●第2章:継承の重み
夜明け前の王宮は、不気味なほどの静けさに包まれていた。セレナは父王の病室で、アレクサンダー4世の苦しそうな寝息を聞いていた。かつては威厳に満ちていた父の顔は、今は蒼白く痩せ細っている。
「まだ目を覚まさないの?」
リリアが小さな声で訊ねた。妹の青い目には不安が浮かんでいる。
「ええ。でも、必ず良くなるわ」
セレナは強くそう言い聞かせるように答えた。しかし、昨夜から父王の容態は急速に悪化していた。
「陛下の意識が戻りました!」
侍医長のアンリ・デュボワの声が静寂を破った。セレナとリリアは急いでベッドに駆け寄る。
「セレナ……リリア……」
アレクサンダー4世の声は、かすかだが確かだった。
「お父様!」
リリアが泣きそうな声を上げる。セレナは父の手を優しく握った。
「私の愛する娘たち……セレナ、昨夜の会議のことは聞いている。永世中立国か……」
「はい。お気に召しませんでしたか?」
セレナは少し緊張した面持ちで訊ねた。父王はかすかに微笑んだ。
「いや……よく考えた。だが、簡単な道ではない。四大国は……それぞれの思惑がある。表向きは賛同しても、裏では……」
言葉が途切れる。セレナは父の手をさらに強く握った。
「わかっています。でも、これしか道はないと思うのです」
「その通りだ。セレナ……お前は……」
突然、アレクサンダー4世の体が大きく痙攣を始めた。
「お父様!」
リリアが叫ぶ。侍医長が慌てて駆け寄る。
「陛下! 酸素を!」
混乱の中、アレクサンダー4世は最後の力を振り絞るように言葉を紡いだ。
「セレナ……私の指輪を……」
それが父王の最期の言葉となった。
*
国葬の準備が進められる中、セレナは父王から託された指輪を見つめていた。それは代々の国王が受け継いできた印璽の指輪。アルファリアの国璽が刻まれている。
「これが、アルファリアの心臓」
セレナはつぶやいた。アルファリアの歴代国王は、この指輪を通じて国家の意思を表明してきた。しかし、女性が王位を継承するのは、建国以来初めてのことになる。
書斎のドアがノックされた。
「入りなさい」
現れたのは、諜報局長官のエドガー・ブラックウッドだった。五十代半ばの切れ長の目を持つ男性は、常に冷静さを失わない。
「報告です。各国の動きに変化が見られます」
「どのような?」
「ノルドハイム帝国が、北部国境地域に軍隊を増強し始めました。大玄朝は東部国境で軍事演習を開始。アイゼンブルク連邦は、すでに一部の貿易制限を実施しています」
セレナは地図を広げた。状況は予想以上に急を告げている。
「マハーラージャ王国は?」
「彼らは……少し違う動きを見せています。宮廷内に工作員を送り込もうとしているようです」
「工作員?」
「はい。特に、若い貴族たちへの接触を試みているとの情報があります」
セレナは椅子に深く腰掛けた。父王の死を受けて、各国は一斉に圧力を強めてきている。永世中立国構想は、まだ机上の計画に過ぎない。これを実現するためには、まず目の前の危機を乗り越えなければならない。
「ブラックウッド卿、あなたはどう思われます?」
「率直に申し上げれば、非常に厳しい状況です。四大国は、若い女王の即位を、アルファリアの弱体化の好機と見ているでしょう」
「そう……でしょうね」
セレナは立ち上がり、窓際に歩み寄った。宮殿の庭では、国葬の準備が進められている。黒い布で覆われた祭壇が、これから始まる困難な戦いを予感させるようだった。
「では、その『弱点』を逆手に取りましょう」
「どういうことでしょうか?」
「各国は私を過小評価しています。その思い込みこそ、私たちの最大の武器になり得る」
セレナは父王の印璽の指輪を、ゆっくりと左手の薬指にはめた。
「準備をしてください。国葬の後、直ちに行動を開始します」
ブラックウッドは深く頭を下げた。
「かしこまりました。ただ、お一つ……」
「何でしょう?」
「陛下、どうかご自身の身の安全にも気をつけてください。宮廷内にも、敵の手先がいる可能性があります」
セレナは小さく頷いた。そして、机の引き出しから一通の手紙を取り出した。
「これを、リリアに」
「手紙ですか?」
「はい。もし私に何かあったときのための手紙です。でも、それは最後の手段として」
セレナは窓の外に広がる王都の景色を見つめた。夕暮れの空が、血のように赤く染まっている。