第55話:夜の落書
夏の重苦しい夜気が京の都を包み込んでいた。
提灯の明かりが消え、静まり返った石畳の通りを、黒装束の影がまるで夜風に溶けるように軽やかに駆け抜けていく。
影の主は、一瞬足を止めると、手際よく木製の看板に一枚の紙を貼り付け、また闇の中へ消えていった。
翌朝。
昇る太陽が京の町を照らし出す頃、往来を行き交う町人や武士たちの足が、あちこちでピタリと止まった。
「おい、あれを見ろ……!」
「まただ。また例の看板が出ておるぞ」
三条大橋のたもと、そして聚楽第の外壁、さらには伏見城の目抜き通りにまで、昨夜のうちに何者かが設置した奇妙な木札が並んでいた。
そこには、見事な筆致で皮肉たっぷりの狂歌が書き連ねられていた。
「西山光を失ひ、東野の虎視眈々として牙を研ぐ」
「真面目すぎたる 三つ目の星も 闇の夜の 露と消ゆらん」
道行く人々が息を呑み、ざわめきが波のように広がっていく。
「西の山」とは隠居した豊臣秀吉、「東の野」とは伏見で勢力を拡大する徳川家康、そして「三つ目の星」とは、生真面目に奔走する石田三成のことだ。権力者たちの行く末を冷徹に見透かし、あざ笑うかのようなその詩は、瞬く間に京中の話題の的となった。
「いったい、誰がこんな不穏な真似を……!」
朝駆けのパトロール中でそれに気づいた豊臣方の武士が、青ざめた顔で看板を引き剥がそうとする。
しかし、書かれた言葉の毒はすでに人々の心に深く突き刺さっていた。
噂はすぐさま伏見の徳川屋敷にも届けられた。
本多正信は庭先でその狂歌の写しを読み上げ、ふっと冷ややかな笑みを浮かべた。
「殿、京の町でこのような落書が流行っております。石田殿を愚弄し、我が方の動きを牽制するような内容……。一体、誰の仕業でしょうか。豊臣に不満を持つ不逞の輩か、あるいは――」
縁側に腰掛けた徳川家康は、茶碗に目を落としたまま、静かに首を振った。
「誰が書いたかなど、どうでもよいわ。問題なのは、民や諸侯がこの詩に共感し始めておるという事実だ」
「はっ。世間の風向きは、もはや完全に我らに傾いておりますが……この狂歌、どこか面白がりながら天下の行く末を高みの見物しているような、奇妙な余裕を感じさせますな」
家康は目を細め、遥か北の方角へと視線を投げた。
「ああ。まるであの男が、遠い北の空からこの騒ぎを面白がって眺めているような……そんな気配すら感じておるわ」
一方、聚楽第の奥御殿。
庭の緑を眺める秀吉の耳にも、その「夜の落書」の噂は届いていた。
石田三成が血相を変えて部屋に飛び込んでくる。
「殿下! 京の町に、またしても我が方を侮辱する狂歌が出回っております! 一体誰がこんな悪質な真似を……許しておけません!」
三成の怒りに満ちた顔を見て、秀吉は声を上げて笑った。
「はっはっは! なかなかに巧みな詩ではないか。三つの星がどうこうとは、そなたのことだな、三成」
「殿下、笑い事ではございません! 民がこのような歌を面白がり始めれば、我が方の権威は地に落ちます!」
「権威など、はじめから風のようなものだ。捕まえようとして掴めるものではない」
秀吉は穏やかな笑みを浮かべたまま、空を見上げた。
「それにしても……この書きぶり、どこかで見覚えがあるような、ないような。いや、気のせいか」
京や伏見の町を揺るがす謎の狂歌の看板。
それは誰かの悪意か、それとも――静かに変わりゆく時代を映し出す、見えない鏡のようだった。




