第53話:北の果ての独り語り
京や伏見の喧騒から遠く離れた奥州――
あの凍てついた血の記憶を湛える九戸城の本丸には、相変わらず張り詰めた冷気が漂っていた。
かつて豊臣秀吉の軍勢を迎え撃ち、その黄金の鎧を身にまとった天下人を峰打ちの底力でひれ伏させながらも、自らは命を奪わず、ただ「己の影」だけを残して見送った男――九戸政実。
その男は今、誰一人いない天守の縁側に腰を下ろし、一献の酒を雪に散らすように傾けていた。
「…あのお方は、まだ生き抜くつもりか」
政実の呟きは、北風にかき消されてすぐに消えていく。
彼が天下を奪おうとしたわけではない。
豊臣の世に逆らったのは、ただこの北の地を踏みにじられることが許せなかったからであり、自身の誇りを貫くためだけに生き抜いてきた。
あの雪原での秀吉との一騎打ちは、互いの「飢え」を確かめ合うための、言わば儀式のようなものだった。
京から流れてくる風の噂によれば、秀吉は政から身を引き、石田三成という生真面目な影が孤軍奮闘し、そして伏見では徳川家康という老練な獣が静かに牙を研いでいるという。
「時代が、勝手に動いていくか」
政実は冷酒の残る盃をかざし、遥か南の空を見据えた。
自分が生きていようと死んでいようと、日ノ本という巨大なうねりは、もはや止めることのできないスピードで次の季節へと雪崩れ込んでいく。
三成の空回る忠義も、家康の冷徹な算段も、すべてはあの広大な大地の上で繰り広げられる、小さな芝居にすぎない。
「だが、それでいい」
政実はふっと小さく笑うと、盃の酒を飲み干した。
彼はもう、戦場に立つことはない。
この九戸の城で、北の風に吹かれながら、かつて天下を揺るがした男たちがどのような結末を迎えるのか――それをただ静かに、冷徹な観客として見届けるつもりだった。
北の果ての要塞に座す「鬼」の瞳には、一切の迷いも焦りもなかった。
そこにあるのは、すべてを達観した者だけが持つ、圧倒的な静寂と自由だけだった。




