●第1章:迫り来る影
アルファリア王宮の古い鏡は、セレナの疲れた表情を無慈悲に映し出していた。二十歳の誕生日を迎えたばかりの王女は、父王の執務室で一通の外交文書を握りしめていた。羊皮紙に記された文字は、まるで毒を含んだ蛇のように蠢いているように見える。
「これは最後通牒というわけですか?」
セレナは窓際に佇む宰相ヴィルヘルム・ローデンバッハに問いかけた。七十を過ぎた老宰相は、深いため息を漏らす。
「その通りです。ノルドハイム帝国は、北部国境地域における『民族保護』を理由に、軍事介入の可能性を示唆してきました。これは単なる脅しではありません」
セレナは父王の机に置かれた地図に目を向けた。アルファリア王国は四つの大国に囲まれた内陸国だ。北にノルドハイム帝国、東に大玄朝、西にアイゼンブルク連邦、そして南にマハーラージャ王国。これまでも幾度となく危機的状況はあったが、今回ほど深刻な事態は記憶にない。
「他国の動きは?」
「大玄朝からも『歴史的領土の回復』を求める声明が届いています。アイゼンブルク連邦は鉄道敷設権と鉱山の利権を要求し、これが受け入れられない場合は経済封鎖も辞さない構えです。マハーラージャ王国は宗教的少数派の保護を名目に、内政干渉の姿勢を強めています」
セレナは静かに目を閉じた。まるで四方から巨大な壁が迫ってくるような感覚。父王アレクサンダー4世は重い肺炎に倒れ、すでに一ヶ月以上も政務から離れている。その間、セレナは摂政として国政を担ってきた。
「時間がありません。このままでは……」
ローデンバッハの言葉を遮るように、セレナは立ち上がった。
「わかっています。でも、どんな選択をしても、アルファリアの未来は危うくなる」
窓の外では、初夏の陽光が王都カンタベリアの街並みを優しく照らしていた。石畳の通りを行き交う人々は、迫り来る危機など知る由もない。
「お父様の容態は?」
「残念ながら、まだ回復の兆しは見られません」
セレナは再び鏡に映る自分の姿を見つめた。そこに映るのは、もはや幼い王女ではない。一国の運命を背負わねばならない若き指導者の姿だった。
「集めてください」
「何をですか?」
「枢密院の重臣たちを。そして、各国大使も。今夜、重要な発表があると伝えてください」
ローデンバッハは一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに深々と頭を下げた。
「かしこまりました」
老宰相が部屋を出て行くと、セレナは父王の書斎の書棚に目を向けた。そこには代々の国王が残した記録が並んでいる。特に、建国期の記録は貴重だ。アルファリアは、かつて四大国の狭間で生まれた小国。その存在自体が、奇跡のような均衡の上に成り立っている。
セレナは一冊の古い書物を手に取った。『四方通商条約』の原本だ。1755年、アルファリアは四大国との間で、この画期的な通商条約を結んでいる。各国と個別に結ぶのではなく、多国間で結ぶことで、一国に過度に依存することを避けた巧妙な外交戦略だった。
「歴史は繰り返す……でも、同じ解決策が通用するとは限らない」
セレナは静かに本を元の場所に戻した。書斎の隅に置かれた小さな箱が目に入る。開けてみると、中には一枚の写真が。母后エレノアの写真だった。十年前、伝染病の大流行で母后は帰らぬ人となった。その時、わずか十歳だったセレナは、初めて「運命」という言葉の重みを知った。
「母上……私に力を貸してください」
そっと写真に口づけをすると、セレナは妹のリリアの部屋へと向かった。十三歳の妹は、まだあの頃の自分のように、世界の厳しさを知らない。その無垢な笑顔を守るためにも、今の危機を何としても乗り越えねばならない。
*
夜の枢密院は、張り詰めた空気に包まれていた。重臣たちの表情は硬く、各国大使の目は鋭い。セレナは高い天井の下、ゆっくりと口を開いた。
「紳士淑女の皆様。本日は急なご召集にも関わらず、お集まりいただき感謝申し上げます」
セレナの声は、予想以上に落ち着いていた。
「現在、我がアルファリア王国は重大な岐路に立っています。北からは軍事的圧力、東からは領土要求、西からは経済的圧迫、そして南からは内政干渉の脅威に直面しております」
各国大使が身じろぎする。
「しかし、私たちには選択肢があります。今夜、私は一つの提案を申し上げたい」
セレナは一呼吸置いて、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「アルファリアは、永世中立国となることを宣言いたします」
会場がざわめいた。予想外の提案に、誰もが困惑の表情を浮かべる。
「しかし、これは単なる理想論ではありません。具体的な実施計画を用意しています。まず、四カ国すべてと個別の通商協定を結び直します。そして、アルファリアを国際的な金融・商業のハブとして位置づけます。さらに……」
セレナの説明は夜更けまで続いた。誰も途中で退席することはなかった。それは、彼女の言葉に説得力があったからだ。あるいは、二十歳の若さでこれほどの構想を示した彼女の存在自体に、皆が魅入られていたのかもしれない。
しかし、これは始まりに過ぎなかった。真の戦いはこれからだった。