シュウメイギク
<プロローグ>
雨の匂いが嫌いだった。
湿った空気は息が詰まるし、濡れたアスファルトは無機質に光る。
でも宇野浠夢は、雨の日が好きだと言った。
「なんか世界が静かになるじゃん」
放課後、昇降口でそう笑った浠夢の髪は、窓の外の灰色を溶かしたみたいに揺れていた。
尾上愛は黙ったまま、その横顔を見ていた。
浠夢は昔から、雨の音を聞くと少し嬉しそうにする。
教室の窓に頬杖をついて外を眺めたり、水たまりをわざと踏んだり。
子供みたいだと思う。
でも、そんなところも好きだった。
「愛、傘持ってる?」
「ある」
「入れて」
「……持ってるんじゃないの」
「忘れた」
絶対わざとだ。
愛は小さく息を吐きながら傘を開く。
浠夢は当然みたいに隣へ入ってきた。
肩が触れる。甘いシャンプーの匂いがした。
「狭い」
「愛が近いんでしょ」
「浠夢が寄ってきてる」
「えー?」
笑う声。その無防備さに、愛は胸の奥がじわりと熱くなるのを感じた。
浠夢は何も知らない。
自分がどれだけ救われているのかも。どれだけ苦しくさせているのかも。
「ねえ愛」
「なに」
「うちらってさ、なんだかんだずっと一緒にいるよね」
愛は少しだけ目を見開く。雨音が傘を叩いていた。
浠夢は前を向いたまま、何気ない声で続ける。
「一生一緒、的な?」
冗談みたいに笑う。
愛は返事ができなかった。そんな未来、本当に来たらいいのにと思ってしまったから。
浠夢は時々、簡単にそういうことを言う。期待してしまうようなことを。
「……浠夢」
「ん?」
愛は唇を開いて、それから閉じた。
好きだと言ってしまいそうだった。
でも、言えない。
この関係が壊れるのが怖かった。
浠夢が離れていくのが怖かった。
だから愛は、小さく俯くだけだった。
その時、不意に浠夢のスマホが震える。
浠夢は「あ」と声を漏らしたあと、嬉しそうに画面を見た。
その表情を見た瞬間、愛の胸の奥が冷たくなる。
「……誰」
できるだけ普通に聞いたつもりだった。
浠夢は笑う。
少し照れたみたいに。
「鶴田先輩」
雨音が、一瞬だけ遠く聞こえた。
浠夢はまだ何か話している。
今日あったこととか。先輩が優しかったとか。
でも愛には、もう半分も聞こえていなかった。
ただ。浠夢が自分に向けたことのない顔で笑っている。
その事実だけが、喉の奥に刺さって離れなかった。
愛は静かに傘を握り直す。細い指先が白くなる。雨は、止みそうになかった。
四月の終わり頃から、宇野浠夢はやたらとスマホを見るようになった。
「……また?」
向かい側に座る浠夢に声をかけると、彼女は「んー?」と間延びした返事をしてから顔を上げた。机に広げられた数学のワークはほとんど進んでいない。代わりに、伏せ損ねたスマホの画面だけが何度も光っていた。
「浠夢、ここ分かる?」
「聞いてる?」
「聞いてる聞いてる」
絶対聞いてなかった。
愛は小さく息を吐きながら、浠夢のノートを引き寄せる。シャーペンを走らせる横で、浠夢はまたスマホを見た。
ふ、と口元が緩む。
その顔を見た瞬間、胸の奥がじわりと熱を持った。
「……今度は誰?」
できるだけ何でもない風に聞いたつもりだった。
浠夢は「あー」と笑って、頬杖をつく。
「また鶴田先輩」
その名前を聞いた瞬間、愛はシャーペンの先を折った。
「あ、ごめん」
浠夢が慌ててこちらを見る。
「大丈夫」
愛は短く返して、筆箱から替芯を取り出した。指先が少し震えていた。
鶴田優。
二個上の先輩。
文化祭準備の日、脚立から落ちかけた浠夢を助けたのが最初だった。ついでみたいに愛の方まで気にかけて、それから時々話すようになった。
浠夢はそれ以来ずっと、鶴田先輩の話ばかりしている。
「今日もさ、荷物持ってくれたんだよね」
「へえ」
「あと、“宇野って意外と危なっかしいよね”って」
「ふうん」
「え、なにその反応」
浠夢が笑う。
愛は顔を上げなかった。
だって、そんなの知ってる。
浠夢が階段を下りる時、最後の一段をよく踏み外すことも。辛いものを食べるとすぐ涙目になることも。可愛いと思ったものを見つけると立ち止まって動かなくなることも。
全部、自分の方が知っている。
「愛ってさあ」
浠夢が机に突っ伏したまま言った。
「なんか彼氏とかできなさそうだよね」
「……急に何」
「だって重いもん」
冗談みたいに、けらけら笑う声。
愛はゆっくり顔を上げた。
「浠夢には言われたくない」
「えーなんで?」
「知らない」
本当は知ってる。
浠夢だからだ。
浠夢が自分を置いて、誰かを好きになるのが嫌だった。
浠夢はまだ笑っている。
何も知らない顔で。
「でも愛はさ、ずっと一緒にいてくれそう」
その言葉に、心臓が痛いくらい跳ねた。
浠夢は時々、残酷なくらい無防備だ。
期待してしまうようなことを平気で言う。
「……いるよ」
「え?」
「一生一緒にいたいくらい」
空気が少しだけ止まった。
浠夢が瞬きをする。
その直後、スマホが震えた。
浠夢は「あ」と声を漏らして、すぐに画面へ視線を落とす。
柔らかく目を細める。
愛は、自分の言葉が途切れたことに浠夢が気づいていないと分かった。
窓の外では、運動部のホイッスルが鳴っていた。
夕焼けが、教室の床を赤く染めている。
その色がやけに息苦しくて、愛は静かに目を伏せた。
六月に入ってから、宇野浠夢は部活が終わるとすぐスマホを見るようになった。
以前は愛とだらだら残って、誰もいなくなった教室で喋ったり、コンビニへ寄ったりしていたのに、最近は違う。
「ごめん愛、今日ちょっと先帰る!」
鞄を掴んで立ち上がる浠夢に、愛は本から顔を上げた。
「……また?」
「“また”ってなに」
浠夢は笑う。
その笑い方が、前より少しだけ大人びて見えて嫌だった。
「鶴田先輩、今日生徒会の仕事あるらしくてさ。タイミング合えば途中まで一緒帰れるかもなんだよね」
嬉しそうに言う。
愛はページをめくるふりをした。
「ふうん」
「怒ってる?」
「別に」
「愛って分かりやすすぎ」
浠夢はそう言って、愛の頬を軽くつついた。
冷たい指先。
昔から、浠夢は距離が近い。
眠いと言って肩にもたれてきたり、冬になると勝手に手を繋いできたり。お泊まりのときは、愛のベッドに潜り込んで「あったかーい」と笑ったりする。
そのくせ、何も知らない。
どれだけ期待させているのかも。
「じゃ、またLINEするね」
教室の扉が閉まる。
静かになった空間の中で、愛はしばらく動けなかった。
窓の外では、運動部の声が遠く響いている。
机の上に置かれた浠夢のシャーペンを見つけて、愛はそっと手に取った。
薄いピンク色。
後ろには、小さなうさぎのキーホルダー。
昨日、可愛いから見て、と浠夢が嬉しそうに見せてきたものだった。
愛はそれをゆっくり握りしめる。
浠夢のものは、どうしてこんなに安心する匂いがするんだろう。
その時、スマホが震えた。
『鶴田先輩いた!!!』
続けて送られてくる写真。
少しぶれた画面の中で、鶴田優は困ったように笑っていた。
愛は無意識に画像を拡大する。
浠夢の隣に立つ先輩。
その距離が近い。
胸の奥が、じわりと焼けるみたいに痛んだ。
『よかったね』
それだけ返す。
送信した瞬間、また通知が来る。
『えへへ』
『愛にも今度紹介したい』
もう知ってる。そう打ちかけて、消した。スマホを伏せる。
机に額を押し付けると、冷たい感触がじわりと肌に広がった。
紹介、なんて。まるで特別な人みたいだ。
鶴田優は、きっと悪くない。優しい人だ。
困っていた時も助けてくれたし、愛にも普通に接してくれる。
でも。だからこそ嫌だった。
浠夢があんな顔をする理由になっていることが。
数日後、愛は図書室へ向かう途中で鶴田優を見つけた。
廊下の窓際。
浠夢が、楽しそうに何か話している。
鶴田優は少し屈んで話を聞いていた。
その距離感が、自然すぎる。
愛は足を止めた。
「――で、それ絶対愛に笑われると思って!」
浠夢が笑う。
鶴田優もつられて笑った。
「尾上って結構辛辣だよね」
「そうそう!でもなんだかんだ優しいんですよ」
愛の知らない空気だった。
いや、本当は違う。
浠夢はいつも愛の話をする。
それは分かっている。
でも、嫌だった。
自分がいない場所で、自分の知らない浠夢が存在していることが。
ふいに、鶴田優がこちらを見た。
目が合う。
一瞬だけ、彼の表情が止まった。
「……尾上」
浠夢が振り返る。
「あ、愛!」
嬉しそうに手を振る浠夢に、愛はぎこちなく近づいた。
「なにしてんの」
「先輩と喋ってた!」
見れば分かる。
喉まで出かかった言葉を飲み込む。
鶴田優は少し困ったように笑った。
「すまない、宇野を引き止めてしまって」
「別に」
愛は短く返す。沈黙が落ちた。
浠夢だけが空気を読まずに笑っている。
「てか愛聞いて!先輩、猫拾ったんだって!」
「へえ」
「しかも段ボールに入ってたらしくて!」
「宇野、それもう五回目」
「え、そうだっけ?」
浠夢も優先輩も笑っている。
愛だけが笑えなかった。
その時、不意に鶴田優が愛を見た。
「尾上」
「……なに」
「宇野のこと、頼むよ」
愛は一瞬、息を止めた。
浠夢は「保護者みたい」と笑っている。
でも。
その言葉だけ、妙に胸に引っかかった。
まるで全部分かっているみたいだった。
愛は視線を逸らす。
「別に、頼まれなくても」
声が少し掠れた。
鶴田優は何も言わなかった。
ただ静かに、こちらを見ていた。
帰り道。
浠夢はずっと鶴田優の話をしていた。
「今日先輩ちょっと眠そうじゃなかった?」
「知らない」
「絶対寝不足だよね〜」
「……知らないって」
少し強めに返すと、浠夢が目を丸くした。
「どーしたの?不機嫌じゃん」
「別に不機嫌じゃない」
「じゃあ怖い顔しないでよ」
浠夢はそう言って笑ったあと、不意に愛の腕へ自分の腕を絡めた。
柔らかい体温。
甘いシャンプーの匂い。
愛の心臓が大きく鳴る。
浠夢は何も考えていない。
ただ、機嫌を取ろうとしているだけ。
それが分かるから余計に苦しかった。
「愛ってさあ」
「なに」
「たまに私の彼氏みたい」
愛は立ち止まった。
浠夢が不思議そうに振り返る。
夕焼けが、細い髪を赤く照らしていた。
「……やだ?」
聞く声が、思ったより低くなる。
浠夢はきょとんとしたあと、少し笑った。
「んー、重い時はちょっとやだけど」
冗談みたいに。
軽く。簡単に。
愛の胸の奥で、何かがひび割れる音がした。
でも浠夢は気づかない。
「でも好きだよ、愛のこと」
その一言で、また全部ぐちゃぐちゃになることも。
雨の音が、ずっと窓を叩いていた。
愛の部屋は薄暗い。
カーテンを閉めたままだから、夕方なのか夜なのかも分からなかった。
ベッドの上では、浠夢が寝転がりながらスマホを見ている。
「うわ、先輩また誤字ってる」
くすくす笑う声。愛は事情があって一人暮らしだから、よく浠夢が泊まりに来る。
愛は机の前に座ったまま、何も返さなかった。
「ねえ見てこれ」
「……うん」
「絶対眠いって。今日も生徒会遅いらしいし」
また鶴田優。
最近、浠夢の口から出る話題はほとんどそれだった。
愛は爪が白くなるほどシャーペンを握りしめる。
「愛?」
「なに」
「機嫌悪い?」
浠夢が身体を起こす。
ベッドが小さく軋んだ。
愛はゆっくり振り返る。
浠夢は少し困ったように笑っていた。
その顔を見た瞬間、胸の奥がずきりと痛む。
また、その顔。面倒な子を宥めるみたいな顔。
「……ねえ浠夢」
「ん?」
「そんなに先輩好き?」
空気が少し止まる。
浠夢は目を瞬いて、それから照れたみたいに笑った。
「え、なに急に」
「答えて」
愛の声は、自分でも驚くくらい静かだった。
浠夢はスマホを抱えたまま視線を逸らす。
「……好き、だと思う」
その一言で、頭の中が真っ白になった。
愛は立ち上がる。
椅子が床を擦って、鈍い音を立てた。
浠夢が少しびくりと肩を揺らす。
「愛?」
「私のことは」
「え?」
「私は、浠夢だけ見てるのに」
喉が痛かった。息が苦しい。
浠夢は困ったように眉を下げる。
「愛、なんか今日変だよ」
変なのはそっちだ。
どうして分からないんだろう。
毎日一緒にいて。誰より隣にいて。
浠夢が泣いた時も、体調崩した時も、全部そばにいたのに。
「……ねえ」
愛は浠夢の前にしゃがみ込む。
細い手首を掴む。浠夢の体温が熱い。
「よそ見しないでよ」
「愛、痛い」
「なんで先輩なの」
「ちょ、待ってって」
浠夢が困ったように笑う。まだ笑う。
まだ、自分の気持ちを分かっていない。
「愛、落ち着いて」
優しい声。その優しさが、一番苦しかった。
愛はゆっくり顔を上げる。
「……私じゃだめなの」
浠夢の表情が止まる。たぶん、その時初めて気づいた。
愛の感情に。
でも、もう遅かった。浠夢は何か言おうとして、口を開く。
その顔を見るのが怖かった。困ったように断られるのが。気持ち悪いって思われるのが。
愛は咄嗟に浠夢の肩へ縋りつく。
「やだ」
声が震える。
「どっか行かないで」
「愛、苦し……」
浠夢が愛の腕を掴む。
逃げようとしたわけじゃない。きっと、離そうとしただけだった。
でも愛には、それが怖かった。行かないで。置いていかないで。私だけ見て。
頭の中がそれだけになる。浠夢の細い首に触れる。
熱い。柔らかい。
「愛、っ……」
掠れた声。涙で視界が滲む。
違う。こんなことしたいわけじゃない。
ただ、浠夢にこっちを見てほしかっただけ。
なのに。
浠夢の顔が少しずつ苦しそうに歪んでいく。愛の名前を呼ぼうとしても、うまく声にならない。
その瞬間、ようやく我に返った。
愛は慌てて手を離す。
「……え」
浠夢の身体がぐらりと傾く。ベッドへ崩れ落ちる。
長い髪がシーツに広がった。
「浠夢?」
返事がない。
愛は震える手で肩に触れる。動かない。呼吸の音もしない。
「……うそ」
頭の中で、雨音だけがやけに大きく響いていた。
浠夢のスマホが震える。画面が光り、
『鶴田先輩』
その文字を見た瞬間、愛の喉から小さな笑い声が漏れた。
壊れたみたいな声だった。
「……最後まで」
涙が落ちる。浠夢の頬に、小さな水滴が滲んだ。
愛はゆっくりその髪に触れる。冷たくなり始めた指先を握る。
「……もう、どこにも行かないよね」
雨はまだ、降り続いていた。
雨は、朝になっても降り続いていた。
カーテンの隙間から差し込む薄暗い光が、部屋を鈍く照らしている。
愛は床に座ったまま動けなかった。
ベッドにもたれかかるようにして、ただ浠夢を見ている。
昨日から、ずっと。
時計の針だけが静かに進んでいた。
浠夢は眠っているみたいだった。長い睫毛も、少し開いた唇も、何も変わらないのに。
触れた指先だけが冷たい。愛は震える手を引っ込める。
喉の奥がひりついた。
「……浠夢」
呼んでみる。当然、返事はない。分かっている。もう、分かっているのに。
愛はゆっくり俯いた。
足元には浠夢のスマホが落ちている。昨夜から何度も通知音が鳴っていた。
最初は友達から。
途中から、鶴田優。
『宇野、家着いた?』
『返信ないけど大丈夫?』
『尾上と一緒?』
優しい文面だった。
愛はその通知を見るたび、胸の奥を掻き回されるみたいに苦しくなった。
浠夢は、こういうところが好きだったんだろう。
ちゃんと気にかけてくれて。優しくて。安心できて。
愛はスマホを伏せる。もう見たくなかった。
部屋の中には浠夢の痕跡が溢れている。
机の上の飲みかけのジュース。脱ぎっぱなしのカーディガン。コンビニの袋。ベッドの端には、浠夢が持ってきたクッション。
全部、“さっきまでここにいた”みたいだった。
それが苦しい。
愛はゆっくり立ち上がる。頭がぼうっとする。
鏡を見るのが怖くて、洗面所の電気はつけなかった。
暗いまま蛇口を捻る。冷たい水が指を流れていく。
その時、不意に、自分の首元が視界に入った。
赤い痕。
浠夢が抵抗した時についた爪痕。愛は息を止めた。急に吐き気が込み上げる。
違う。こんなことしたかったわけじゃない。
傷つけたかったわけじゃない。
ただ、置いていかないでほしかっただけなのに。
愛はその場にしゃがみ込む。涙が止まらなかった。頭の中で、浠夢の声ばかり響く。
『愛ってほんと重いよね』
『でも好きだよ、愛のこと』
『ずっと一緒にいてくれそう』
浠夢は何も知らなかった。愛がどれだけ壊れていたかも。どれだけ必死だったかも。
知らないまま、笑っていた。
愛は顔を覆う。小さな嗚咽が漏れた。
どれだけ泣いても、もう遅い。
気づけば夕方になっていた。
雨はまだ止まない。
部屋の空気は冷え切っているのに、愛の頭だけが熱かった。
スマホが震える。自分のだった。
画面には、鶴田優の名前。
愛はしばらくそれを見つめる。
震える指で、通話を切った。またすぐ鳴る。切る。何度も。
そのうち通知は来なくなった。
代わりに、短いメッセージだけが残る。
『尾上』
『宇野といるなら連絡ほしい』
『頼むから』
愛はそれ以上開かなかった。ベッドへ視線を向ける。
浠夢は静かなままだ。
愛はふらつく足で近づいて、そっと隣に腰を下ろした。
マットレスが少し沈む。その感覚だけで涙が出そうになる。
「……ごめん」
掠れた声。浠夢は何も答えない。
愛はそっと髪を撫でる。さらさらしていた。
好きだった。浠夢の笑い方も。声も。匂いも。自分の名前を呼ぶ声も。
全部。好きだった。
だから、誰にも渡したくなかった。
愛はゆっくり目を閉じる。
もし、普通に好きになれていたら。もっと軽く笑えていたら。
違う未来があったんだろうか。
でも、もう考えても意味がない。
愛は机の上のスマホを手に取る。画面が光る。
ホーム画面。去年の文化祭で撮った、浠夢とのツーショット。
顔を寄せ合って笑う浠夢。
その隣で、少し照れながら笑っている自分。愛は親指で画面をそっと撫でた。
涙が落ちる。滲んだ画面の向こうで、浠夢は幸せそうに笑っていた。
愛は小さく息を吐く。それから静かに、浠夢の隣へ横になる。
冷たい指先を握る。窓の外では、雨音が絶え間なく続いている。
このまま朝が来ても。誰かがここへ来ても。もう、何も変わらない。愛はゆっくり目を閉じた。
胸の奥に残っていた痛みが、少しずつ薄れていく。
怖くはなかった。ただ、ひどく疲れていた。
「……浠夢」
掠れた声で名前を呼ぶ。返事はない。それでも愛は、小さく笑った。
「もう、ひとりにしないから」
暗い部屋の中、スマホの光だけが淡く浮かんでいる。
ホーム画面の中では、浠夢がまだ楽しそうに笑っていた。
愛はその光を抱きしめるみたいに胸元へ引き寄せる。
そして静かに、目を閉じた。
雨の音だけが、最後まで途切れずに響いていた。
<エピローグ>
雨は、三日経っても止まなかった。
鶴田優は病院の廊下に立ったまま、じっと白い床を見つめていた。
窓の外は灰色だった。
遠くで救急車の音が聞こえる。何も現実味がない。
「……鶴田くん」
呼ばれて顔を上げる。
担任教師が、ひどく疲れた顔で立っていた。
その目を見た瞬間、優は全部察した。
宇野浠夢も。尾上愛も。もう戻らない。
教師の声はほとんど耳に入ってこなかった。
ただ、胸の奥が妙に静かだった。信じられない、というより。信じたくなかった。
帰り道、雨は強かった。
傘を打つ音がやけにうるさい。
優はぼんやり歩きながら、浠夢のことばかり考えていた。
よく笑う子だった。話していると、こっちまでつられて笑ってしまうような。
くだらないことで騒いで。些細なことで落ち込んで。
でも、少しするとまた笑っている。
優は、そんな浠夢を見るのが嫌いじゃなかった。
むしろ、好きだったのかもしれない。
そこまで考えた瞬間、足が止まる。雨水が制服の裾を濡らしていく。
優はゆっくり俯いた。
「……今更かな」
掠れた声が落ちる。今になって気づくなんて。
遅すぎる。
優はずっと、“良い先輩”でいようとしていた。
浠夢の好意にも気づいていた。
でも、応えるつもりはなかった。応えてはいけないと思っていた。
二つ下の後輩。まだ子供っぽくて、危なっかしくて。
それに、尾上愛がいた。
尾上愛は、ずっと浠夢だけを見ていた。
初めて会った時から分かるくらいに。
浠夢が笑えば安心した顔をして。
他の誰かと話している時だけ、静かに目を伏せる。
浠夢は気づいていなかった。でも優は気づいていた。
気づいていて、何もしなかった。下手に触れれば壊れる気がしたから。
あの二人の距離感を。放課後、並んで帰る姿を。互いの名前を呼ぶ声を。全部。
通夜の日も雨だった。
祭壇に並んだ遺影を見た瞬間、優は息が詰まった。
浠夢は笑っていた。
尾上愛も、少し照れたみたいに笑っている。
普通の高校生みたいだった。
あんな終わり方をした人間には見えないくらいに。
優は目を伏せる。
焼香の煙がぼやけて見えた。
もし。
もし、自分がもっと早く浠夢への感情に気づいていたら。
何か変わったんだろうか。浠夢へちゃんと気持ちを返していたら。
尾上愛に向き合っていたら。
でも、たぶん変わらなかった。
優は静かに理解してしまう。
尾上愛は、あまりにも浠夢を好きになりすぎていた。
浠夢もまた、愛の隣にいることを当たり前にしていた。
そこへ誰かが入り込んだ時点で、きっと歪みは始まっていたのだ。
それが自分だった。優は小さく息を吐く。苦しかった。
自分が浠夢を好きだったのだとしても。
結局、自分は何も選べなかった。浠夢の手も。尾上愛の痛みも。どちらも。
焼香を終えて外へ出る。
雨の匂いがする。
視界の端に、小さな花束が見えた。
秋明菊。
白い花弁が雨に濡れて揺れている。優はしばらくその花を見つめる。
以前、浠夢が笑いながら言っていた。
「愛って花詳しいんですよ」
「小説書くからって」
その時の尾上愛は、少し恥ずかしそうな顔をしていた。
優は目を閉じる。尾上愛は最後まで浠夢だけを見ていた。
壊れるほど。どうしようもないくらい。
たぶん、自分よりずっと。
雨が強くなる。優は空を見上げた。
灰色の空は、どこまでも重い。
もう二度と、浠夢の笑い声は聞こえない。
尾上愛の静かな視線を見ることもない。
全部、終わってしまった。優は濡れた息を吐く。
それから、誰に向けるでもなく小さく呟いた。
「……好きにならなきゃよかった」
その声は、静かな雨音の中へ溶けて消えていった。
前回とは違うジャンルの小説を書いてみました。前回の半分くらいの文字数なので気軽にサクッと読めるかなと思います。




