第60話「路地の棘」Part1
月明かりが濡れた石畳を鈍く照らしていた。夜気を裂いて響く足音、洗い呼吸。追われる影は振り返らない。だが“それ”は確かに迫ってくる。見えない棘が背に刺さるような、執拗で冷たい気配が、距離を詰めてくる。
――場面は切り替わる。クロード家。
その日の屋敷は、いつも通りの温度だった。裏庭ではアラタがミオナに構えを直させ、足回りを叩き込む。キッチンではバルタが手際よく包丁を動かし、ディノは磨き上げた刀身を傾けては独りごち、にやりと口角を上げる。
軽快なノック音が、その日常にひとつの区切りを打った。金の髪をさらりと揺らし、ヴァリーナが手紙を手に入ってくる。
「こんにちは、シュティー」
「やっほ。今回はどんな依頼かなー?」
ヴァリーナが封を切った手紙を渡すと、シュティーは読み進めながら目を細めた。依頼主はノーラ・カルディ。
依頼内容はセルカ島中央部からやや北、丘のうえの街「カリスベッタ」人口は右肩下がり、灯りは薄く、“寂れた街”と呼ぶのが似合う。最近その街で頻発する通り魔事件に関わるものだった。数日前、ノーラ自身も遭遇したが、間一髪で逃走。だがそれ以来、どこからともなく視線を感じる――通り魔に狙われているのではないか。その不安が、クロード家の扉を叩かせた。
「なるほどね、通り魔事件か……。アラター」
「なんすか、ボス」
「新しい依頼。カリスベッタの件、調べてきてくれる?」
手紙を受け取り、アラタは文面に目を走らせ――ぴたりと固まった。
「なぁボス。今回の依頼、ボスが行く予定か?」
「そうだけど?」
アラタはわずかに顔をしかめ、覚悟を固めるように息を吐いた。
「……すまない、ボス。今回は俺に任せてくれないか」
「ひとりで、ってことでいいのかな?」
「あぁ…」
「一応、理由を聞いてもいいかな?」
言いにくそうに視線を落とし、アラタは口を開く。
「依頼主のノーラ・カルディは……俺の元カノだ…」
低く、しかしはっきりとした声だった。
「へぇ……アラタらしいと言えばらしいけど。他にもあるよね?」
「……こいつは俺がクロード家に入るきっかけになった女でもある。正真正銘の性悪だ。ボスに会わせるわけにはいかない」
シュティーは短く考え、すぐに頷いた。
「わかった。アラタのことだし、下手は打たないでしょ。――ただ、問題が起きたらすぐ連絡。いいね」
「ありがとう、ボス」
ほんの一瞬、アラタの表情から冗談めかしさが消えた。その目には、過去と向き合う者の硬い決意だけが残っている。
こうして、アラタの因縁に刃を入れる「通り魔事件」が幕を開けた。




