第32話「赫焰の刻印」
ルナーレ大聖堂。その石造りの荘厳な空間の下に、人知れず広がる薄暗い地下水路がある。
その水の流れる音が反響する中、一人の男が立っていた。
バスクファミリーへの潜入を命じられたアラタ──変幻によって、姿はあの刺客“シェイド”そのものとなっていた。
「じゃあ行ってくるわ」
軽口のように言うその声に、隣のバルタが渋い顔をする。
「能力は模倣してくか?」
「いや、模倣して罪が使えなくなる方が痛い。……最悪、敵の能力を拾うかだけど、運任せだな」
淡々とした口調の裏に、アラタ特有の妙なワクワク感が滲んでいた。
この任務はタイムリミットつき。変幻の効果時間は一時間。それを過ぎれば正体が露見し、確実に戦闘になる。それでもアラタは楽しんでいた。──"ボス"からの任務。それだけで、彼の中には小さな火が灯っていた。
「ミオナも助けられたらいいが……ま、期待はしすぎねえ方がいいか」
「頼むぞ、アラタ」
バルタの言葉を背に、アラタは古びた祭壇の裏手にある隠し口から、水路へと滑り込んだ。
灯りもほとんど届かぬ水路の中。足音と水音だけが響く。ミオナの記憶で得た水路の構造が、今この時ほどありがたく思えることはない。
壁に手を添え、慎重に進みながらも彼は余裕の足取りでズンズンと進んでいく。
──10分後。
「ここだな」
記憶にあった鉄の柵。外からは開かず、通常なら完全に行き止まりとなる場所。しかし、今の彼にとっては違う。
「帰還した。開けてくれ」
低く響かせた声に、陰から一人の構成員が現れた。やつれた顔に緊張感を浮かべながら、頭を下げる。
「シェイド様、お疲れ様です。見事、敵を二人とも──」
「あぁ。なかなか手強い相手だったが、俺に敵うわけがない」
とぼけるように言いながら、アラタはさりげなく構成員の肩に手を置いた。
「ギルティ……追体験」
小声で呟いた瞬間、構成員の記憶が彼の脳裏に流れ込む。柵の管理任務、悲鳴が響く地下の部屋、そして──艶めいた女との会話。
「どうされましたか?」
構成員が怪訝な表情を浮かべる。
「……いや、何でもない。続けてくれ」
アラタはそう言い残し、無言のまま先を急いだ。
記憶の中の女の姿──目元に艶を宿し、どこか挑発的な笑みを浮かべるその女が、実際に現れたのはそれからまもなくのことだった。
「あら、もう戻ってきたの?」
緩やかに腰を揺らしながら歩み寄ってきた女。その名を、アラタはすでに知っていた。
「ご苦労さまです。カリナ様」
「“様”なんていらないわよ? アタシたちの仲なんだから」
戯けたような笑み。その言葉の調子も、しなやかに絡む蛇のようだった。
「いえ。“幹部”であられるカリナ様に、失礼な態度は取れませんので」
アラタはあえて距離を保つような口調を選んだ。──記憶に残る“シェイド”の言い回しに寄せながら。
「ふふっ、本当イケずなんだから。……ねえ、シェイド。見ていかない? 今ちょうど一人、拷問してたの」
そう言って彼女が導いた先、鉄の扉の向こうからは、焦げた肉の匂いと男の呻きが漏れていた。
部屋の中央には、火傷まみれの男が縛られていた。皮膚は裂け、ところどころ焼き爛れている。
「この男は?」
「うちのカジノでイカサマをしてたの。どうやら政治家と繋がってるらしくてね。レガルド様が、その政治家を丸め込みたいって」
カリナはそう言いながら、男に歩み寄り、手をかざした。アラタの視線がその手元に集中する。
そこに現れたのは──“スタンプ” 無機質な模様を刻むそれは、男の胸元に薔薇の印を浮かび上がらせた。
「ほら、早く吐いたほうがいいわよ?」
「クソっ……てめぇらクズどもに、誰が……!」
男は頑なだった。アラタは直感で悟る。こいつは、何をされようが屈しない。
「そう。残念ね」
カリナがそう告げた瞬間、薔薇の刻印が赤く輝き、男の胸から炎が噴き出す。
「──ッああああああああッ!!」
絶叫。カリナは愉しげに眺め、そしてもう一度スタンプを押した。
「人の心まで操作できたら楽なのに」
男の体は焼かれ続け、そしてついに──命の灯が消えた。
「まったく……」
カリナはふうっと吐息をつくと、アラタの胸に身を寄せた。
「アタシ、これでも頑張ったのよ? ちょっとくらい、褒めてくれてもいいんじゃない?」
戸惑いながらも、アラタは形式的に彼女の身体に腕を回す。これで模倣の条件は整った。
具現化による刻印。誘発する炎。さらに口ぶりからして、人の操作の要素も含まれる可能性が高い。──危険な能力だが、使える。
アラタはさりげなく彼女から距離を取ると、恭しく頭を下げた。
「カリナ様。これよりレガルド様に報告がございます。行ってもよろしいですか?」
「えぇ、いいわよ? レガルド様にも、ちゃんと伝えて。男は“舌を噛み切って自害した”ってね」
含みのある笑みを浮かべるカリナの言葉に頷き、アラタは踵を返す。
──残り時間、30分強。
この先には、レガルドが待つ。緊張の一瞬は、まだ始まったばかりだった。




