第30話「灰に交わる手」
視界に広がるのは、白い天井。
薬品と消毒液が混ざったような匂いが鼻をつき、柔らかなシーツが体を優しく包んでいた。
「……ここは」
シュティーはゆっくりと身を起こす。
左肩に痛みはない。背中の裂傷も、刺客から受けたはずの傷の数々も、感覚として存在しなかった。
あまりにも違和感があった。生きているとは思えないほどの静けさ。だが、これは間違いなく“生”の中の静寂だった。
外の空は薄闇に染まり、夜を迎えようとしている。
彼女は思い出す。刺客との戦い、刺客の狂気と、住民を庇った自分の左肩。――そして最後に見た、駆け寄るディノの姿。
その時、病室の扉が音もなく開いた。
入ってきたのは、濃いグレーのスーツに身を包んだ、年の頃は50代半ばの男性。
背筋は伸び、目には老練さと威厳が宿っている。
「起きたようだな、シュティー・クロード」
その一言で、彼が何者であるかを察するのに時間はかからなかった。
シュティーは軽く笑う。
「初めまして、でいいのかな?――CID局長さん」
局長は微かに口元を緩めたが、表情に揺らぎはない。
「派手にやったようだな?」
「まー、ボクが始めたわけじゃないんだけどね」
シュティーはベッドの上で足を組み、会話の主導権を探るように答える。
局長は、その仕草すら計算のうちとばかりに続けた。
「そうだな。今回お前を襲ったのは、バスクファミリーのギルバート。住人も、お前がそいつを止めたと話している。……命を救われたという老人もいた」
「ふーん、それでボクをこんな高待遇で病院に入れて、治療までしてくれたと。――ありがとうね?」
その声色には、礼の裏に潜む警戒が滲む。
局長はそれを承知の上で言葉を重ねた。
「ここはCIDの管轄病院だ。最高峰の治療能力者が揃っている。そして……」
一拍。
「お前が、バスクファミリーへの強襲を企てていることも把握している」
その言葉に、シュティーの瞳がわずかに揺れる。
「前半は分かるよ。街のために戦ったって名目。でも後半……どうしてそれが関係あるの?」
「理由は簡単だ」
局長は椅子を引いて腰を下ろし、落ち着いた声で語る。
「お前たちクロード家が、バスクファミリーに勝てる見込みはあるか? 正面からでは難しいと見ているのだろう?」
図星だった。
だから裏口から静かに潜り込み、ミオナだけを救うというプランを立てた。
「なるほど。つまり……協力してくれるってこと?」
「そういうことだ」
局長は短く頷いた。
「バスクファミリーは、もともとCIDにとって“脅威”だった。だが、貴族、政治家、富裕層……多くと繋がっている。手を出せば面倒が多かった。しかし今回――構成員の一人が公衆の面前で能力を使い、被害を出した。これを機に動かない手はない」
言葉の端々に、長年の葛藤と計算が感じられた。
しかし、シュティーはすぐに頷かない。警戒心は緩めなかった。
「……でも、なんで? マフィアに手を貸すのが正義のCIDのする事かな?」
その問いに、局長は初めて――ほんのわずかに――微笑んだ。
「ある男と……“約束”をした。それだけだ」
「……約束?」
聞き返すシュティーに、局長は何も言わない。
それ以上は語らない、という線をはっきりと引いていた。
それでも彼の言葉は嘘ではないと、シュティーはどこかで感じていた。
胸の奥に、わずかに宿る“信じたい”という感情が疼いた。
「それで? 突入はいつにするの?」
「早くて三日後だ。部隊編成もあるし、お前も今は回復に努めるべきだろう」
「オーケー。それで行こう」
シュティーはベッドから降り、軽く伸びをした。
そして局長に向き直り、手を差し出す。
「それと……ボクをラグーザまで送ってくれない? やる事あるから」
「わかった。ヘリを手配する」
局長は立ち上がり、彼女の手を握り返す。
その瞬間――交わったのは、正義と悪、策略と願い、信頼と警戒。
それは、火の中の灰のような契約だった。
だんだん進んでいくよ〜




