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●第5章:反転する力学

 アイゼンブルク連邦との交渉は、より複雑だった。七つの自治州からなる連邦は、それぞれが異なる利害関係を持っている。セレナは、その複雑な力学を逆手に取ることにした。


「各州の代表に、個別に接触するのです」


 セレナは、側近たちに指示を出した。


「特に、工業地帯を抱える北部三州が重要です。彼らは、東方への市場拡大を切望している」


 作戦は功を奏した。アイゼンブルクの工業資本家たちは、セレナの提案に大きな関心を示した。永世中立国としてのアルファリアは、彼らにとって理想的な中継地点となる。


 そして、マハーラージャ王国。彼らの動きは、最も予測が難しかった。


「カプール卿が再び謁見を求めています」


 クラウス・ヴィンターが報告した。


「お通しください」


 現れたカプールの表情は、前回よりもさらに自信に満ちていた。


「陛下、先日の私どもの提案について、お考えは?」


「はい。真摯に検討させていただきました」


 セレナは、ゆっくりと言葉を選んだ。


「しかし、結論として、お断りせざるを得ません」


 カプールの表情が凍り付いた。


「しかし、陛下。これほどの好機を……」


「カプール卿。私の決意は固いのです」


 セレナは立ち上がり、窓際に歩み寄った。


「ただし、マハーラージャ王国には、別の提案がございます」


「別の、提案?」


「はい。永世中立国となったアルファリアは、マハーラージャ王国の影響力を、より効果的に北方に伝えることができます。宗教的な影響力も、文化的な影響力も」


 カプールの目が輝いた。マハーラージャ王国は常に、その精神的影響力の拡大を望んでいた。


「そして、その影響力は、より実質的な形で還ってくる」


 セレナは立ち上がり、書斎の古い地図キャビネットから一枚の地図を取り出した。それは、マハーラージャ王国の古来の交易路を詳細に記した貴重な資料だった。


「カプール卿、これをご覧ください」


 セレナは地図を広げ、細い指で北方へと伸びる交易路を指した。


「これは、かつてマハーラージャ王国の商人たちが用いていた『香料の道』ですね」


 カプールの目が輝いた。その道は、マハーラージャ王国の黄金期に栄えた伝説的な交易路だった。


「その通りです。しかし、ノルドハイム帝国の南下政策により、この路は百年前に途絶えてしまった」


 セレナは一呼吸置いて、今度は新しく作らせた地図を取り出した。そこには、アルファリアを中心とした新しい交易網が描かれていた。


「私が提案したいのは、この新しい交易路の確立です。アルファリアが永世中立国となることで、マハーラージャ王国は安全に北方との交易を再開できる。そして、それは単なる物流の道にとどまりません」


 セレナは、さらに詳細な計画書を示した。


「私たちは、アルファリアに『東方文化研究所』を設立することを計画しています。そこでは、マハーラージャ王国の哲学、医学、数学が重点的に研究され、北方へと伝えられる」


 カプールは身を乗り出した。


「そして、その文化的影響力は、必然的に経済的利益となって還ってくる。香辛料や織物だけでなく、マハーラージャ王国の精神文化そのものが、新しい商品となる」


 カプールの表情が、徐々に変化していく。


「さらに、アルファリアは毎年、マハーラージャ王国の芸術祭を開催します。音楽、舞踊、建築……あらゆる芸術を通じて、貴国の文化的深みを北方に伝える。それは、軍事力や政治力以上の影響力を持つはずです」


 セレナは机の引き出しから、さらに一枚の文書を取り出した。


「これは、すでにアルファリアの商人たちと、北方の商人たちが交わした覚書です。彼らは、この計画に大きな関心を示しています」


 カプールは文書に目を通し、その具体性と実現可能性の高さに、目を見張った。


「そして何より」


 セレナは声を落として続けた。


「この計画は、他の三カ国に対して、マハーラージャ王国の優位性を際立たせることになります。文化の力で、北方に浸透していく。それこそが、最も賢明な戦略ではないでしょうか?」


 カプールの瞳に、確信の色が浮かび上がった。それは、単なる政略的な打算を超えた、本質的な価値を見出した者の輝きだった。


 そして彼は、ゆっくりと深く頭を下げた。


「陛下の慧眼に、心からの敬意を表します。この計画を、必ずや陛下に具申いたしましょう」


 窓から差し込む夕陽が、二人の間で交わされた新しい約束を、静かに照らしていた。


 しかし、この瞬間にも、新たな危機が忍び寄っていた。


 その夜、セレナの執務室に一通の緊急電報が届いた。


「これは……!」


 ブラックウッドの声が震えた。電報の内容は、衝撃的なものだった。マハーラージャ王国の工作員が、リリアの誘拐を計画しているという。


「やはり、ここまで来ましたか」


 セレナの声は冷静さを失わなかった。


「直ちにリリアの警護を……」


「いいえ」


 セレナは、ブラックウッドの言葉を遮った。


「この情報を、ノルドハイム帝国のシュタインフェルト将軍に流してください」


「しかし、それは……」


「マハーラージャ王国の動きを、最も警戒しているのは誰か。それは、北の帝国です」


 セレナの目が鋭く光った。


「これで、ノルドハイム帝国は、マハーラージャ王国への牽制を強めるでしょう。そして、その動きは必然的に、大玄朝とアイゼンブルク連邦の警戒心も煽ることになる」


 ブラックウッドは、感嘆の声を上げた。


「見事です。敵の動きを、私たちの利益に変える」


「ただし、リリアの警護は強化してください。これは芝居ではありませんから」


 セレナは、妹の肖像画を愛おしそうに、しかし複雑な想いで見つめた。


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