第1章 リビングの不思議なドア 1
イラスト/ゆあせ(歩)
リビングの謎の扉を開け、向こう側の異世界へ。
自分は何者なのか? そしてその世界には、行方不明になった母もいるらしい?
七都の冒険が、今始まる――。
シリーズ第1話です。
登場人物の紹介は、こちら⇒http://nekonoshuukai.web.fc2.com/nanato_toujoujinbutu1.html
その奇妙なドアは、リビングの壁のちょうど真ん中あたりにあった。
家にある他のドアは全部白か茶色のシックな色なのに、そのドアだけ薄い緑色に塗られている。クールできれいな白緑色、アイスグリーンに。
ドアは、別の部屋に通じているわけでも、奥が物置になっているわけでもなかった。
それを開けると、無機的なコンクリートの壁にたちまちぶち当たる。ドアの向こう側には何もないのだ。
なぜそんなところに意味不明のドアがあるのか。
七都は、子供の頃から時々その緑のドアを開けてみるのだが、そこにはいつもコンクリートの冷たい灰色が、妖怪ぬりかべのように立ちはだかっているだけだった。
「あそこからは、お化けが出てくるんだよ~」
七都が幼い頃、父の央人はそう言って、七都を怖がらせた。
そのうち、ブラックホールになっていて吸い込まれるとか、四次元の世界とつながっているとか、挙句の果てには、実は猫を頭に乗せた死体が塗りこめられているんだ、などと言い出す始末。
七都が聞くたびにはぐらかし、答える内容もまるっきり違っている。
どうやら父は、そのドアに関しては、まともに説明してくれる気はなさそうだ。
けれども、一度だけ――。
「あのドアのことは、七都がもう少し大きくなったら、ちゃんと話してあげるからね」
七都が小学生のとき、いつもよりしつこく問い詰めると、央人は真面目な顔をして、そう言ったことがある。
遠くを見つめるような、どこか寂しげな父の目を間近で見て、七都は素直に頷いた。
たぶん、もうちょっと大きくなるまで聞いてはいけないことなんだ。そう思いながら。
あれから随分たって七都は高校生になったが、央人にはドアのことを話してくれそうな気配は、まだ感じられない。
七都は、もっともっと大きくならなければならないのかもしれない。
七都の家は、こぢんまりとした、どこかアールデコを思わせるような白い洋館だ。
家は、外観にしろ、間取りにしろ、ドアの位置にしろ、だいたい七都の両親の意見通りに建てられたらしい。
もちろん、最終的には建築士さんが図面を引いてくれたわけだが、七都には、素人の無理さ加減と我がままが、どことなく漂っているような気がする。
緑のドアがリビングにある理由というのも、案外単なるシャレとか、ただおもしろいとか、誰かをびっくりさせるためとか、そんな拍子抜けするようなものなのかもしれなかった。
白くて透明なきれいな家は、遊びに来た友達からは、うらやましがられる。
ガラスがふんだんにはめられているのは、七都の母がそう望んだからだという。
家の真ん中には、ガラスで囲まれた狭い中庭がある。
そこには木が数本、小さな林のように植えられていて、天気のいい日には、木々の緑を通り抜けて落ちてくるやわらかい日差しが、地面に複雑な模様を作る。
窓を開けると、風が葉の間を渡って行く涼しげな音も、聞こえたりする。
七都の母、美羽は、中庭が特に気に入っていて、そこでよくコーヒーを飲んだり、読書をしたりしていたらしい。
七都は、母親のことは知らない。七都を生んですぐに、行方不明になった。
親戚の人たちは、今でも母のことを悪く言うが、父はいつもどこ吹く風という感じだ。
もしかして父は、母がいなくなった詳しい理由はもちろん、現在の居場所なんかも知っているのかもしれない。
確信はないが、七都は何となくそんなふうに感じる。
それでなければ、あんな余裕のある、のほほんとした態度など取れるわけがないのだ。
母がいなくなってしばらくしてから、果林さんという女性が七都の家にやってきた。
央人一人で七都を育てるのはとても無理だろうと、親戚たちが探してきたのだ。
もちろん七都は小さかったので、果林さんが来たときの記憶はない。
果林さんは、最初はベビーシッター兼家政婦として、七都の家で働いていた。
やがて、周囲の強力な圧力に根負けしたような形で、央人と果林さんは籍を入れた。七都が5歳のときのことだ。
央人は、果林さんとの再婚をかたくなに断っていたが、結局最後は、しぶしぶ承諾したらしい。
果林さんは性格も穏やかでよく働くし、何よりも七都がなついていたことが、第一の理由だったようだ。
どれだけ待っても、七都の母親の美羽は、もう帰って来ない。そのことを父はわかっていたのかもしれない。
「でも、央人さんがいちばん好きなのは、美羽さんなのよ」
果林さんは、以前七都にそう言った。
「それは、結婚する前に言われたから。仕方のないことだもの」
他にも果林さんは、結婚の条件として、父からいろいろなことを出されたらしい。
七都の下に、弟もしくは妹は作らない。七都に『お母さん』と呼ばせない――。
「……それって、ひどくない?」
七都が訊ねると、果林さんはくすっと笑った。ちょっと寂しそうに。
「いいの。私がどうしても央人さんと結婚したかったんだから。彼は私をあきらめさせようとして、思いつくまま条件を言ったのだと思うわ。なんせ、こちらが惚れた弱みってやつね。条件全部のんじゃったの」
父は、本当はまだ母のことを忘れられないでいたのに、七都のために無理をして果林さんと結婚したのかもしれなかった。
果林さんもまた無理をして、自分の感情を心の引き出しにしまいこみ、父の出した条件とやらを受け入れたのかもしれない。
果林さんには感謝している。果林さんがいなかったら、父も七都もどうなっていたかわかったものではない。
七都と果林さんの関係も、母子というより友達同士のようだ。必要最小限にしか七都に接してこない父よりも、はるかに仲がいい。
でも――。
やはり、母のことは知りたい。
どんな人だったのか。なぜ出て行ったのか。どこにいるのか。
写真も一枚だって残ってはいないので、顔さえわからないのだ。
ドアのこともだけど、お母さんのことも知りたいよ。
いつか話してくれるの、お父さん?
だが、七都が成長するにつれて、央人は仕事が忙しくなり、七都も自分の生活でめいっぱいになった。
最近では、話をするどころか、家の中で顔を合わせることさえ、めったになくなってしまった。
緑のドアは、相変わらずリビングの壁に、当たり前のようにはまっている。
塗料は心持ち変色してきているような気がするし、飼い猫のナチグロが爪とぎをするので、表面は傷だらけになってきた。
七都は、たまに思い出したようにドアを開けてみるのだが、相変わらずドアの向こうはコンクリートのぬり壁なのだった。