アンダーパス
雨粒が窓ガラスに叩きつけ、ときおり車体がひどく揺れる。
盆休みも終わろうという日の夕刻、大型の台風七号が関東地方に上陸し、北上を続けていた。
高校から駅へと向かうバスの中、杉内園未はまだ午後五時前というのに真っ暗になった車窓にぼんやりと視線を向ける。荒天の影響で部活動は終了時刻を切り上げ、早めの帰宅を促されていた。
ふと気がつくと、バスは交差点の手前で青信号にもかかわらず停車していた。どこかの停留場かと思ったが違った。運転士はドアを開けることもせず、ハザードランプを点滅させ、そのまま前進する気配は全くない。
車内に不穏な空気が駆け巡る。どうした、事故とかじゃないわよねえ、早く駅に着きたいのに…。
「何かあったんですか? 急いでいるので早くバスを出してくれませんかね?」
前方左側の席に座っていた中年の男性が、少し苛立ちを見せながら運転手に問いかける。それに対し運転手は、マイクを通して乗客全員に告げた。
「ええ…この先の道路が…冠水の危険があります。お客様には大変申し訳ありませんが、このバスの運行は次の停留所をもちまして打ち切りといたします。」
驚きと不満の声があがる。園未も同じ考えだった。こんな場所で運転を打ち切られたら、どうやって駅まで行けばよいというのか。おそらく徒歩では三十分近くかかる。それもこの大雨の中だ。
「なお、このバスは次の停留所にて留まります。外は大雨のため、バスの中でお待ちいただくこともできます。」
お前、それ気を使ったつもりかよ…!
中ほどの席にいた会社員風の若い男性が、いきなり怒鳴り声をあげて歩み寄った。
「このくらいだったら走れるだろう。アンダーパスだって排水設備があるんだから、そう簡単に冠水なんてしねえよ!」
ここから二つ目の交差点の先に、私鉄の線路をくぐる地下道があるのは知っていた。そこが大雨で水没するというのだが、降り始めてまだそれほど時間が経っていないことを考えると、車両が通過できないほどの冠水が発生しているとは、園未でさえ思えなかった。
「今ならまだ、通れるんじゃないですか? こうやって待っている時間が無駄ですよ。」
三十代くらいの女性客が、先度の若い男に同調して声をあげる。事務所に帰ってやらなきゃならない仕事があるので、お願いだから進んでくれませんか…?
大半の乗客がそうだよな、という表情を見せる。声こそあげなかったが園未もそのうちの一人だった。早く駅に着き、電車に乗って自宅へ帰りたかった。台風の夜にこんなバスの中に閉じ込められるのは、ただただ恐怖でしかない。
「これ、会社からの指示なんですか?」
また別の男性乗客が詰め寄る。それに対して運転士は再びマイクで回答する。
「現場の判断で運航中止とします。このあと営業所に報告し、バスはしばらく停留所に留まります。」
お前の判断で勝手に決めんなよ…!
若い会社員風の男性が恫喝する。いいから早くバスを出せよ、人に会う予定があるんだよ、こっちは…。
「この先の地下道は、冠水し始めるとあっという間に水位が上がります。二年前の台風の時は車が何台も水没しました。ですから運行は出来かねます。これは運転士としての私の経験からの判断です。」
今度はマイクを通さず、運転士が会社員風の男性に説明した。バスは徐行しながら次の停留所に到達すると、そのまま動かなかった。
「じゃあ、ドアを開けろ。」
男が前方のドアを蹴った。女性もそれに続いてバスを降りようとステップのすぐ後ろまで歩み寄っている。
「雨脚が強くなっています。外に出るのは安全とは言いかねますが。」
うるせえよ、お前がバスを止めたから、仕方なく駅まで歩くんだろうが…!
そうよ、好きで降りるんじゃないのよ…!
「ですが、お客様…。」
いいからドアを開けろ!
男が運転士の胸ぐらを掴んだ。しばらくの間があって、運転士は渋々ドアを開けた。二人が勢い込んでバスの外に出ていく。二度と乗らねえぞ、あとで会社に苦情を言ってやるから…。
暴言を吐きながら、二人が雨の中に消えていく。
残された乗客は沈黙の中バスに残り、重苦しい空気とともに、ときおり愚痴やため息を吐き出す。園未は後方の席から一連の出来事を、体を固くしながら見守るしかなかった。自宅にはショートメールを送った。冠水の影響でバスが止まって動かない。電車も乗れるか分からない…。
降りていった二人の乗客の姿は、すでに何処にも見えない。
横殴りの雨が、車窓からの視界を完全に奪う。暴風に煽られた電線が叫び声をあげ、暗闇の中、どこからか鋭いクラクションが響き渡り、滝のように流れ落ちる大気を切り裂いた。
※※※
取引先の電機メーカーの工場が母校のすぐ近くにあると知ったのは、出張が決まり住所を調べた時だった。
「打ち合わせが早く終わったら、寄ってみようと思います。」
技術営業を担当する園未の任務は、工場の新システム導入後の状況確認だった。実家が隣の市にあると言うと、上司は帰省も兼ねて数日ゆっくりしてきたらと提案した。だから仕事が終わったら休暇を取って両親に会い、翌週のはじめに東京へ戻ることにした。
結果として、打ち合わせは早く終わったのだが、その頃から雨が降り出し、高校に着くころには本降りとなっていた。正門をくぐり構内に入っても、夏休み中ということもあって殆ど誰もおらず、校舎の周りを散策しただけでバス停に向かった。
「このタイミングで、ここにタクシーが走っているとは思いませんでした。助かりました。」
バス停に着いて時刻表を見たとき、やられたと思った。
次のバスに乗るには小一時間も待たなくてはならなかった。通学していた当時に比べてバスは三割ほど減便されており、しかもお盆期間中の特別運行がまだ終わっていなかった。工場の担当者が気を使って駅まで送りましょうと言ってくれたのを、高校に寄りたいからと断った自分の判断を後悔した。
だからこそ、こんな市街地の外れで流しのタクシーを拾えたのは奇跡に近かった。
「だいぶ雨脚が強くなってきましたね。」
園未が運転手に話しかけると、その男は小さく頷き、それ以上何も言わなかった。
台風十一号は午後三時過ぎに関東平野に上陸した後、内陸部を北上し、明日の朝には東北地方に達する見込み…。
これから風雨が強まるらしい。それまでに駅へ戻り、電車に乗って実家にたどり着きたかった。ふと園未は、十年前の夕刻のことを思い出していた。
あの時はバスの中で一時間半ほど待たされた後、雨脚が弱まり道路の冠水も無いことが確認されてようやく運行は再開、駅に着くことが出来た。ただ電車も大幅に遅延していたので駅まで父親の車に来てもらい、まだ強風の残る中自宅へ向かったことを記憶している。
たいへんだったのはその翌日からだった。
「結果として乗客の方二名が亡くなられたことは、たいへん遺憾であります。冠水の危険性を考慮し運行を中止したのは現場の運転士の判断ではありますが、むろん会社に承諾を得ての判断だったということです…。」
冠水は発生しなかったのだから、そのままバスを走らせても問題なかったのではないか、メディアをはじめとする世間の声は、そう言ってバス会社を糾弾した。
「もし走らせていたら、途中で下車した二名の方も無事駅に着けていたんですよね。」
結果論としては、そうなります…。
バス停からほど近い水路に、二人が転落して亡くなった。運転士を恫喝していた若い会社員風の男性と、行動を共にした三十代の女性のことである。彼らが歩いたのはバスの運行ルートとは別の、駅までの近道。増水して道路との境目が見えなくなっていたのが原因と考えられた。
「運転士の判断は誤りだったということですよね。そしてそれを営業所長や会社は正さなかった。」
経験上、アンダーパスは冠水して通行できなくなる。無理に運行を続けて暗闇の中でそこに突っ込めば乗客全員を危険にさらすことになる…。
慎重を期した決断だったが、裏目に出たとしか言いようがない。
「やたら慎重な運転をする奴が一人いてさ、おかげで帰りの電車に間に合わなかったこともある。」
同じ中学の出身で、部活動も同じ陸上部に所属していた桑畑という男子部員が、そう言って園未に愚痴ったことがある。地方都市の鉄道状況は当時から脆弱だった。一本電車を逃すと少なくとも三十分は次が来ない。
園未が乗っていたバスの運転手も慎重すぎるくらいの運転をしていた。もしかすると桑畑が言っていたのと同じ人物かも知れない。あの日、一時間半の待機の後、バスは突然運行を再開した。運転手は一言だけ、
「安全が確認されましたので、運転を再開します。」
とだけ言うと、あとは無言でバスを走らせた。駅に着くと前方のドアから降車する乗客に、何事も無かったかのように、ご乗車ありがとうございました、と告げていた。
何か言いたそうな乗客も少なくなかったが、無事駅に着いたことと、おそらくは運転手が適切な判断を下したのだろうという推測のもと、みな足早に駅舎に駆け込んでいった。
「聞けば、何度も乗客とトラブルを起こしたことのある運転士だったって言うじゃないか。会社はそんな奴の現場判断に任せていたってことだよな。いつも乗っているバスだからあまり言いたくないけど、管理体制がいい加減だってことだよなあ…。」
時々家族で行く定食屋で会った近所の男性が、そんなことを父親に話しかけていた。園未ちゃん、例のバスに乗っていたんだって? 大変だったろう…。
いえ、まあ…。
曖昧な表情と口調で答えたような記憶がある。
十年前と同じか、それ以上だと思った。
タクシーの窓に雨粒が叩きつけ、フロントガラスをワイパーがせわしなく往復する。対向車が水たまりを踏んで飛沫を浴びせてくる。その度に一瞬、視界が遮られる。
「危ない!」
片側一車線の県道で、前方から走って来た大型トラックがスリップしかけたのか、大きく左右に揺れてタクシーの鼻先を掠めるように走り去る。
雨脚はさらに強くなっている。園未は思わず運転手に話しかける。
「この先のアンダーパスとか、大丈夫でしょうか?」
話題として振っただけだった。さすがに冠水が始まっているとは思わないが、この雨である。走行が危険か、そうでなくても通行止めになる可能性はあると思った。そうなれば迂回を余儀なくされる。比較的時間のかからない駅までの代替ルートとして考えられるのは…十年前に転落事故のあった、あの水路際の抜け道くらいしかない。
「お客さんが判断してください。」
え…?
運転手が初めて口を開いた。今、なんて言ったんですか…?
「県道をそのまま進むかどうかは、お客さんが決めてください。冠水しているか、私には分かりません。また、少しくらい冠水していても、そのまま突っ切れば大丈夫な場合もあります。」
判断って…?
運転手の言葉の意図をはかりかねた。黙っていればそのままアンダーパスへ向かって突き進む、という意味だろうか?
「私ら運転手は、勝手な判断をすると怒られますから。お客さんの判断に任せます。どうします? そのまま進みますか? それともやめますか?」
二つ先の信号を越えた先にあるはずのアンダーパスが、真っ黒な口を開けて待っている気がした。
こんな時に限って青信号だ。タクシーは飛沫を上げながら県道を疾走する。速度計を見るといつのまにか八十キロを超えている。
「スピード、出しすぎていませんか?」
震える声で、園未は運転手に言った。だが、帰ってきた答えはそれに対してでは無かった。
「どうするんです、あと数十秒で地下道です。今のままならそのまま直進します。いいんですね。」
タクシーがさらに速度を上げる。一つ目の信号を通過する。次の信号も青のままだ。その先に、夜間で見えるはずの無いアンダーパスが、確かに視界の先に浮かんでいる。
「判断って、誰しも間違うことあるんですよね…。」
運転士が独り言のように呟いた。
園未は運転手の写真を見やる。そこで気づいた。この人、あの時の運転士だ。十年前のバスに乗務していた、あの運転士だ…。
アクセルをさらに踏む。信号は黄色になりかけていたが、交差点を強引に突破する。エンジンがうなりを上げる。その瞬間、園未は叫んだ。
「止めて…!」
急ブレーキが響き渡り、車両が道路上でスピンする。辛うじて横転を免れたそれは、両車線を遮るように斜めになって停止した。
右側のドアに肩を打ち付けていた。痛みに耐えながら、リアウィンドウの外を見ると、黒い水を湛えたアンダーパスが、まるで車両を誘い込むように波打っているのが見えた。
「何するんです…もう降ろして下さい…!」
運転手に向けて、叫ぶ。
無言で正面を向いたままの運転手の姿が視界に入る。
「ドア、空けてください。お釣りは…もういいです。」
財布から取り出した五千円札をそのまま後部座席に置いてドアに手をかける。左側のドアから出ようとしたが、自動ドアなので開けることが出来ない。
「お願い、出してください…!」
園未が悲鳴を上げると、呆気ないくらい簡単に、ドアは開いた。
「お客様の安全を…私は最善を考えて、そうしたんです。見ていましたよね、貴方だって…。」
そこで初めて運転手は振り向いた。その顔を見た瞬間、園未は弾かれるように車の外に転がり出ていた。
足がもつれ、膝から路上に倒れ込む。
その横でタクシーのドアが静かに閉じる。
腰が抜け、立ち上がることが出来ない。
タクシーが走り出し、来た道を戻っていき、やがて雨に煙る宵闇の中に吸い込まれて見えなくなった。
※※※
「あの時のバスの運転士が、その後どうなったかって? なんでそんなこと聞くんだ?」
帰省中に陸上部の同期で飲んだ。集まったのは八人ほどだったが、多少メンバーの入れ替わりはあっても、毎年そのくらいの人数で開催している。隣の席にいた桑畑に、運転士の話を向けたらやはり怪訝な顔をされた。が、それでも彼は答えてくれた。
「いろんな噂があるよ。運転士から内勤に異動になったけど、居づらかったのかすぐに辞めてその後の消息は分からない、とか。あと自殺説もあったかな。メンタルを病んで入院した数年後に亡くなったという話もあるけど、結局よくは分からない。」
地元で公務員になった桑畑でも、確かな情報は持ち合わせていないようだった。
「タクシー運転手をやっているって噂は?」
園未がそう質問すると、桑畑は隣にいた高仲という同期に問いかけた。
「お前んとこの会社で、例のバス運転士がドライバーやっていたりしないか?」
一瞬その質問の意味をはかりかねたような表情をしたが、父親が経営するタクシー会社で営業部長を務めている高仲は、うちにはいないよ、とあっさりと答えた。市内の他社には、と続けて園未が聞くと、聞いたことが無い、と回答した。
「狭い街だからね。入社すれば噂になるだろうし、その人もやりにくいだろうから、もしタクシードライバーをやっていても、よその街とか他県とかじゃないかな。」
確かに、言われてみれば地元では見かけない会社のタクシーだった。
二次会まで付き合ってお開きになり、駅のロータリー前で解散した。電車組は園未と桑畑の二人だった。終電の一本前を待っていると、ロータリーに一台のバスが入ってくるのが見えた。終バスの時刻は過ぎているはずだ。遅延しているのだろうかと思って眺めていたら、停留所でドアが開き、そこから運転士が降りてきた。
その人物を見た瞬間、園未は全身の震えが止まらなくなった。
「どうした?」
桑畑が心配そうに園未の顔を覗き込む。
「何でもない。」
そのタイミングでホームに列車が入って来た。
遮られた視界の向こう側で、運転士の男が立ち尽くしている。
園未はそこから視線を逸らすことが出来ない。
運転士の男もまた、園未に視線を向け、その場を動かない。
桑畑に促され、園未は車内へ足を進める。列車のドアが閉まる。
バスの運転士は、走り出した列車をじっと見つめたままだ。
その視界から列車が遠ざかり、姿が見えなくなるまで、運転士の男が空洞のように落ち窪んだ目でこちらを凝視していたことを、園未はずっと覚えていた。
(完)




