慣れますよ。でもそれまで、人前で魔力はあまり使わないほうがいいかもしれませんね」
「わたしも、そう思う」
そのとき、ティエラが入ってきた。
部屋の惨状を見るなり、あんぐりと口を開ける。
「セレウス、これはいったい、どういうこと?」
「ご、ごめんなさい。わたしがやったんです」
七都は、謝った。
「魔神さま。部屋を汚さないで下さいねっ」
ティエラはこわい顔をして、七都を睨む。
「このカップは、決して安いものじゃないんですよ。それに、あのスプーン」
彼女は、天井に突き刺さったスプーンを見上げる。
「どうやって取るんですか? まったく」
「ごめんなさい。セレウスに、魔法で取ってもらってください」
七都は謝りながら、だが、なんとなく嬉しかった。
小言を言っているティエラには、七都に対する恐怖が感じられなかった。
少し打ち解けてくれたのかもしれない。
「ナナトさま。お茶をもう一杯、いかがです?」
セレウスが笑いを無理やり抑えながら、訊ねる。
「もう十分いただきました。それより、そのお茶を持って帰りたいので、何か入れ物に詰めてくれませんか? 遺跡に、もうひとり魔神族がいるんです。彼のために」
「さっきおっしゃられていた、水の魔神族の方ですね。では、あの魔神狩人の怪我は、その方の仕業なのですね?」
「ユードも怪我してるけど、ユードに傷つけられた魔神族のほうが、もっとひどい怪我をしています。できれば、新鮮なお花のほうもいただきたいんですけど」
「もちろんですよ。ではカトゥースの花を摘んできましょうね。よろしかったら、花畑に一緒にいらっしゃいませんか? ちょっといい風景ですから」
「あ、行きます」
「私はその間に、ここを掃除しておきますわ」と、ティエラ。
「本当にごめんなさい。よろしくお願いします」
七都は言いながら、よく果林さんや友達にそうするように、軽くティエラの腕に触れた。
ティエラは、はっとして身をひく。
緑色の目の奥に、七都に対する恐怖が蘇るのが、はっきりと垣間見えた。
固まっている。さわってはいけなかったんだ。
七都は、後悔した。
せっかく打ち解けてくれそうだったのに……。
「叔母は魔神族の方に会ったのは初めてなので、失礼はどうかお許しください」
セレウスが言った。
「ごめんなさい、怖がらせて」
ああ、わたし、この家に来て謝ってばかりだ。少なからず、自己嫌悪……。
七都はぺこりと頭を下げて、部屋を出た。




