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かくあれかしミッドトゥエンティ―ス

作者: mabo

二十世紀最大のディストピア文学

二十一世紀のパスティーシュ文豪

メタパスティーシュ

—①—


ニュースピーク辞典第十二版曰く、

「……try of educate superplusgoodwise has been doing and it ends here by show 1800000 words. In the end of the long term war and develop, we’ve put on justice of our epoch……


どうやらまだオールドスピークを使いこなしている人間によって作成されたらしいその辞書を手に取ってストラマは馬鹿げた気分になった。完全なニュースピークは二千五十年までの約束だったはずだ。

彼は新しく支給された想述筆記シンクライトの前に辞書を置きやって、尚悲観の気持ちは晴れなかった。仕事でも紛らわせそうにない苦渋の出来だ。なんて愚かな出来なのか悔やみきれなかったし、何と言えば、自分の方がより上手にニュースピークをこなせそうなのがとてもやるせなかった。

educateと書くならgoodwiseというのはいかにも迂遠である以上に不要で不可解な加筆であったことがどうしてわからなかったのだろう。百八十万という明記になんの意味があるのか不確かであり、しかし意味がない以上に事実を隠す手立てはなく、そうして何事かが秘密裏に成し遂げられんとしている、その「百八十万」という数字の偶有性なるものが、その充足が、何よりも党の示唆を与えることを想像するのは別に難しいことでもなければ、いや、さも当然なのだ。しかし一体なんの恨みがあってこんな出鱈目を正々目の前でしでかしたのだかとんと見当がつかない。いや、意味はあることにはあるのだろう。例えばそんな間抜けたポストならば私が、私がと隗より始めるごとく競争の渦に巻き込んでいけるような求心力ーそれがひと昔には「戦争は法なり」?とかなんとか言ってもてはやされていたこともあったーを備えていることを見越した、知見に富む行為でさえあったかもしれないのだ。

とはいえ。とはいえ、である。それにしても連中のレベルといったら、プロールとなんら変わることはないのだ。目下の興味は誰が何を山分けしていて、誰がそれを手にするのか、それに関する賭け事とか、一杯かました後ののらりくらりしたセックスとか、そうして一人思い知る孤独をなんの酒で癒すのかとか、そんなことだ。そんなことにしか中枢は興味がない。

「腐敗だ。」

浮き上がったcollapseの一語を眺める。

想述筆記の上手な統率方法は多重思考ダブルシンクに他ならなかった。いかに気をつけていようと感情の吐露は起きてしまう。それが何かしらの靄がかかった、曖昧な思考になって、ついに形をとって文字に浮き上がる。

いかにして?ストラマも簡単な説明なら少し齧ったことがあった。人間には常に磁場が付帯していて、それが思考の些細な変化でαからθまで様々な変容をとり、時に不可逆的に、また時に入り混じりながらある状態を保持しようとする。その磁場の変化に付随した人間的動力の変化を以て、またそれがなんらかの変換を経て体内から筆記機械、筆記機械からペーパー上、デジタルデータ、三次元出力リンク、ハイパーデジタリゼーションなど、さまざまな位相へ転写されるのだ。

今にもその一語は消えてしまって、新たに思考を受け入れる素地を生み出した。

これがほんの数秒の出来事に片付いてしまう。脳が思い為しを初めてコンマ数秒のうちに筆記機械は筆記を始める。これを全て意味のある「work」にとどめ置くには、他の全ての思考を多重思考の中に閉じ込めてスポイルしてしまうに過ぎるはない。

スポイルするにはスポイルなのだが、これは別に非正統的所作ではない。

党は何も奨励したり、憎んだりしないものの、毎日記憶穴から投函されるタイム誌によってその意向が見えるのは、もう誰も知っているであろうし、あえてその自明の中を否定して回ることはとんと無意味である。仕事をしている方がうんと生産的であることに疑いはない。

それで、うぅっと、ああ、そう、この感覚は少しだけ慣れが必要で、今でも少し吐き気を催すのだが、脳から筆記具にアクセス出来ることはもう誰もが当たり前にこなしていることなのだが、これと逆のようなことが出来るようになってきたのはごく最近のことだ。まだβまでの解析しか進んでいないということだから、それ以外の信号から脳にアクセスすると頭が痛くなったり、吐き気を催したり、とにかく不快が体を駆け抜けるのだ。党によれば「brainacuss justifies in goodthink of party(ーオールドスピークでーブレインアクセスシステムは我々を党の良識思考のもと、私たちの正統の礎をもたらす)ということだそうだ。これは画期的だった。今までは思考筆記によって得られた外的特徴量に対し観察が加えられることでしか発見出来なかった「思考犯罪」ー今はそんな古風な呼び方はせず単にアンチズムという一言に集約されているーなのだが、このブレナクスによって、反対に心の中を知る、ということまではまだ出来ないようだが、少なくともアンチズムに対して不快感をもたらす罰を与えることが出来、これがアンチズムの犯罪を抑制していることに尽力しているのも頷けた。

いや、アンチズムの考える不快感は自由なのだ。


吐き気は果たして党に対する我らが義務に落ち着いた。

「アンジー、だからブレナクスの実践はまだ早いって言っただろ?それもなんでこんな昼過ぎに呼ぶんだ。我らが義務でなければ断っていたのに。」

「うん……、三十点ね。」

アンジェリーナは彼を見つめてそう言った。

「三十点?やけに低いな。いや、何点満点かわからない、とにかく早く済まそう。」

別段急ぐ必要はなかった。義務を果たすため、という目的のためなら多重婚すら認められたし、実際そういうことは近年の傾向に明らかなのだ。

「In Second―in city―, need of the duty. More party members, more goodthinkers. In the safe of the mind. Comrade! (第二都市ーのみならずこの都市ーでは人口増加低迷のため、「我らが義務」の必要性が増している。党員が増えることはすなわち良識思考者が増えることを意味するのだから、安心して専念したまえ我が同志ら!。)」

ナグロ・トミカズというオストの出身の学者による提言だった。ただ我らが義務の必要性を謳った言葉っツラなのだが、その裏にはやはり、低迷、という事実がある。紛うことない、あれは確かに五十三万二千三百十五という数値から四十九万八千七百九十二という数値への推移だったに違いない。期間はここ数年、確か七十二年から七十五年までだったはずだ。

だから、これは、私たちは、カタ、私たちの義務を果たすために、カタカタ、私たちはここにいるのだ。カタ、そうだ、これは正しい行いなのだ。

汗が染み出す。カタカタ。

「慌てすぎよ。だってほら、こんなに……」

彼女は想述筆記に指を向ける。しきりにカタカタとやっていた。壊れたかのようだった。規則正しいフォントが並ぶ。


「我らが義務 宿命 アンジーに呼ばれた ひどく興奮した 中止 思考停止 停止 停止 多重思考を開始 今までの興奮は嘘だ 虚偽を発見 思考停止 アンジーは、 アンジーは魅力的ではない 多重思考を開始 削除 全て削除 全て……」


全て写し取られていた。カタカタカタ。

二人は声を合わせる

「ボン・デューティ。」


ボン・デューティ 開始 我らが義務 幸あれ よき情事を そうよき情事 没頭せよ アンジーに 没頭せよ 我らが義務なんて馬鹿らしいのよ もっと本能を見せればいいのにね 私なのか? 多重思考 どうしてあなたは目を見ないの? 楽しんでいる? どうして? やっぱりだお前なのか こっちを見る みて ワギナが見えるでしょう? 見えた ペニスみたいに突起になっている そこを下ると深い溝 女の丘 そうよ 見たかったでしょう? いやこんなことはいいのだ 問題を先に進めよう どうしたら早く終わるのか いいのよ 気にしどうして何?今なんて言った?頭が痛い気持ちが悪い中止どうしなんだこれ見られているどうするいや怖い?いやだ消えるのはダメどうしてもそうだこんな馬鹿らしいこといややめてやめないでいや


絶頂


あとは筆記されなかった。


午後は専ら仕事になった。非在人間記録に記録の統一化、研究データの利用などは全て筆記具を通して行われた。この時間だけは何にも邪魔されることなく過ぎてゆき、それが喜びともつかない束の間の平穏だった。

ああ、それにしても、それにしてもアンジーとの義務は厭なものだった。彼女は基本的に義務ではなく、本能で動いていた。感じていたし、そんなことは側から見ればすぐにでもアンチズムに陥ってしまうのだ。


……革命後 プロールを率いて党精神を否定 アンジー 喜んで義務 待て、 二千四十八年思考警察の管轄下…… 疲れている……


あの不貞のせいで午後の業務は苦痛になってしまった。


時刻は十六時を打った。喜びに満ちた作業にも疲れはつきもののようで、どうやら目がシバシバするし、肩も凝ってしまった。草臥れることは両義であったが、自分にはその良い方しか与えられていないというのはもうすでに身に馴染んだ感覚であり、今更肯定する意味もない、当然の感覚だ。そうでなければこんな仕事は任せられないだろう。

ふとウニベルシタートの頃を思う。何人かのグループになって話し合いをするというのがメインの授業を受けていた。そこで見かけた、そうあいつだ、あいつのことは忘れもしない。恐らく親は旧世代の人間に違いないのだ。彼女は「swear to god」なんて言い方をしたものだ。もはやその文が非文であったのは言うまでもなく、そしてそれがどんな意味をしているのだか分からない、同じ言語の語彙を使っているはずの彼女から発せられたそれは、もう時代ではなかった。ストラマは「ああ」と思った。自分の内面と、彼女の軽率さについて、前者はここで感情を露わにしてしまった非正統の調べを、後者に至っては、そう、言うまでもない、だろうーと言うことについて「ああ」と思ったのだ。

時刻は五分を過ぎる。

そういえば多重婚さえ認められていたからと言って何でもかんでも義務をやりたがるのもいた。基本的にプロールが餌を欲しがるみたいな欲求ばかりで動いている連中などもう何者でもないだろう。どうせ相手にされないんだから考えたって仕方がない。どうしてこんなことを?いや今はいいのだ。あんな義務の後だ、別に気が狂ってもいいさ。悪いのはあいつだから。

流石にストラマにも仕事に少し嫌気がさした。保管庫を漁って六分目まで房の取れたブロッコリーとベリー、パン二切れを発見するのみで、どうしようもない倦怠感を持て余す。そうだバーに行こう。


上質なタバコは目に染みなかった。ギィと開けたゴシック調の扉は心労すら軽く癒してくれた。

沈んだ店内にがっしりとしていて二重が特徴の、これまたウニベルシタート時代の知己、レスポラがショットを傾けていた。彼のカウンターに急ぐ。

「それでどうだ?」

レスポラは彼の方を見ないで話し始めた。要領を得ないので聞き返すストラマ。

「随分飲んだんじゃないか?」

「さっき来たばかりさ。」

「そうか、それで、どうだ?と言うのは?」

「いやそれなんだが、そう、あれだ、今朝ニュースピーク辞典を読んだのさ。」

心の蟠りが解けていくような誘いに気を許すストラマ。

「そのことなんだーまさに話したいと思っていたんだ。」

「そうだと思ったさ。あれは酷いな。」

「そうだとも。あれはきっと旧世代の人間にあてた遺書なのさ。だからそう、」

「声が大きいぞ。」

辺りは静寂の店内で、こんなに大騒ぎしているのはストラマ唯だ一人であったし、それは彼が何かうなされている、すなわち異常を来していることを告白しているに等しかったのだ。だから彼は居心地の悪さを感じたが、しかし取り乱す方が危険だった。ただ平然に「それで?」と続けた。

「だからやはりあれはまだ改変の余地があるんだ。」

「完成はまだ遠いのか?」

「向こう十年てとこじゃないか。」

「そうか。未だに党は求心力を得ていないのではないか?」

「よせよ。」

ストラマは視線を感じた。感じるだけであるのがいつものことだったから放っておいてよかった。別に大変なことでもなかったのだ。

「何年前だったかピンとこないが、辞典の編纂に関わっていた男がその後すぐに非在人間になってるんだ。お前もそんなに首を突っ込み過ぎるなよ?尤も、俺は党に消されるなら本望だがな。」

聴かれぬように手で仕切りをしていたが、次第に彼も気持ちが大きくなって、解放して喋っていた。危険だ。予感がする。

晴れない気分を、捌け口を見つけたために少しいい気になってみた。

「それで、聞いてくれよ。」

「どうしたんだ浮かない顔で。手短にな。もうすぐお尋ねがあるはずだ。」

「お尋ね?ーいや、それはいいんだ、アンジーが……、」

ハッ、と顔を覆うレスポラ。この話をするのは何度目だったか分からない。

「もう入籍した頃かと思ってたぞ。」

「やめろよ、俺は真剣なんだぞ。」

拳を振り下ろす速度に怒気が混じってカウンターを揺らす。しまった、また目立ってしまった。今度は何人かの視線をはっきりと感じた。しかしいつものことのように、水辺に落ちた石で出来た同心円の波は次第に静まっていくのだーそれが「科学的」という意味であるのだー。

「真剣なら籍の一つでも分けてやれよ。本気なんだろ?あいつは。」

少し息を置いて話し始める。

「そんなの分からない。本気でも困る。だって彼女は……」

ドアが開いた。手を上げている。それがレスポラに向けられたものだと彼が察知してから数秒、手短な挨拶で別れることになった。

「それじゃあ元気でな。」

「ああ。」

向き直る

「ヴィクトリージン2032年」


酔いは瞬く間に覚めてしまった。一人で飲もうかと仕入れたクリアジンも片手に、しかし仕事は明日も続くから、と思い留める。


結局一杯やってしまった。心地よい倦怠が朝を染め上げる。

血中のコルチゾールが目を覚まさせる。またはじまったのだ。今日がはじまった。そう思うとゆっくりしていられなくなってしまう。仕事が、楽しいとまではいかない、そう楽しいとは違うのだ。それは義務であるからとか、しなければならないからとか、そういう雑事に軌を一にするものではないはずだ。ただ喜びがあることは確かなのだ。それがどんなに苦痛を伴うものだとしても、いや苦痛こそがあの楽観的で常夏風の平穏をもたらしてくれるのだ。それはだからそう、生きるためとか、食うためとか言った理由ではないのだ。それは理由でも目的でもない。ただ生きていると言うことに付随した現象なのだ。別になんの意味もないのだ。そうこの朝にだって……。

朝一の体操はいつも決まって柔らかな女性の声によって引き起こされる。それが一番適しているのだろうことは考えるまでもない。それがすなわち人間に一番通じた形なのだ。母から生まれる子としての人間なのだ、それは母の声に近いものによって呼び覚まされる。おはようもいただきますも全て女性に活気づけられるのだ。

ストラマは例のブロッコリーを茹でてパンに添えることにした。肉はそのうち支給になるだろうから今朝だけは炭水化物と水だけの食事ですることにした。

ふと覗いたガラスに映るひどく太った姿にストラマは辟易した。髭も伸びていてどこかおかしな見た目になっている。全く、ものだけは一丁前に届くことには届くのだが、すなわち、物的な困窮はないにしろ、それが一級品であるなんて夢の話だ。月に一度の配給によってカミソリが得られるには得られるのだが、すぐにグズになって捨ててしまわねばならないのだ。そうだ、このことを報告書にまとめて上に話を通そう。

ストラマの朝は書類作成の仕事にはじまった。

shavers are ungood in a month. Me —and party members- need gooder one frequently. ……

ごく短い書類に目を通す。これが党の失態を暴くものであってはならない。そんなこと考える余地もないことだが、この私がそう言った欠陥を作ってしまうことは、すなわち先ほどのニュースピーク辞典の話だが、能力が低く、もっと良い改善案が必要であることを告白するようなもので、そうなってしまったら、やはり私の生活に不都合である。食って寝るだけの人間ープロールーではないーいやプロールは人間ではないーのだ。

だがしかし党が少し間抜けなのは否めないのだ。思考停止。多重思考。そうだ党はいつだって正しかったのだ。ブレナクスによってある種の矯正が可能だとして、それは不快感を伴っていたのだ。不快感というものを纏った教育というのは崩壊するのが関の山なのだ。いや、それは不可解だ。党がこれだけ長続きしているのと同じだけ不可解だ。いやそれは非正統だ。お前はアンチズムだ。そうだ、いやそれでも構わないさ。いやそれだけじゃない、私が非正統ならアンジーはもっと早くシンクポルにかかっているはずさ。それにレスポラも。私は党あってであって、党も私あってのものだ。どちらが先かなどは問題なのではない。ああこんなこともどうでもいい。そうどうでもいい。いや非正統主義に陥ってはならない……、


気がつけば昼になっていた。気がつけば机は散らかっていた。

コツコツドアを叩く音がした。何かと思ってドアへ向かう。待て今しがたのアンチズムの案件かともちらと勘繰ったが、果たして違っていた。案の定の肉の配給だった。配給に来るのは決まって腐った見た目の女だった。多分出身はプロレタリアの何々都市とかいうとのが相場なのだろう。大方プロールの出身であることはその異臭と子鹿ほどに低い身長から明らかであった。

しかしこのプロールはなんでここに立ち入ることが許されているのだろうか。疑問が表情に出たのかプロールの女は「how are you?」と聞いてきさえした。肩をすくめて興味がないという風をした。それで本題の肉は五キロの支給だった。これがひと月であることもあれば、三ヶ月とんと音沙汰がないこともある。また党のボロになってしまったのだが、容易に訂正出来る。それが私なのだ。

二、三挨拶を交わしたのだが覚えるに足らない。そんなことばかりだろう。今日の業務が明日明後日、一年後を生き抜くなんて途方もない考えだ。仮初めの、そういった平穏を保つ保ち方でしか私はこの仕事を評価していない。存外アンチズム的思考なのだが、それはやはり、もう一つというか、他方の自分によって補完されている。完璧なのだ。考え抜くことが出来る人間というのは完璧なのだ。そう私は完璧な人間であるのだ。党は私と共にあり、そして私は党と共にあるのだ。どちらも欠けないのだ。それが正統だ。


だから考えないことだ。いや考えるのだ。しかしそれが核心的であってはならない。いや核心的であっても良いのだ。革新さえ内包していようと構うものか。それは別に問題ではない。大事なのは多重的に重層化した思考のみだ。思わせればいいのだ。思いを抱かせればいいのだ。それが人間の営みの全てなのだ。それが人間だ。人間だなんていまさら一々大事にするまでもない。それが自然なのだ。変わり身。それが人間でなくってなんなのだろうか。いやそれは間違っているな。党の望む人間像というのがすなわち人間なのだ。それ以外は認められない。そうであるはずだ。そうでなければならない。だから、そう、だからして……、


昼の仕事が一息ついたのは十六時を回っていた。そろそろか、とストラマは時間を見定めた。またバーに繰り出すべきか。いやどうしても他の同志との衝突―そうそれは衝突に等しい―は避けられないだろうから、それを試みるかどうか、今は保留にしておいた。


そうして省みるとなんだか薄寒いものだった。そんな風なだから、私がやはり一つ抜けて賢いし、それが党の私を重用する要因であることは確かだった。

膨らんだ疑心に針を刺す音。

ストラマは直ちに吐き気を訴えた。こうしていられなどしない、どうしても頭が割れそうな痛みを感じている。何か逃げ場はないものかと模索するも無下、この痛みと不快がどこからやってきたのかをはっきり自覚することが出来てしまったのだ。

「ブレナクス」

「ブレナクス」

二つの声―声ともつかない、それがテレパシーか何かの類だったかもしれないことだけが明らかで、それ以外は闇に葬られているーは重なった。まずいなとストラマは緊張するが、居直っても無駄なことだった。痛みと気分の悪さは増していくばかり。始まったのだ。

「始まったのだ そうか 手に取るようにわかる それは疑心か? お前はどちらなのだ 今なら そう今なら見逃せる さあ言え お前はあの下劣どもなのか」

始まったのだ。ブレナクスによる統一が。しかし私の一番の問題、なすべきことはこの悪夢を終わらせることだ。

「悪夢? 悪夢と言ったな」

「これは悪夢か?いや党精神への統一化というのならもっと心地良いはずだ。これが大義のためなら、それは正義でなければならない。悪夢であることは許されない。」

「それはどういうことだ? お前は党の統一に関して意見するところがあるのか?」

「それはその通りなのだ。だが、これはあまりにもお粗末ではないか。どうしたらこの悪趣味が終わるんだ。どうしたらこれがもっと教育に向いた、内容はさることながらの装置に切り替わるのか。」

「お前たちの心次第だ」

「私たちに心なんてあるわけがないだろう?心とはなんだ?あなたたちに捧げる心以外心ではない。どうしてそんなことがわからない? わからないわけがない 全知であることは私たちを私たちたらしめる重要な鍵なのだ 知即行 行即善 善即……」


ストラマが硬いベッドの上にいるのを自覚したのは翌日の十時を回っていた。吐き気や頭痛が暫時的なものだったのは救いだったが、いや、ブレナクスそのものが救いなのだから、それ以上に堕落などということが遂行されることなどないのだから、ブレナクスとは不在なのだ。不在性の存在なのだ。ありありした不在。それがブレナクスだ。そうでなくては党のやることではない。それがありありとした何かであることは何かを否定することであるのだから、そんなボヤが出そうなやり方を好んでするのが我が君らではないのだ。いやそれもそうなのだが、それは党が存続するため、とかそんな姑息を意味しているのでもない。

あらゆる一切の党の挙動というものについては判断を保留するに越したことはないし、それは別に処世術として厚顔に誰かに押し付けるべくものでもないし、しかしそれだけが事実であるということはみんな知っているんだ。知っているからまぶた一つの動きだけで通じ合ったような気さえするのだ。いや通じ合うことはないんだ。そうではなくって皆が共有した本性的な運命とでもいうのか、いやそれも違うか。

ともかく党の意向に関してうまく成し遂げることはいつも多重思考によって成し遂げられるのだった。

起き抜けの議論にややまた頭痛を思い出すようになる。紛れもない同志としての私自身であったし、元来そういう性質があるものとして生きているのだ。しかしそんな私のためにこそ党が存在していると考えてもよい。私は善良であることに変わりないし、それが他のアンジーやレスポラとは異なっている私にしかない性質なのだ。

没個性 停止 撤回 修正

またじんと頭が痛む。

しかし休んでばかりなどいられるわけではない。仕事は重なっていってしまう。よいと体をベッドから起こす。近々党中枢の議会が解散になるということで、過去のデータを統一する業務がここ最近一週間ほど立て続いているのだ。今や権力闘争など微塵も起こり得ないのだが、それでも汚職と呼ばれる事態は少なくない。interest dutyと呼ばれるような事態だ。私は党にとってとても善良な、倍超良な人間であることに変わりはないのだから、そんな人間をわざわざアンチズムに陥らせることなどないだろう。

重苦しい昼間を抜け、ストラマは「ニュースピーク辞典決定版」の文字を目にした。作業部屋から出て、鉄の柵が張っている階段を下りる途中のことだった。かつて革命的神童の顔が張られていたまさにその位置にこのニュースピーク辞典の、おそらく発刊を知らせる張り紙が置き換わっていた。

随分野暮なことをしてくれたものだ、と思うも、しかしやはりそれは同志によるご厚意であって、だからむげにはしてはいけないのだが、いやしかしそれでもあの内容を決定版にしていいものかどうか、ストラマはまた余計な議論を頭の中で展開せざるを得なかった。クリーム色をした壁が剥がれ落ちてそこには何度も張り紙の交換があったことを連想させるのだが、誰が何のために何回そんなことを繰り返えしたのだか見当などつくはずもない。分かるのは「今は誰か―と言って殆どの場合同志―がその張り紙の規定の場所に規定の張り紙を重ねて『ニュースピーク辞典決定版』の刊行を知らせている」という現代性の問題にほかならない。過去何があっても不思議ではない。不思議ではないが、それは別に常識的なことが羅列しているであろうことを予想させるものではない。文字通り「何もかもが」起こってきたのだろう。

真理省の仕事には膨大な歴史資料や統合データの参照などその仕事の準備も多岐にわたるのだが、その中でも中央図書管理中枢にアクセス出来たのは思いがけないことだった。そこにはいまだに非合法のきな臭い香りの絶えない『ビッグブラー失脚の真実』とか、『ニュースピークの諸原理―言語死と可能性―』などオールドシンク的な「真実」を描いた、つまり思想世界の書物がたくさんあったのだ。

中でも手に取った黄ばんだ表紙の―タイトルは失念してしまった―書物を手にしたとき、何か、とんでもない悪事を犯した気になってすぐに棚へ戻してしまったのだが、数日たって同じ書物を手にした。『……イン』という文字が表紙の上にかすかに残っているのが見えた。


……以上のように、党のスローガンである「戦争は平和なり」という文言はつまり、戦争とはもはや領土や資源を争うためのものではなく、絶えず戦争を続け、それによって内需を満たし続けるための、いわば協定的戦争体系がそこにあるのだ。

それが「戦争は平和なり」である。


まさかこんなものが実際に同志―であった人間―に読まれていたのかと思うとぞっとする。

しかしこのようなことに関してストラマは全く無知であった。今現在戦争が起こっているのか、あるいはそれがここアラカドとどこかの戦争なのか、もしくは同盟国と敵対国同士の戦争で、それに同盟国としてアラカドが参加しているのか、そんなことは党中枢にあっても分かりえない「事実」というものであった。絶えず歴史工作の盤石な基盤を()げ替えることで何とか仮初めの平穏の中生きているのだ。そしてもっと「事実」らしいことは今一体戦争したところで、勝ち目があるのかどうかである。軍備に関する報告はストラマの本管轄ではなかった。もちろん政治一般にかかわる統一作業なのだから、目に触れないわけではない。しかしそれが現代性の問題になると話は別だった。都市や国の中枢でさえタコつぼに流れ込んでみな横を見ることを知らない。歴史の参照だけが必要な準備であり、それ以外は皆能無しも同然だ。前例がなければたちどころに混乱する。歴史は顧みるのではなく造るものだと、皆知らないのだ。


レスポラに誘われるがまま、例のバーで二、三本こなした後になって、どうやってたどり着いたかわからない部屋で、起き上がったときには十一時を指す時計が目に入ったのは、だから十一時のことだ。記憶が曖昧なのだが「そろそろ開戦だ」とか何とか言ったような、そんな重みの欠けた記憶の切れ端を追いかけているうちに、溜まった仕事の山を記憶穴に認め、「全く、記憶なんて」と、少々うんざりした。いや健全に慎ましく邁進せねばならない。いや、当然の務めだ。ただそれの数が多い、というだけが非日常だった。

首の先に付いているものがもう鉛を詰め込んだように重かったのだが、なんとか這い出した先に記憶穴。

見覚えのない赤い紙が入っていた。特に重要でもない仕事はみんな茶けた紙に短文が乗っかっている。

それが今度は赤色だ。赤いだけではない。何かを包んでいる。隠さなければいけない、というのはどういう意味なのか、少々の試案と嵩んだアルコールで、全く考えあぐねて、いっそのことえいとその頭を破ってみた。黒い紙に金の文字が、さながら陶器のような美しさを讃えてそこに鎮座していた。


Need of war duty. Good comrade, for the sake of win.


「始まったか」と何かを待ち受けていたような感覚が全身に鈍く沈殿し、そしてそのまま芥も掻き揚げずにただ血肉に落ち込んだ。

そしてまた「例の」頭痛、嘔吐感、眩暈までした。


同志ら 開戦の時だ アラカドに捧げよ 同志ら 現在 テリエッサン北部 軍事クーデター 半期において 迅速かつ効果的 勝利に数多の内需 傭兵 良きに計らう


—②—


携帯食は幾分質が悪いだろうことは予想はしていても、それが実体験になるなど毫も考えない。それが日常だったから。いや別にほかの真実が存在しているなど思いはしないのだが、しかしこれほどのものか、と思わされたのだ。日々のまるっきり小さな部分ですら私の口を通ってそして排泄されている。私は党員であることを自覚する。

しかしこの配置について早くも一時間は経っている。何だって戦地への配属なのか。頭脳戦が得意なのは上層部もお墨付きではなかったのか。

トリガーに掛けた指先がじわじわと悴んでくる。

暫しの進捗なし

反対に送り返すブレナクスで返信する。軍事使用を念頭に置いて作られたのではないかというくらい、実践向きの性能になった。やはり党と歩んだ歳月は無駄ではなかった。恐ろしいほどの順応性だった。別に恐ろしいというのも閉塞感からくる類の、陰った感情ではない。

 しかしスコープから目を離した時の眼疲労は耐え難かった。テリエッサンの近郊の山の中腹は標高の割に気温が低く、雪が白銀世界を作り上げていた。それを何倍もの倍率で乱反射する白を目撃していたものだからもうものも言えたものではない。

 俯せに下っ腹を接触させていた雪は押し固まって、じわりとカモフラージュの制服を濡らす。


 12O`c wait


十二時の方角に敵影複数、しかし動きがない、暫し待たれたし。


疲労も蓄積した頃合の伝達だった。チャーリー分隊はストラマを含め五名。ほかの四名はもっと敵地に近いところで監視にあたっている。それが「暫し待たれたし」である。そんなに簡単にいきそうにないなと、二年前の生活を思い起こす。


「ここはdecencyなどという言葉を使うべきではない。もう何年も前にそんな言葉は息絶えた。ただjusticeとだけでいいのだ。」

「しかし正統を表現するにはこの表現は避けられない……」

「違う。お前は何もわかっていないんだ。とにかくここでお前との仕事は手を引く。お前に一任する。私はお前の上司ではないからな。勝手にやってくれ。大目玉で済めばいいけどな。」


鈍いブレナクスの頭痛をしたのを覚えている。

過去はしかし超越されてしまった。ブレナクス研究の発展は目覚ましかった。θまでの解析が済んだのがブレナクスの試用期間から数えても一年間の間であったし、その改良の度身体に対する苦痛は減っていった。この方面が思いがけず発見したのは実は脳波はθまでではないことだった。ただ純粋な研究が、人間の内奥を暴き出してしまったのだ。


少しの吐き気を催したのは、だからブレナクスの副作用ではなかった。支給されるコーヒーはなぜだか内地で飲むヴィクトリーコーヒーよりも上品な感じがしたし、カフェインがきつい。戦地にいるということは感覚がマヒするというようなことに近いのだろう。軍食でさえ彩の割に味は悪くなかった。

胃もたれを感じたのは大体一時間くらい経ったあたりだ。黒い塊が食道から逆流しそうになるのを、黒い液体で蓋をしていた。胃の中は荒れていた。


Enemy, equip good comrade.


時が来たのは身体の荒れがひと段落して、それから三十分ーつまり「暫し待たれたし」から一時間半は過ぎて、もう少しで二時間のあたりーであった。

テリエッサン北部はアラカドを南西の方角に軍の輸送で丸一日かかるあたりにあった。鉱山資源が豊富に取れた時代にはかなり重宝されていたのだが、今となっては雀の涙で、貿易の拡大を目論んでいた前総統と、内部の過激派ー彼らは戦争によって資源を強奪したいものと聞いているーとの間で衝突が生じており、武力行使のきらいを含みだしたのがこの二、三か月であった、ということだ。

詳細は明らかではないが、大体の見当はついていた。かつて鉱山資源と貿易で栄えた一都市であったから、アラカドもその重要な取引相手であったのだ。ストラマはそれに関する統合データの作成を八割方任されていた。


貿易結果報告書 D.breads


 入 165,836種 65,788,463\

 出 267,844種 58,933,726\


  入過多


覗いたスコープの先には前総統シュトラスコフと、その護衛。その数キロ先から内部過激派が迫ってくる。過激派を抑えて穏健派を擁護する。聞かされている内容はそれだけだった。


過激派の動きが止まったことを送信するとともに、ストラマは今回のターゲットを見つけた。アルサドルニコフ。シュトラスとは元官僚時代からの親交だったが、カルミド地区への貿易拡大をめぐって争う仲になってしまった。カルミドは旧政府時代、それ以前からテリエッサンの保護地区であった。当時から第一都市としての繁栄を極めていたテリエッサンはこの「保護」を「統治」の二字に置き換えてしまった。だから、まあこんな言い方は旧時代的で難しいのだが「植民地」支配といったところだった。しかし当時からの支配を受けるようなカルミドには、軍事や資源といった頭がなかった。別にここを貿易国にしても、何の意味がなく、テリエッサン軍事拠点カルミド地区、を設置する方がより有益に思われたのだ。そこに鉱山資源の減少と来たものだ。軍事拡大を図るアルサドルの意図も否定しがたい。

しかし、だ。閉塞した貿易というものほど活用出来るものはないのだ。首が回らないから、他の国の犬になってしまう。

これはあくまでストラマの予想に過ぎないのだが、実際ここで急進派を抑えたとして、残った道はテリエッサンの貿易縮小であり、それを援助する、その代わりにテリエッサンをアラカドの下に置くことだろう。

絶えず水面下で獲物を狙う。虎視眈々と。


ストラマの発砲音を皮切りに全線でゲリラを構築していた党員たちがアサルトライフルを持って急進派に攻撃を仕掛けていった。ライフルの弾は見事アルサドルの脳を打ち抜いた。

鮮血が白銀に重なる。

皮切りだったのだが、それはあらぬ展開を催した。前線ゲリラ部隊がシュトラスに向かって進軍しだしたのだ。もちろんアルサドルの軍隊にも展開した。だが、ああ一体どうなっている。


Stop good comrade! Enemy is Alsadle. Move and don`t shoot Schutras good comrade!!


頭痛はブレナクスのためではない。こんな事態になるとは予想だにしなかった。どうしてなのか。

鮮血は一挙にアラカドの中心地を染め上げてしまった。


「どういうつもりなんだ」

軍の輸送で内地へ帰還する車中、ミトー、ガンヘルムト、シラエ、チャンのチャーリー分隊に対してストラマは声を荒げた。沈黙を守る四人。どうしてこんなことがまかり通るのか。伝えられていた内容はテリエッサンの保守派の保護であったはずだ。

「ああ、悪い、特秘事項だったんだ。」

「特秘?それは一体?」

「……」

重い口のチャン。

「同志よ、どうしてそんなに重たいんだ?なにか隠しているのか?なんだ、言ってみろよ。」

殆ど吐き捨てた。鮮血が滴るのがまたフラッシュバックする。

「保護下に置くらしい。」

「それは、一体、」

「今日からテリエッサンはアラカドの保護下だ。」

ミトーが割って入ってくる。


白銀の地平線に鉛の空が溶けだして、黒い目玉をより深く染め上げた。


その後何を話したのだか忘れてしまった。ただはっきりと「ストラマには特秘事項だった」ということが繰り返されるのみで、なんら理由は明らかにされなかった。あれほどの信頼に何たる侮辱か。いや何たる内奥の深いことか。内需を満たすだけの戦争、それが一体何の形を以て現れるのだか、今しがたはっきりする。いやこれは単なる侵略であったのだ。不用意な国際性だ。どうしたものか。


日常ーそれは党員として本来あるべきの、ただ党に忠誠を尽くす、あの毎日だーに戻って、また仕事をしている。丁度先のテリエッサン併合の書類を作成していた時頃だった。鈍い人差し指の重みを抱えながら、また常に心の中にあるトリガーを引こうとしながらーつまり、どうにかして変わらなくてはならないと思いながらー軽いコーヒーと食事ながらに報告を書いていた。


T地区併合の報告


 軍事、鉱山資源に関する供給は僅少

 改善は見込めない


 Ch地区は解放

 良識を以て彼らはアラカドに付き従うだろう

 しかし同様内需を満たすものは僅少


 国際協調は今のところ問題は認められない

 T地区の親睦関係に留意しつついかなる情勢にも備えを 同志


—③—


実際のところ、テリエッサンとカルミドはあの後荒廃してしまって、代わりにプロールの居住地になったと聞いている。これもまた布石になっているのであって、この、言ってしまえば失敗に終わった進撃も、その後の経過によって美談になっていく。歴史は固定された事実の連鎖ではなく、造られ、党で満たされる概念である。

しかしそれから二年ほどして状況は少しだけ変化しつつある。シュトラスと親交のあった関係各国ーその全てがやはり小国で、国の富が貿易によってなんとか賄われていただけの国々ーは事実上破綻し、大国の属国であったものは軒並み工業地帯とか、何が何の目的なのかわからない造幣所などの専門地域に置き換わっていった。

党は次のような声明を発した


T地区並びにCh地区 未開を拓く 良き同志らの活躍によって 軍備拡張 四半期目標 初等教育において軍事訓練を計らう 未明 オストポスとの開戦に備えよ 良き同志ら!


オストポス。かつて行路としていくつかの関所があったのだが、キルスキュエの政権の時ーあるいはその前後ーにケネトリアの介入によって、「旧体制の権化」として、無用な集金所のすべてを撤廃に追い込まれた。今となってはケネトリアに戦争を仕掛けるというのだが、果たしてそれは上手くいくのだろうか。いや上手くいくに決まっているのだがーつまりそれは「美談になる」という意味で、だがーだからといって戦争ばかり……、

ストラマの脳裏にあの一文がありありと記憶せられた。

「いわば協定的戦争系体がそこにあるのだ」

旧世界において指摘された非正統の調べ、戦争に次ぐ戦争がこれを明らかにしている、のみならず世界は正統を忘れようとしさえしているのではないか。ストラマのswotな脳内は電撃で満たされた。


戦争は平和ではない 良き同志よ 戦争は法である 戦争は精神である それは良き同志の歴史である 見出す必要はない そこにある 戦争がそこにあるだけだ 良き同志ら! 前だけ見ていればよいのだ 同志ら‼


すっかり脳内を席巻するに別段痛みも、不快感さえも払拭した、完璧なブレナクスがそこにあった。私の思考は私の手中にはない。手元にないことは喪失ではない。聖なる党との合一であり、精神の享受である。そのうち身体も私有を免れるだろう。党への回帰である。いや端的にbeing partyと言えるだけのことである。何も失わない。脈々と流れる源流思想に軌を一にする、別れたものが一つになるのではない。そこから産まれてきたところの子宮に赤子帰りするのでもない。

私と党ではなくなる。私が党であり、党が私になる。

構成員ではなくなる。それ自身になる。

so...と続けた思考は党の色を持つのではない。


so…nihil. Nihil goodwise be beared. Anything, think, behave and all(yes inevitably all) be one. No pain. No problem. Just be. Be is party. No, there be no party. Only be the world here. We be no less one. Just be. This be what be. No needs of think or body move. Just be. (in oldspeak, we are not to think we should integrate ourself into party. Just being here makes us what is thought as justice. Any effect from us is pure will of the world.)


塵芥すらかきあげられて、すべてがすべてのために、すべてからすべてが現象する。


仕事が一息ついたのは一七時を回っていた。

押さえた目頭に思考が募る。

やっと党に身を預けられる。嬉しいのだ。だが、何かを喪失した、あるいは付加された。

一体私とは誰のことなのか。アウストルと名乗ってもよい、去勢されても、アンジーと結婚しても、アンチズムに身を傾けてもよい。古い言葉で「アイデンティティ」とされていたもの、それは必ず党と共に、つまり党対個でしか現象してこなかった感覚を、今葬り去ることになった。憎しみは意味をなさない。世界が憎しんでいる、というだけのことだ。

真っ当なストラマの唯一の歪、噛み合わせの悪い奥歯をガチガチさせ、憎しみが夕焼けに飽和して黒く染められていくのを眺めていた。

Alphan, alphan と視点が持ち上がり、闇の中照らす光を、ベツレヘムを見た時には夜が明けていた。


—④—


目が覚めたと思ったのだが、まだ夢の中にいた。ベッドから身を起こして目の前のガラスはなくなっていて、代わりに白壁が塗り固められてあった。夢の中ではありがちな体の重さを感じ、しかしそれがあまりにありありとしていたので、夢であることを疑った。

全てを理解してしまったーつまり体の重さは拘束器具のためであって、壁が目新しいのはここが作業室ではないからであったー頃、すべての諦念が体全体をさらに重くした。

現状の把握を示す声と、現状がなんであるか分からないという疑義と、それでも何かおかしさがこぼれ出る「ああ」。


微睡がドアの「ギィ」に重なって、ふっと体を軽くする。されどつながれた鎖は体に反作用をもたらして、起き上がりこぶしが、いや伏せ下しこぶしになって、永久にベッドの上のままだった。

音の正体は顔を黒く覆った、背丈が180センチはありそうな女性?ー顔はだからはっきりとは見えていないーが何やら銀色が眩しいプレートと共に、愛国の長い丈の、党の正統色があしらわれた召し物で現れた。

ここはどこか聞かずにいられない気持ちが押し寄せたのだが、口が思うように開かない。喉の奥に異常を発見する。天井を向いていた眼球を鼻先まで下すと、何か管が口から挿入されているのが見えた。愛情省。頭に浮かんだのはミニラブの概念。と言ってもミニラブに罰せられる咎が思い当たらなかった。

銀のプレートに乗っかっているのが、色は乏しいが何か食べ物であることは、その黒い塊が腰を折った時に分かった。

「これを。またすぐに時間になったら食事をお持ちします。同志よ。」

「ぉえは、いっはいあんだ(これは一体なんだ)」

拙い言葉に応じる同志、愛党者。

「食べ物です、いつもとは違いますが、それでも最低限の栄養はあります。私はあなたに給仕するよう申し付けられました。ですから……、」

「ぉのうふぁぉぉおた(この管のことだ)」

「管?それは私からは申し上げることは出来ません。食べ終わったらそのままにしておいてください。」

淡々と語る彼女に怒りを覚えた。

Hey plores!?

Oh, comrade. Anything you experience is what it is. So…

So what? Plores. You just, yu jus…

Listen, comrade. It gets gooder soon.

‘bout WHAT?

Not from me but party. See you.


次にあのプロールがやってきたのは、どうだろう、数時間の内だったと思うが、それをいつもの生活サイクルに比べると幾分早い感じがした。

「……さっきは……、」

「いいんです。同志は皆さんそうおっしゃいます。」

「そうか」と何かが腑に落ちた。

色の欠ける塊を差し出してさも親切であるかのように「これを」と些か諭すように、この状況を受け入れることを勧めるように、彼女は振舞った。

少し気になったから「貴女の名前は」と尋ねてみた。

「名前などありません。ただの同志でございます。」

「いや、そこは、それだけ教えてほしい。何を恥じることがあるのか。さあ話して。」

「イヴン。」

「イヴン?」

「イヴン・セロロスト。」

「セロロスト。」

またもや何かが腑に落ちた。

「貴女はとても献身的だ。」

「それは当然の務めなのです。私は別に何も……、」

「いや十分だ。」

黒い布越しに赤い頬を少し透かした。エロスを抱くには十分だった。少し考えることにした。と思ってやめた。いや私に適切な相手はこんな婢のプロールではない。しかし純粋にそして本能的に体内の循環が下半身に集中し、だから「義務の剣」は少し彼女の眼の入るようになって、それを見てまた赤黒は、だからかさぶたのように醜く充血して、ああ多分「義務の門」は……、

「ブレナクスとテレスクリーンがなければ私は貴方のことを受け入れたことでしょうに、まあ何ということ、私はただのプロールですもの。ニュースピークが分かるだけのそんなプロールですもの。だから……、」

「駄目かい?」

「駄目なんかじゃないの。」

「だったら……、」

少し首をかたげて彼女の眼を見いる。エロスは今は、今だけはストラマのすべてだった。

「駄目なんかじゃないけれど、もうすぐ……、」


一つしかない外界との接触点が崩壊して、同じく気持ちも全て萎れて、いやすべてを実感させるものとして、不動の原理が支配しているのを実感させるものとして、そうだ、世界はそうでしかなかった、そういう黒い塊がもう一つ顔を出した。

In time. What’s ungood.

Yes.

Out.

Yes.

逃してはならなかったー彼女もその世界との連絡点の黒い塊もー。

「なあ、一体何なんだこれは。どうして体はこうしてあって、管が喉に詰まっているんだ。何でお前が来たんだー彼女とのひと時を返せー。出ていけーいやしかし答えを置いていけ、ここがどこで私はなんでそして彼女と一緒にー。」

強引にセロロストの手を引くのをやめ、一旦冷静になった黒い塊はこちらに首を向けて、どうしようかと思案をするように顎に手をやって、そして話し始めた。

You’re Antism.

それだけだった。


今度は到着が少し遅れたみたいだ。それまでの間にアンチズムに関して考えるところがあった。何故私は何故ここにいて、いわば安住して、そしてあのセロロストーともに過ごすに相応しい女性ーを与えられて、幾分退屈でもあった仕事からも解放され、自由を、そう自由と呼ぶに相応しいこの境遇を、しかし閉塞的な環境の中で、閉塞的な出会いの中で、それで?私はすべてを与えられたではないか、それが何かしらの罰だとして、それがなんだというものか、それはただ、そうただ身を任せるだけの、そういう類の「生」というものそのものではないか。身を任せていたものが仕事やアンジー、レスポラ数年前の戦争から、そういった何か混沌として歪な、悍ましい、しかし光り輝いて、懐かしく苦汁で、それで、いや、今や忘却の彼方。覚えていることも歴史なら、忘れてしまったことも歴史であり、それは今この瞬間を以てすべてが肯定されているーこれがアンチズムであったのかー。

もう反射的になった勃起は下着を濡らしていた。

見て取った彼女は優しく剣を鞘から抜き出す。

「すぐに。彼が来るから。」


二人の義務が終わってから、服はすぐに整えられるように脱がずにそのままにしてあって、ずらして繋いだそれをすぐに忘れ、単に何事もなかったことにするように二人は離れた。

「ご飯はまた時が来たら、はぁ、その、」

「分かった。」


そうして待っていた給仕はついになされることはなかった。

下女の行方は誰も知らない。ストラマのそれも。


―⑤―


党以前には四季があって、今はその夏にあたる時期なのだが、威光のおかげで、暑さを感じずにいる。懐かしいというのがもう憚られる、というより即座にアンチズムであるが、そう思い出さずにはいられない記憶の断片に、羨望を抱いている。

吹き抜けてゆく乾いた風に身を任せ、のっぺり白く染め上げられた空ーいつだったか党は空全体を覆うコロニーを作ってしまったーを見上げ、安住という甘ったるいフレーバーの煙草にその羨望を溶かしていった。塊になって這い出ていく魂のようなものを煙の上に認め、彼は白昼しか存在しない世界でとぼとぼ一日を暮らすだけだった。

何かーそう断じて何かーあったはずだ。思い出せない何かが。それが何であったか、思い出せない。ただアンチズムという言葉に一層敏感になって、恐れさえしている。彼の中にある生理的な諸機能がアンチズムを拒否、いや受け入れながらそれがどこかから借り出てきた偽物であることを、身体の震えを以て訴えている。

テーブルの上には筆記具の代わりに果実が山になって置かれており、静物画のモチーフにでも出来そうだ。起き上がったベッドは幾分硬く、起き上がるたびに腰がどこかしら痛む。窓は中央のテーブルとは別のデスクのある壁側に嵌め殺されていて、ただ空ののっぺりした白を反射しているだけのものはいつでも差し込んでくる。覆われた世界に一輪花が咲いている、それだけが彼を肯定するすべてだった。


多分夕過ぎだっただろう。部屋に人が入ってきた。いつも黒い覆いを装って顔や目元なんかは全然認識の埒外になっているが、それでもいつもやってくる。彼女は誰なのかはっきりしない。ただいつも決まっているのは彼女が「セックス」を求めて来る、ということだ。ただ楽しむだけのそういった類の遊戯を彼女は求めているのだろと思う。

隣に座った彼女は「それじゃあ」と言った。

脳内には錯綜した記憶と得体の知れなさと、そしてなぜだかすべてを失ったのだという確信めいたものが混在していて、しかし彼女の黒越しの笑顔にはいつも胸打たれた。

殆ど猿の仕草だ。毎日とはいかないものの、いや本当は毎日かもしれないー日にちはもはや白昼に溶けてしまって何を以て一日を定義するのだかもう定かではないーが、決まって行為に及ぶのだ。この時ばかりは全て苦痛から解放され、ただの一プロールに落ち着くのだが、そのことは彼の慰めだった。「来てほしい」というから迎えに行く。それだけの全く受け身なセックスだが、彼女のサディズムは彼を愛される何者かにしてくれた。煩悩な彼女と、煩悩な時間を過ごすことが、他の煩悩を脇に追いやって、ただ漫然とした生と性に一心不乱になることが出来た。

「好きだ」と言いながらキスをして、接続している性器は絶えず機能し続ける。永久機関なのだ。彼のなんだかよく分からない喪失を埋める何かが彼女のセックスだった。セックスが出来れば、少々の人生の問題は解消された。そうだ、まるでプロールだ。

しかし彼には彼女が誰なのだかほんとうによく分からなかった。この空間に住み始めたのも、なぜフルーツが山盛りになっているのかも、デスクの位置が変わっているのかも、そして彼女とのセックスがなぜこんなにも楽しいのかも、全く判然としなかった。

それでよかった。それが生きていくために必要なすべてだった。生きていることは彼には難題というか、意識されない閉塞であった。彼が剣を開放するときにはそんな閉塞も同時に開けたのだ。

一度オーガズムに達した後、彼女の薄肌の乳首を吸っていた。アンジーという言葉が頭の中でぼやけた輪郭を持って現象したのだが、それが何なのかよく分からなかった。ただ少し閉塞が加速するのが常だった。

「ああ、自由というのは君と私のことだ。」

「またそんな話ばかり。」

「いや僕は本気なんだ。君は、君のセックスは私を自由にしてくれる。時折何かを思い出すが、オーガズムですべて吹き飛ぶ。君が必要だ。君しかいない。」

「またやりたくなったら来るから待ってて。」

心の閉塞はドアが閉じるのと同じ速度と濃度をもって席巻してきた。

ほろと一つ涙がこぼれた。寂しい。甘いアルコールを持ってきて煙草に火をつけ、行為後のすべての感情を拭い去るために二つを一気に流し込んだ。腹痛と吐き気がした。なんだか懐かしさも覚えた。何年前だったろうか。そしてここに来たのはいつのことだったろう。

窓から見える空はいつものように快晴だった。


建物は何かしらで記憶が残っている建物の作りによく似ていたが、一つ違っていたのは、部屋から外へ出て階段を何階かおりて外に続く場所に来たら、そこには円卓が並んでいていつも小太りの背の小さい豚のような顔の人間が賭けをやってその感情を露わにしていた。あんなに馬鹿みたいに感情を吐露することは、彼には何故だか危険だと察せられた。


「オッズはどれくらいになってるのかい。」

「あんだ?おめー。参加したけりゃ俺にイイ女を紹介するんだな。」

「そうか。」

一瞬黒服の彼女を思い浮かべたが駄目だ。彼女は彼だけの存在だ。失ってはならないし、こんな頓智気に相手させるほど馬鹿ではない。少しとどまって話を流して聞いていた。

「それで聞いたかよ、ミース。」

「なんだ、イイ女でもいたのか?俺はおっぱいしか興味がないんだ、それ以外の話なら遠慮するぜ。」

「女じゃないんだがーまあ聞けよー、近々コロニー13で盛大にやらかすらしいんだ」

「やらかすって言ったら一つだよなーつまりオトコオンナ混じった盛大な乱交だよなー。」

「女から離れろよ。」

ミースに語り掛ける男性は少しイライラしていたのか、持ち分のチップをこねくり回していた。

「だったら何を。」

五人の視線は彼に集中する。まるで聞かれてはいけないことを聞かれて、「ばつが悪いぞ部外者」とでもなじられている気分だ。

ミースの友人の隣に座っている女が話始めた。ミースが甘い視線を送っているところを見ると二人はデキているのだろう。

「あのね、官僚さんにはお分かりではないかもしれないけれど、いえ、わかっていてしかるべきなのですよ?そう、近々大きな集会をやるの……」

「やっぱりセックスパーティーだな!」

グラスの、油臭い酒を傾けて咽ていた。

「違うの。確かにそれもあるかもしれないけれど、なんて言うか、かくめい?って言ったかしら。そんなことをやるために一頻り人員を募るらしいの。」

革命?彼が反乱分子?酒の酔いなどとうに覚めていたのに頭はじんと痛む。次いでめまいがする。このプロールにも、ここに住んでいる彼自身にも、そして革命という言葉の物々しさにも。


彼は「革命」という言葉の重さに頭を悩ませていた。おそらく夜の間中ずっとそうだったはずだ。彼女がやって来ても「その気がない」と断った。彼女の悲しげな顔は多くを訴えた。それは単にセックス出来なかったことだけに対する不満ではなかった。もっと重大なーそうそれこそ革命に関する集会に関係した何かしらとかー、そういうものを彼女は言いだしたかったのではないか。


集会の日はそうして頭を悩ませているうちに、暗いままの日常の延長に、決定的な石を投じて現れた。いや、それはもちろん準備とか、革命集会に向けたデモンストレーションー賛成反対が玉石になって入り乱れる暴動もあったに違いないーが行われたことだろう。

旧時代を彷彿とさせた。赤い旗が人の頭から数えて六頭身くらいの位置でいくつもはためいていた。


彼と彼女は起きてからすぐに部屋で会い、そして少し甘い言葉を投げつけながら「そろそろね」と切り出した彼女についていくことにした。少しの違和感だった。ああ、それも当然か。いや彼女から聞くまでは、と彼の中で心に蓋をした。


集会はかなり熱が入っていた。赤い旗には’Jorstein Gorder’とあった。その「ジョルステイン・ゴルダー」という文字列が人名であることに数秒、戸惑いともつかない思考停止があった。一体、「ジョルステイン」とは何者なのだろうか。その不明な文字列の上には彼の肖像と思しき顔が描かれていた。羊に似た顔立ちで、どこか人をむかむかさせるものを持っていた。おそらく革命の主導者なのだろう。そうでなければ彼に関する一切の広告、宣伝は意味がない。

静寂ーとはいえ多少のざわめき、中には困惑、絶望、羨望、無関心を引き入れた騒がしい静寂があったーは管楽器の甲高く豊かな広がりに包まれ、和やかな物々しさを備えた開会を始めた。マーチに合わせて進行する軍隊らしき隊列。どこもかしこも赤い。ブーツのみが茶けていて、それだけが抜け道であるかのような、何かしらの救済に似た、逃避場所のようなものを提示していた。その逃避場になるべく目をやってやり過ごしていた彼はしかし、「ジョルステイン」の登場に目を見開かざるを得ず、それがどんなに凄惨か思い知ることになった。

彼は片腕と片足を失っていた。どちらも反対のものが消失していて、なんとか自力で立てるように義足がはめ込まれている。さらに衝撃だったのは彼の顔の半分は爛れていて、片方は眼球がなかった。口を動かすことさえ困難であろうことはすぐに察せられ、しかし次の瞬間、あの懐かしい痛みを伴って駆け巡るプロパガンダに翻弄された。


今こそ立ち上がれ プロールよ

お前たちの底力を 今こそ世に

私はヨースタイン 革命の主だ


聞き慣れていたクリアな音声はかき消されるように、酷くノイズの混じった金切りや、金属音、それらが反響しあって大変な不協和音を生み出したが、何故か心にと落ち着く文体をしていた。


「革命はプロールの中に」あるのだ

「希望はプロールの中に」あるとも

「希望は我々全ての中に」でもいい


いいか、「同志」よ 今こそその希望のために邁進するのだ

そうだ、「いま」だ ここには何の制約も無く唯の野放図だ

これぞ革命だ これぞ革命だ Beat B.B.

B.B.B.が我々だ ブラッドリーブルータルバースオブレボリューション


聞き馴染みは少しの異議申し立てを訴えた。これは確かかしこでオールドスピークと言い慣わされてきたものではないか。本能にしみ込んだ危険への墜落を避けるためにくらくらした頭を持ち直さねばならなかった。

方端の羊は、自ら上ってくるエネルギーでさらに自分の体に障害を増やすように叫び散らしていた。今までにこんなに感情を露わにした者のはいただろうか。

駄目だ、気分が最悪だ。どこか、そうどこか外へ。外とはどこだ?今や熱狂の渦の会場。外はすなわち外道。いやでも合わせなくてはいけない強制力はここにもあった。それを発見してしかし抜け出したい彼を呼び止めて、「ねぇ、ストラマ。私……、」と下腹部のあたりを摩って、「ああ、まさか」。


「私赤ちゃんがいるみたいなの。」


何もこんな会場で発言する必要もない私たちの爛れた性行為の結果の報告を皮切りにして、怒号が唸る。

その怒号は果たして人によるものではなかった。巨大なロケットが離陸した。煙を巻いて、それに会場の全員が巻き込まれ、咳込んでいる。誰も直視することのないロケットの行方をただ一人ストラマは見ていた。


そのうち白昼の白壁を突き破って、黒々とした表面に白い斑点が燦然としているのを見た。革命の夜明けは、だから真夜中の咆哮に過ぎず、ずっと前を向いているロケットの進行方向と同じように、まっすぐ向こう見ずに突き進んでいた。

彼女はストラマにキスをした。


空の黒に交じってロケットの朱を狼煙にした。


―⑥―


白壁の解体が終わったのは革命深夜の二三日の内だっただろう。革命という言葉に対するストラマの知識は無に等しかった。これから何が起こるのか。そして何が起こっても彼女の子供だけは何もなかったかのように、健やかであってほしかった。

何年前になるかー彼は従軍時代を思い起こしたー、あの時は切れていた脳も今や彼女とのセックスと革命の意味不明さに席巻されてまともに動きやしない。

考えろ。ずっとそんなことを考えるしかなかった。


「革命はプロールの中に」

「希望はプロールの中に」

「希望は我々全ての中に」


反芻していた。同時に反吐が出そうだった。なぜだか分からない。私はプロールなのか?それで一体何が変わった?生きている。生きながらえて、子どもさえこさえた。それの何が、何が以前ーしかし「以前」がいつのことなのか判然としない、そういう過去であったものが、今や歴史であり、彼のルーツなのだーと違っているのか。

白壁の崩壊は彼の心を開いた。過去へ開かれた歴史的存在として顧みた。水風船の中で揺蕩う水分のように、彼はその位置を対流とか反転とかによって様々な様相を呈した。

日暮れが近づいたようだ。大きな光がこちらを覗いて、そしてだんだん目を閉じてゆく。この先の何が起こるか分からない前途に、目を瞑るように。


革命深夜から幾日か経った。忙しいのは別に彼も例外ではなく、「貴族出身」ということから肉体労働は免れたが、しかしそこに待っていたのは面倒な頭脳労働だった。もううんざりした。試算では五トンの兵糧を準備することになっているのだが、それではこの革命が長く続いた場合に枯渇に喘ぐのは必至だった。修正に次ぐ修正。訂正。停止。懐かしさとじんと痛む頭蓋を抱え、彼はそれにいそしむことにした。


「いいか、よく聞くんだ。どうしてこれだけの物資で革命がうまくいくと思っている。こんな試算出鱈目だろう。」

「ああ、「貴族」のあなたには頭が垂れてこの上ない。もう一度試算するからまた見てくれないか。」

「いやだ」と言い残し、溜まった苦痛を油臭い酒を傾けながら、吐き出しそうになるのをこらえながらこれからのことを思案した。


彼の中に革命の反応が燃え出した。もちろん彼にはそれが「革命」であるとは感覚されなかった。ただ「今のままではいけない」という直感だけが彼の思考を支えていた。彼はほんの少し革命について知りえたのだ。

赤に身を纏った。革命を象徴しているのだろう?これが革命の革命たる所以だろう?それは残酷なのだろう?だからこうして赤い衣装をまとって、あの羊の方端のマネをしているのだ。ピエロ?いや私は「貴族」だ。指揮を執るに相応しい、ヨースタインゴルデル彼自身である。彼は私であり、私も彼である。世界のすべては「私」の投影でしかない。私が、私の世界を、私の為にーもちろん彼女とその子の為にもー、私による革命を、それを先導しなくてはならない。それが私がプロールとして希望を持つに至る唯一の方途である。

彼に従いコロニーは赤で染め上げられた。いい気味だった。壮観でもあった。やはり私には先導者たる資質がある。いやそうでなくてはならない。反射した赤が白昼を染め上げている。雨が降るならそれは血の色をしていただろう。


すっかり革命一色になったコロニーの酒場で彼はのらりくらり酔いに頭を揺らしていた。真っ赤な世界はともすると彼の充血した目に現象する色眼鏡であったかもしれない。そして実際色眼鏡であった。

「聞いたか?」

「何の話だ?」

「近頃、赤が流行ってないか?」

「そうだな。」

「そうだな、じゃない、これは何ということだ。」

「少し酔いすぎなんじゃないか?」

「いやはっきり宣言しよう、あの革命家気取りは……、革命家気取りは、」

「誰のことを言ってるんだい?」

笑みを溢しながら、知っていて当然の話題に悦に浸る小太り。

「「羊の子」、「貴族君子様」のことだよーわざわざ言わせるなよー。」

二人が座るテーブルが揺れたのは、赤の意志の制裁の拳の為であった。ハッと我に返る侮辱者たち。色眼鏡を見てやはり彼のことだと言わんばかりに、また嘲笑を浮かべた。

「笑っていられるのもこれまでだ。」

突きつけた黒光りの銃口に、閉口する彼ら。

「どこでそんなもん……、」

銃声と静寂はほんの少しのラグを以て同時に現象した。

「いいかーお前たちもよく聞いておけー、俺は「羊の子」で」「貴族君子様」だ。お前たちの主導者はこの俺だ。分かったなら、こいつと一緒になりたくなかったら、お前たちは黙って俺に従え。」

赤に染まったコロニーにどす黒い赤が混じって、飽和した。


「だからそんなこと無理に決まっているだろーどこにアイツがいるのかも分からないんだぞー。」

「それを探すのがお前たちの仕事だ。指示するのは俺の仕事で、お前たちは従うしかないんだよ。」

黒光りをギラつかせながら、絶対服従のナイフを突きつけた。

「いや、だって、でも……彼はいつ現れるか分からない。どうしろというんですか。」

「そんなこと」と凶器をしまった。

「そんなことは俺が手配すればいい。お前は必要なかったな。それじゃあお別れだ。」

一度は鎮みかけた熱が再燃して何口径かの銃口をこめかみのありに突きつけた。体をねじって男に食い入るような形で体を交差させ、発砲がどんな鮮血を噴出させるか楽しみにしながらその時を待った。

パン、とはじける音がして、しかし騒然とせず、ただの赤い日常としてまた赤い塊が飽和する。ただ爛れた赤い日常がそこにはあった。それだけである。


予定の決行は次いで何日か後に出来(しゅったい)した。

「どうぞどうぞお掛けになって。」

コロニーの中でも相当な喫茶店の個室に、ストラマと羊が対峙し、これから起こることについて話し合った。

「それで君は軍需に関して指揮を執っているらしいがね、どうかね、調子は。」

「それがまぁ、ぼちぼちと言ったところです。」

彼の言葉を飲み込むように羊はコーヒーを傾けた。

「ぼちぼちか、悪くない。そのまま頑張ってくれたまえ。」

「そうですね、まだまだ頑張らないと。そうそれで、やはり市民の動きは鈍いみたいです、それから上層部の方の連絡もなかなかうまくいかないようで……、」

傾いたコーヒーを少しの不満を持ってタンとテーブルに叩きつけた。テーブルが傾いた。

「お前は文句ばかりだな。偉くなったつもりか?「貴族」出身の気取りのプロールだもんな。誰も付き従うことはないさ。」

「そうさ」と心に秘め、思い上がりと称された彼自身の矜持を示す黒光りがここでも登場した。

少し慌てる様子が見られるか期待したのだがヨースタインは完全にこの状況を受け入れている。

「辞世を述べても?」

黒い銃口をくいと上げ下ろし了承を示した。

「そうなんだ、お前のような、革命にお熱な餓鬼がこの世の中を変えてくれ。それしかないんだ。お前には期待している。だがこんなやり方は間違って……」


黒い咆哮のあとは何も残らなかった。


赤に身を染めた方端は今度はもう一方もなくして、もう完全に機能をなくした、ただの赤い塊になった。

それからのらりくらり、最後の咆哮をこの耳に何度も反響させながら彼の言葉を反芻し、黒に身を染め自宅に戻った。


「革命はプロールの中に」

「希望はプロールの中に」

「希望は我々全ての中に」


ある晴れた青の下。そこには整然とした「同志」がいた。対照をなすように赤黒い軍服に身を覆い、百人一組ーつまり十人縦隊と横隊がクロスしていたーになって、しかしそんな数がどこまで視界の内にあるか分からない。恥の方に行けば行くほど遠近法で何かの塊、あるいはただの色、思想としてのみ認識が可能であった。

彼ら「同志」より数段高い位置にお立ち台とマイクが据え付けられ、そこがストラマの席だった。


「いいか、同志ら。」


一言に何千もの、何万もの敬礼が一挙に運動し、ザッ、とぞ出を震わせ、また呼応して敬礼が止む。


「ヨ―スタインはー知っての通りー殺害された。代わりに私が、「貴族」階級の私が、その後任を一任されたのだ。それがこの紙面だ。」


「いやしかし」とその熱を遮る。

「いやしかし、心配は無用だ。私が彼の後任をする。それだけのことですべてが解決する。そうだろう?同志らよ。」

次第に拍手も聞こえだした。緊張を以て張り詰めた隊列は緩慢になっている。

「そう。そして、ここに宣言する。私とお前たちーああ同志らーとで連合を組む。政党のような旧体制は捨てよう。私とお前たちは個人として別であるが、思想としては、そして行動としてもーすなわち私に従事する、私と共に歩むものとしてー一体の境地まで上り詰めるのだ。それが革命の準備を成すだろう。どうだ、それが嫌なものはいるか。この場で辞退してもよいが、命の保障はないことだけは確かだ。」

傍らに座るお腹を膨らませた夫人に目をやった。とても安らかに目を閉じていた。

青の空が白みがかった。

プロールは上手く状況に対応していない。隊列を外れるもの、辞退を表明するもの、そう、彼らに意志はない。ただヨ―スタインの後任だからという理由だけで収集された付け焼刃に過ぎなかった。

いたるところで黒い咆哮が、それが逸脱であることを意味した。黒い服に身を包んだ人間が隊列の端に何人かのまとまりで従列している。

隊列を外れた者はその場で彼らに射殺された。

一瞬陰った感情がプロールに充満し、ようやくのことで現状を理解するに至った。頭の中には「死なないためには従うしかない」しかなく、生にこびりつく蛆虫の様相を成していた。こびりついたとて意味のないのを彼らは知らない。しかし意味を与えよう、というのがストラマの指導する革命であり、だから彼らの目的を「革命のための生活」に押しとどめることが、その一瞬において出来るようになった。民衆を完全に掌握したのだ。


革命は彼の黒い咆哮のおかげで、徐々に熱を増していった。赤服はもはやなんらの意味も持っていない。それが革命であることすら忘れられている。日常というものが転覆し、新しい地平に生きることになった。ただそれだけのことだった。


赤と黒が愛で渦巻きながら融合する。静脈血の褐色が世界を席巻する。「それでいい」とストラマは思う。「私はこのままで甘んじていてはいけない。掌握は出来た。それは別に手段に過ぎない。それだけではだめなのだ。私は、私はあのゴルデルの遺志を継ぐなどというそんなちっぽけなことで満足しない。これからなのだ、すべては。」混沌とした褐色の中で、ストラマの記憶の芥がはらと巻き上がる。何だったか思い出せない。それでもあの「旧思考」というもの、そう呼ばれていたもの、そう記憶するものにはもう意味がない。離れなくてはいけない。それを壊すための「革命」なのだ。


革命はセロロストの出産を待ってからということになった。幸い親子健康なまま出産を迎えることが出来た。

射精するとき欲情がそのスピードを増すように、いやそれ以上に濁流となって私たちは流れ込んだ。

手始めに白壁の外に出ることにした。天井こそあの時のロケットでぶち破ったが、それ以外はまだ何も手を付けられていなかった。このコロニーから出るのだ。そして「革命」を起こす。

無産者どもは仕事を得て喜んだり、げんなりしたりしながら革命に参加していた。いいんだ、お前たちに見えるのは目の前の事実だけ。先見は私の特権なのだ。だからお前たちは私の手先になっていさえすればいい。目などいらぬから、お前たちは盲目の中で「革命」を支えるのだ。支えているという自負も無ければ、何が起こっているかもわからない「同志」よ、武運と共にあらんことを。


全同志に告ぐ 白壁を破壊せよ

今に見ることになる革命のために

全同志よ ここに私たちの生を打ち立てよ

全同志に武運のあらんことを 〈アーメン〉


何と呼ばれていたか、セロロストがその存在を教えてくれた伝達システムは上手く作動したのが分かったのは「同志」の咆哮がそれに重なった時であった。彼らは武器を持ち、一斉に白壁の果てに押し寄せた。さながら激流の河川である。一気にダムに流れ込む河川は白壁にひびを入れるのに成功した。ダムの決壊は時間の問題であり、いや問題ですらなく、彼らの間の抜けた忠誠心だけを以てして、不可能ということはあり得なかったのだ。

ロケットの風穴から日が差し込んで、それが傾く頃、ダムは決壊した。全体からどよみと喜び、達成感、その全てが混じった歓声が上がった。


成し遂げたな 同志ら

しかし禁物である

これからが革命なのだ

心してかかるように 同志ら


彼の伝達はまたしても観衆の反応によってその効果が立証された

不意の涙に付近にいた「同志」は不審がったが、すぐにその熱を感じ取り、前を向いた。「革命」に向かうのだ、という点で合意がある集団の結束は強かった。闇雲な、餌に振り回されてばかりの家畜ではないことを少し憂えながらしかし、思惑を遂行するに足る彼らの働きぶりは称賛に価した。


さて誰が最初に道を開いたのだ

その最初の者に勲章を贈呈する

さあ前へ


歩み寄ったのは屈強な肉体をした男であった。背丈も同志の中では高い方で、ストラマより少し背が高い。

「良き同志よ。これは名誉なことだ。」

「光栄です。」

言葉もなかなかposhな具合の同志であった。

「さあ、これを。名誉の勲章だ。」

名誉、の名の下誰彼となくそれを欲しがる乞食が押し寄せた。


静粛に 同志よ

名誉は少数者のためのものだが

同志であるからには

我々は既に同じ革命のよしみとして

そう既に連帯している

それ以上の喜びは必要だろうか

同志らよ

革命において我々はひとつになる

それが私が最初に諸君に与えた「勲章」である


意味を理解しかね、しかし徐々に歓声が上がることで、理解した者もそうでない者も、一つの対象に関して一途に思うことを少なくとも体験した。


白壁の風穴に陽が差し込まなくなって、少し早い夜が訪れた。

革命深夜と同じ暗さに、日常が溶けていく。


「それで?軍需の方は?」

「はい、必要十分とまではいきませんが、もう数日で整うかと。」

「そうか。」

赤服に胸のあたりを輝かせたテネスはそう言い、あとにしようとする。

「いや、言い忘れていたが、それが実現しなければそのお前の胸元の輝きー勲章ーも無しだぞ。分かったな。」

何も言わずに硬直し右手で敬礼をする。

コロニーの中には参謀室がある大きな建物が建った。その奥で身を構えるストラマだったが、どうも引っかかる。

私は何かを忘れている。忘れたことさえ忘れていた何かがある。それが脅威となって私を殺しに来るのも分かっている。しかしそれが何なのか、全く見当もつかない。殺戮とは別種の黒い塊で押しつぶされそうだった。


重たい顔をしている彼に、息子を抱えたセロロストが「どうしたの?」と問いかけ、もう何時間も経ってしまったことを悟った。決まって彼女は夜のー十二時くらいだろうかー皆寝静まった時間に来ては私を慰める。

「いや、何でもないんだ。しかし革命がこうも前途多難だとは思わなかった。家畜どもがー期待を裏切って少しばかり勤勉であったのだがーもう少しマシな連中ならな。」

「貴方は私を家畜とは思わないの?」

「どうして。」

「どうして、って、私はプロレ出身よ?」

ああそうだった。彼女はただセックスの上手いだけの、いや上手くもない、単に好きなだけの、それだけの家畜の豚だ。メスの豚だ。腰についた黒い咆哮に手をかけた。一瞬にして巻き起こった感情だ。

「なあセロ、時にプロレは厄介なものだな。」

「どうして?」

「信頼に足るのかそうでないのか、全然わかったものではないからな。」

「そんなことはないわ。みんな少し自由なのよ。制度や監視から。」

「それで?」

確実に黒を握った。刺し抜くのも時間の問題であって、しかし決定事項だった。

「それで、と言っても、ねぇ?私たちは長らく平穏を過ごしてきたのよ?それを変えようとするのは難しいことだけれど……。」

黒を構える。子に当たらぬようにセロの顔面をぶち抜くところまで照準をおもむろに合わせる。

どこか落ち着いた様子で「貴方はいつもそうね、いつだって権力の犬なのよ」と溢す。

怒りには触れなかった。ただ除外すべきものを、そうでないものと選別して、ただ私の手先足先として生きる、それだけの人員に彼女は不適合だろう。何より彼女はセックスを欲しがっただけの、餌を欲しがっただけの、そしていきる足枷を産んだだけの、そんな、そう、そんなものだ。単なるセックスマシーン。醜い。

席巻した憎悪に閃光。

セックス?セックス、セックス。義務?我らが義務?


ボン・デューティー


ああ、そうだった。

黒が先を揺らす。

義務、アンジー、党?ゴルデル。セロロスト、息子、そして……、私?

何だった?それはなんだ?私の中の私が否定しようとして必死になっている「歴史」とは何だ?「歴史」とは何だ?レキシトハナンダ?What is so-called History?

黒だけでなくストラマの体も揺れ出した。細い稜線がくねくね捻じれる。痛みを感じない破裂と内乱で一杯になっている。混乱。アンジーとの義務だ。何だこれは。

体ががたがたと震えだす。歴史というものの暫定的な性格と、しかし曖昧な記憶とが混然としてそこにある。紛れもない実感としてのアンジーを感じる。何だこれは。


気が付くと黒を腰に仕舞っていた。記憶の中で衰退した何かが彼の全生命を押さえつけるのだ。答えが見えない。何をしているのか。どうしようもない倦怠感が体を襲う。「どうして」と問おうにもセロを相手には何も聞き出せないも同然だった。

「俺は、変わってしまった……のか?」

黒を突きつけられても依然としていた彼女は向き直って彼のそばに腰かける。腰の折れた彼のみすぼらしい姿をいたわるように。

「何も変わらないわ。ただ少し、何かを思い出していたのね。苦しかったの?」

「苦しい。」

「何が苦しいの?」

「革命が苦しい。」

彼の中で思い起こされた党員が思考停止を命じたのだが、プロールとしては革命を何としてでも推し進めなくてはならなかったし、それが彼の生きる全てだったのに、今はそれが一番苦しいのだ。なぜこのようなことになってしまったのだか、こんな風に人の中にまた人がいて、その中で人が引きちぎりあっている。押さえつけ、反動し、なお一人であるストラマは困惑した。


息子の名前はギビタニに決まった。革命の子という意味だった。数日の酩酊に似たのらりくらりを続けてしかし私の中には革命しかないことを悟った、そんな気の間違いがこの子を産んだのだった。運命を背負った子供だった。たとえストラマ、セロが朽ちようとギビタニが革命を主導してくれるという鈍い直観を抱えたまま、革命は白壁の外に波及した。


全隊歩みを止めるな

このままアスカンドルを制圧する


革命の主導者たるものに従って歓声と怒号が混じる。まじりあってなお赤黒く光っている中に希望を見出した。私は革命の申し子なのだ、だからこれを完遂することが私の全生命を捉えるのだ。

赤黒い塊は大挙して党の支配地域へ向かうことになった。


革命は予想以上に順調に進んだ。一週間ほどでアスカンドル北部の制圧に成功した。

ストラマ自身も戦いに参加することが度々あったが、あのこんぼら合戦で敵の顔をぐちゃぐちゃにする感覚だけが染みついた。黒い自動機械で打ち抜くだけの軽い粛清となんら相違のないものと思われた撲殺だったが、やはり堪えた。

一週間の後に制圧を祝して、「同志」の労いも含めちょっとした集会を開いた。


この中で我こそは、と思う者

前に歩み出なさい


ストラマの号令に少しざわめく一同。そして疑心ながら歩み出る数名。


お前たちは何を成した?


「仇敵の首を一番落としました、吾が君。」

「北部武装地域の陽動、生還を果たしました。」

「看護員として多くの人員の手当てを行いました。」


そうか、ならば皆に勲章をくれてやろう

ほら


ストラマが催促するとセロがやってきて、それぞれ別の形と大きさのシンボルを台に乗せて持ってきた。

諸君の胸に輝くものをつけると「同志」の中の英雄は、それを以て英雄となした。それを称揚する歓声。革命の順調にも少なからず感激したことだろう、歓声のベクトルは様々だった。

革命の火の灯った薪が革命を照らす。前途は多難であると、確信はしていた。確信は。


明後日、アスカンドルを南下した。武装勢力は北部の制圧を聞いてより盤石な準備をしてきたのだろう、見るからに警戒色を強めている。まずはアスカンドル。その次は党の直轄地域。飛躍にも思えるこの計画にはやはり中央を抑えるべきだと、確信めいたものがあった。

南部との抗戦は消耗戦になった。先の北部闘争で人員を七割まで落としたストラマ軍には手厳しいものだった。

例によってこんぼら合戦だったが、しかし現地で調達した武器は役に立った。真っ向からの勝負を避け、ゲリラのように抜け道から奇襲、武器の温存も必要だったからあまり銃にばかり頼らないようにと警告しておいたが、プロールには「今」しかない。今怖いのであればそれを払拭する何事も遂行する。

一週間を過ぎた頃、ジリ貧が水を差した。加えて造園が動員された。彼らはコロニーを封じ込めよ、恒久平和のために、党のために、というスローガンの下結束した軍隊だった。

はっきり言って分が悪すぎた。確保した南部第一地区で軍需を補填するだけにして、前線の「同志」を置き去りにして、ストラマ率いる中枢、勲章をつけた集団はもとのコロニーへ戻ることになった。


諸君 今までの功績は評価する

しかしこれからの革命は少し荷が重いかもしれない

心してかかるように

目下同様のコロニーの制圧を目指す


撤退は作戦の失敗を意味したかもしれない。しかしそれが彼らに伝わらなければよいもの、伝わったとして黒で赤い塊を積み上げるだけ、それだけのことだ。造作もない。

「俺たちは負けたのか?」

「違うわよ、我が君には何かきっと策があるのよ。」

「そうだといいんだけどなぁ。」

歓声と喜びーこれは故郷に帰ってきたときのそれに似ていたーの間でそんな会話が漏れ聞こえる。策などない。無策だ。今まで従順な僕でしかなかった私にこんな役目が務まるわけがない。そうだ、いっそすべて投げ出してしまおう。


ふと気が付くと赤く染まったはずのゴルデルが顔を覗かせた。羊面は臆面もなく、ストラマの硬直とは反対のベクトルを持って彼に接した。


革命は順調と聞いていたが?


「順調です、順調でした。」


聴け、我が遺志を継ぐ者よ

このままではいけないと分かっているだろう?


王座ー彼の参謀本部となった部屋の一角ーに座っていたはずの視界がどんどんと白く靄がかかっていく。すべてが霞んでいく。この空間には彼とゴルデルの二人しかいなかった。走馬灯のように流れゆく時間の中で、一つの灯を与えるようにゴルデルは語った。


このままではいけないならどうする?

ある提案があるのだ

それを聞き入れてくれないか


「提案?何です?」

ストラマは恐縮していた。死んだはずの塊がそこに現前している。非在人間としてではなく、しっかりと実態を持ったーしかし方端であることは彼の演説を聞いていた時のままだった、だからこそそれが現実であることを拒絶したのだがーしっかりした存在としてそこにあった。夢にしてはよく出来すぎている。


……提案というのはだな

思い切って党中枢に内部から壊滅的な打撃を与えることだ

お前の信じる革命はそのようにしてしか成就しない

どうだろうか

それともまだとうに忠誠があるのか?

あんな連中はヤワだ お前なら簡単に壊滅出来る


「そんなにうまく運ぶでしょうか。」


党のことならお前がよく知るはずだ

別に大したことはなかっただろう?

お前は過去のお前を超える残虐さを手に入れた

腰のあたりの黒光りがもう私にはトラウマだが

しかしそれはお前の才覚だ

お前は党を打倒出来る

希望はプロールの中に、だ

お前はもはや党員崩れのプロールだ

ルサンチマンに見えるかもしれないが

お前にしか務まらないのだ


「ルサン……なんと?」


ルサンチマン 弱きものが最後にする抵抗のことだ

窮鼠猫を噛む そんな具合だ

おっと、そろそろだな

私がこうしていられるのもそう長くない

最後にもう一度 希望はプロールの中にあるのだ


ぼんやりとした白い霞が晴れて、あとは真っ暗な天井に星が浮かんでいた。


それから目が覚めたのは本部のソファの上であったし、やはりあれは夢、だったのかと気が付いた。とんと変な夢を見たものだ。しかし胸に残ったのは白昼夢がもたらした陰惨な黒い影ではなく、はっきりとした反芻だった。


希望はプロールの中に 革命は同志と共に

そして党中枢を破壊することが革命である


聴け、我が同志ら これより革命の新たな方針を提示する

我々は今現時点を以て目標を党の壊滅に定める

そのためにまず党の所在を確認する

これに功績を残した者には勲章をやる

私の手足になってくれる者はすなわち勲章を授かる

悪くない話だ 早速かかってくれ


彼の言葉に当惑と激励を感じ取った赤褐色の塊は、不平を顔に出しながらしかし、従うべき者への忠誠と、わずかな自由への期待に絆され、歓声を余儀なくされた。

ストラマは何もしなくてよかった。手先足先が働いてくれる。革命の主導者とはいつも君臨するものであり、先導することも、したことも、するであろうこともない。安住の地で手先足先を自己の末端として機能させれば後は頭脳労働だけだったのだ。ある時に英雄であった者が今はただのダスマンであり、だからこそそこから脱却しようと努力させることが出来る。身内の世間体に目が行く彼らの小さき理性にはそれで十分な行動原理を与えたのだ。


意外にも党の内情に詳しい者がいた。おそらくストラマと同じく党から放逐された身分なのだろう。彼は党からここまで来た道則を記憶していた。彼によるとアラカドはここから北東に二、三日のところにあるという。そして第一都市の所在はアラカドにいけば分かる、とも話していた。セロに勲章を作らせ彼に与えた。赤黒い空になってきた。


同志ら 第一都市の所在が分かった

そこに行けば等を内部から破壊することが出来るはずだ

一週間を目途に軍需の拡張、遠征用の食料の確保を行う

これに一役買ったものにも勲章をやる


彼の「勲章」という言葉はプロールを焚きつけ、歓声の中に日々の労働を見出すことになった。

アスカンドルとの抗戦で得た若干の自動小銃などがもとになって、次々に軍需を拡張していった。

一週間が経過すると銃は三千丁ー一人に一、二丁の計算になるーがもたらされ、食料も十分に確保した。この期間に生まれた新生児たちは保護施設の中で育てられることになった。ギビタニもそこにいた。彼らは幼いころから軍教育を施され、訓練に毎日を焚かしていくことになっていた。革命がいつ終わるか分からない以上こういった人間の囲い込みは重要な問題だった。


白壁の反対側にもう一つ大きな穴を開けた。北東遠征のための第一歩だった。穴が開いた時の歓声は、反対側の時よりも静かだった。喜びをかみしめたというより、これからの遠征が如何に過酷になるのかということへの少しばかりの不安を含んだ感情を吐露していた。


ストラマはギビタニに別れを告げた。

「愛しの息子よ、闇のない世界で」と残して。


先日のアスカンドル南下によって警戒は重くなっていたようだ。コロニーを出てすぐに機動軍に行く手を阻まれた。


我が同志ら、これは前哨戦だ

心してかかれ


ストラマの呼びかけに応えるこんぼら合戦。ストラマは手先足先に交じって抗戦に参加した。

黒で打ち抜く相手の頭になんらの革命に関する条項がないこと、そうしていれば別に何の問題もなく過ごせること、それが怠惰でありかつ、憎悪の念を持っていた。それでは何も変わらないし得られない。盲目な人間が生きていけるのはいつも暗がりの中で、一段高いところからの命令に従うときだけだ。そんな目は節穴か?お前たちが持っているのは人間性ではなくただの奴隷としての誇りだけだ。それに何の価値がある?

六分目くらいに差し掛かっただろうか、アスカンドルの軍隊は次第に後退していった。我らが同志の革命熱という人間性に怯え、そして「やれるものならやってみろ」という試金石となって、彼らとの抗争は幕を閉じつつあった。


同志ら、あの革命の夜明けを覚えているか

あの時と同じ希望を胸に抱いているか

そのまま突き進むのだ 同志ら


ストラマは自分の顔が羊のように醜くなっていくのを感じた。それは克服すべき壁であると同時に、しかし畏敬によって崇拝されなければならない一種の宗教であった。ゴルデルはもういないが、しかし存在する。私の記憶の中に、そして言動の一挙手一投足にゴルデルが飽和する。悪い感じはしなかった。革命がどんなものだか計り兼ねたころとは違う確信をもって心に「革命はプロールの中に」とゴルデルを反芻した。


完全にアスカンドル部隊は撤退してしまった。この時も喜びの歓声はまちまちだった。大事なのはこれからである。


二日目の夜、セロがキャンプ地の中でストラマに寄り添って泣いていた。

「私の子、ギビタニは大丈夫なのかしら。」

嗚咽交じりに我が子の安否を憂えていた。

「大丈夫。あいつは革命の子だ。私たちがいなくなってしまっても確実にすべて成し遂げてくれるさ。だから心配しなくていい。」

「もう一人だけ、いい?」

「駄目だ。」

泣き伏せていた顔をもたげ、ストラマの上半身を滑る彼女の手先に拒否を示しながらその手をどけた。

「何でよ。私のことが嫌いなの?」

ああまたこんなヒステリーを。そう思って「従わないなら君もろとも死ぬか?」と残した。「そんなことは問題ない」と言わんばかりに彼女は両手を広げ、死を受け入れる準備をした。あの時に怯んで出来なかった黒。彼はそれを試みた。腰から小銃を取り出し彼女につきつける。今度は照準を見誤らないだけの準備が出来ていた。

真っ赤に染まった地べたを見て「愛していた」と残した。腐臭がするといけないから、黒で射抜かれたセックス中毒の阿呆を掘っ建ての外に連れ出し穴を掘った。

シャベルを握る彼の眼には涙が浮かんでいた。

「本当に愛していたんだ。」


夜が明けた。同じくストラマの心はぽっかりしていた。失ったのではない。もともとなかったものを埋め合わせていた栓が抜けたのだ。溢れ出るのは彼の心の叫びだった。だからそれに従順になることは別に苦ではないし、むしろ心地いいのだ。ただ、何かが判然としない。嵐の前に静けさがあるように、今は何か不満なところがあるが、しかし凪いでいる心境であった。革命を遂行することだけが救いであると再び実感したのだ。

「今日の昼が山場だろう。皆を招集するように。」

彼は右腕のような人物にそう言い残し一人しかいない掘っ建てに帰っていった。悲しみが席巻する。しかし前を向かねばならない。大いなる目的のための大いなる犠牲はつきものだ。愛を見えなかったことにして前に突き進むしかないのだ。


同志諸君 今日の昼間 目的の党中枢に到着予定だ

抜かりなくかかるように

そしてこれで初めてすべての用意が整った

諸君はもし志願しないのであれば

私に同行して党中枢内に出向かなくてもいい

革命は私の責務だからだ

諸君には感謝している

信じてもいる しかしこれは私の重要事なのだ

セロとギビタニとの約束だからだ


自然と青が一つ零れ落ちた。それを見て聴衆は関心を集め、不思議がりながらも「志願する、是非させてくれ」と彼の革命に乗り気になっていた。


そうか諸君 よく分かった しかしこれから先は

どんな死人が出てもおかしくない


頭が頭巾と痛む。島内の出来事を思い出す。あの鈍い痛みと吐き気が襲う。一瞬眩暈を催しふらつきながらしかし、語り掛けた。


党の内部にいるのは人間ではない

単なる機械だ 何も躊躇することはない 見つけ次第殺せ

彼らには抵抗力はない ただ従順なだけの能無しだ

それから……


言葉に詰まる。何をどう言っていいか計り兼ねた。


それから、亡きセロに捧げる

ギビタニを産んでくれてありがとう


青の氾濫に聴衆も同じく濁流に飲み込まれる。昨夜の一件はみんなが知っていただろうし、たかが一人の犠牲など誰も知らなかったかもしれない。しかし真相は葬られたままでよい。そうである方が幸運な者もいるのだから。

青に魅入られた空は雨模様を呈して、これから先の不安とセロの喪失を象徴しているようだった。


そこに到達した誰もが唖然とした。三角錐の巨大な一角だったのだが、入り口と思しき暗い空洞はー実際は建物全体がー朽ち落ち、この中に本当に人がいるのかどうか、いや人ではない、マシーンたちの巣窟なのかどうか計り兼ねた。異世界との接続点はひどく風鳴りをして人を招くのを拒否しているように思えた。

全員が恐る恐る足を踏み入れることになった。革命の赤色が党の黒に飲み込まれそうになるのをストラマは活気づけた。「これからが重要なんだ、これからなんだ」とほぼ自分に言い聞かせるのと同じ熱量を以て彼らに接した。

中は先が見えない構造になっているようだったがなんとか数十メートルごとに切れかけた電灯が配置されている。足を踏み入れるごとに黒が強くなっていくのを感じた。踏み入れた先が少しひんやりしていた。人がいるならそこに温度があるはずなのだ。こんなにも冷えているなど、彼らは精神をどこか遠くに置き去ってしまったのだろうか。

数個先の電灯の下に、階段があるのを発見した。党のデスクに窓がなかったことを鑑みて地下に進むのが妥当であるというのが瞬時の判断だった。

勇み足になっていた。「これで奴らを壊滅出来る」という確信だけが彼の救いだった。次第に黒色にも慣れてきた。そんなこと気にならないくらいにこの革命は上手くいっている。そうでなければ困る。あらゆる否定を超えて彼は突き進む。


二階ほど下ったところで下に続く階段が途切れていた。黒い空間はずっと奥まで続いていた。不安は些かもない。これが革命の端緒であることを考えれば、何も怖いものなどなかった。しかし胸の中を席巻する得体のしれない恐怖ともつかない憎悪は増していった。

党中枢は地下二階程度のものなのかと、その深遠さの裏腹を感じ取って少しむっとした。

この廊下にもまたいくつかの電灯がぶら下がっており、幾分か部屋の入口のようなものが見えた。ひどく植物が繁茂しているようで、開けられそうもないが、やはりここは党内部であることを確信した。ドアの形があの時そっくりなのだ。この檻から出て何度もアンジーと繰り返した記憶が頭にずしんと来る。

心なしか足取りが重い。群雄割拠の群れもそこにはいないような感じがした。しかし頭の中にある革命と亡きセロ、ギビタニの将来を思えば安い犠牲で済んでいるのだと、確信めいたものを胸に、「たとえ私一人が残ろうともこれは私の責務、レゾンデートルなのだから」と、言い聞かせるように革命の二文字に向かい合った。


そこで対峙したのは見るも悍ましい奇形の「人間」であった。また電灯を何個か過ぎた辺りに開け放しになった部屋を見つけた。そこに躊躇なく忍び込んでみたが最後、そこには過去が置き去りにされていた。

頭だけが肥大し、血色も緑とか青に見まがうほどのものを備えた「党員」がそこにいた。体は頭の三分の一くらいの大きさになっていて、ひどくやせ細っている。殆ど白目をむいた彼は、それこそ熱心に見えるように想述筆記に身を傾けていた。顔はこちらに向いている。なにか不思議がるでも、不審がるでもなく、しかし怪訝な目をしてこちらを見入った。

それが異常事態であることを悟ったのか彼は想述筆記にまた熱心に念を送る。カタカタと懐かしいあの音を立て、次第に緊急度が増していくのが分かる。今まで暗がりだった廊下が赤に点滅しだしたのだ。

急いで腰の黒を引き抜く。ほぼ一瞬のうちに照準を合わせ思い切って発砲した。腫れあがった頭からは緑の液体が噴出し、発砲音に負けないくらいの音を立てて弾け飛んだ。

残骸はくったりと想述筆記に身を預け動かなくなった。

それまで後ろに感じていた同志の熱気を感じなくなって不審そうに後ろを振り返るストラマ。案の定そこには人影がなかった。いつから?そういつから彼らは私に忠誠を誓わなくなった?革命というイデオロギー自体反体制的なものであるという反省が、この状況を上手く飲み込ませさせた。彼らは彼の体制に反骨の意を表明したのだ。それしか考えられない。セロもそうだった。なんで彼女は私についてきたのか、どうして義務でもないセックスを求めてきたのか。ああ今はそんなことどうでもいい。早くここから離れなくてはいけない

彼の防衛反応は後ろにあるドアに向けられ、そこから脱出することが急務であった。ドアノブに手をかけー開けてすらいないし閉めてもいないのになぜかドアは重く閉ざされていたのだがーそこから脱出を試みた。廊下に繋がっている、という希望はたちまちに破壊された。ドアが別の部屋に繋がっていた。明けても閉めても変わらない。焦りが見えた。なぜ脱出出来ないのか?何度もドアにアクセスする。頭がこんがらがるようにドアも出鱈目に接続していた。どうして?

仕方がないからドアから出た先の部屋に入ることにした。気でも狂っているのだろうか、なぜかそこの部屋だけは安心出来るような気がした。その安どの理由に一つの回答を見出した。


ここは、ストラマの部屋?


脳内に直接流れる信号。それが電脳的であって、しかし一瞬の出来事であったから何も思い出せないのだが、あのブレナクスというのが作動したのだと思う。私は党の中にいる。そして党の精神と合一している。そのまま党員として熱心に生きることも出来る。ああなんと心地よいことか。

「これが党であったか。」

変に確信めいたものを心の中に出来させる。私は党員である。自覚ははっきりしていた。そんな気持ちが生まれ出るのと軌を一にして徐々に部屋が白く色の飛んだ世界になる。ただ記憶穴だけが黒く残っていた。


―⑦―


何と無しに記憶穴に吸い寄せられるストラマ。またとういんとしてのせいかつに浸れるような気がしていた。殆ど羨望だった。

記憶穴の中は黒く染まって格子が目を捉えた。緑色をした格子に魅入られてしまった。自然体は引き返そうとするのだが上手くいかない。ずんずん記憶穴の奥に向かって視界が開けていく。格子の上には意味深なアルファベットが転がっている。一つ一つの意味は捉えかねたが、それが遺伝子の構造を明らかにしていることだけは直接脳内で理解した。


私秘


という言葉だけが頭をすり抜けてゆき、なお前進をやめない視界。その最奥まで到達したときには、横向きに顔を向けた禿げ上がった男がいた。これをストラマはなぜか先祖であると断定するのを禁じ得なかった。私は記憶穴で過去の記憶を見ているのだと、実感を得た。それが何を意味しているのか、完全に理解していた。理解しつつも、それが言葉にならぬものであることがストラマに襲い掛かった。「記憶を見ている」それだけが思考であった。

その禿男の両脇からチューブに入った球が注がれているのが分かった。限界を迎えなお執着しようとする生命を感じ、それを拒絶する。


金がないのにそんな無茶はよせ


また記憶とも声ともつかないものが頭の中に充満する。なんのつもりだろうか?何が一体こんなものを見せているんだろうか?

視界が白く飛んだ。頭をもたげるほどに深く沈むような感覚。もっと見ていたいのだか何なのだかよく分からないが、興味を引く体験である。どっぷりはまっている。

皆私の方を見て、腫物を見るかのように去っていく。その中にセロがいた。さっきの声はセロの声にオーバーラップして聞こえた。そこに同志の姿があった。縦横無尽の視線は私に遮られてそれを回避するように皆目を逸らせる。赤青白の被覆を纏っており、それぞれ意味する所があったのだが、ストラマはそれを計り兼ねた。しかしそれが何らかの救護を意味することだけが直感であった。

視界が再度暗転した。少し橙がかった色をしている視界の中で、天井が迫ってくる。


今は本番ではないのよ だからそんなに気張らないで


またもや声がした。何かに導かれているような気になったが、何がそんなに私を導こうとするのか分からなかった。やはり声はセロの声が重なっていた。核燃料という意味の分からない言葉が頭の中に表象し、それで一杯になった。なんの話なのか?しかしそれが何かしらの諸刃の剣であることはなんとなく知れていた。

苦労をしてそこから頭をすっぽりと抜け出して周りを見渡す。なんの変哲もない、ただのストラマの部屋だった。しかし壁の一方が開け放されており少し光が差し込んでいる。何かときになって向かっていくとそこには意味不明なものが羅列されていた。何本か水道管のようなものが走っており、一番上には一番大きな人型が入ってこちらを見つめ、徐々に小さな管になるにつれ人型も小さくなっていった。その一角で大きな態度をとっているのが一つ。そのせいで下水が詰まっているのだろう。そこから水が溢れていた。怪訝にその滴りに近づいていく。すると道が開けてさっきの人型が子供のサイズ位になって整然とシェルターの中に格納されているのが見えるようになった。ストラマは目を疑った。すべての子供の名札にGibhitaniとある。なぜ今ここでギビタニなのだか真意を計り兼ねる。それになんでこんなところに収納されているのだかとんと見当がつかない。それになんで皆同じ名前なのだかも、同じくらいに理解不能だった。

視界は次の局面を見せた。セロが私の視界の上の方から現れ、私に何か黒い塊を乗せてこう言う。

「ごめんねストラマ……」

何に関して謝っているのだか分からなかった。むしろ謝るのは私の方ではないのか?あんな最期を彼女に覆わせて、それでいて何で謝るんだ。鈍い頭痛と胸の反響がいつまでも続く。不可解の一言に尽きるこの視界。なぜ今セロで、どうしてギビタニなのか全く意味が分からない。分からないがそれらは彼の懺悔を催させた。


済まない


済まないだ?


そう、済まなかった


いまさら何を


誰と会話しているのでもなかった。オーバーラップした彼女の声に安堵の香りがはためく。

視界は広がり、そして縮んで、元の部屋の趣を残した。少しくたびれたテーブルを眺めていた。


―⑧―


懐かしさと恐怖が席巻した。何を見せられたのだか分からない。

「夢なら覚めてくれ。」

これがどうしようもない夢であることを望んだ。なぜギビタニがここにいるのか、どうしてセロが私に謝るのか、そうした得体のしれないものの氾濫が彼の心をいっぱいにした。どうしても夢だと信じたかったのだ。

ふと視界が明るくなる。スポットライトを当てられて全身が白く反射する。次第にスポットライトがシャタンと音を立て益々視界を席巻していく。

最奥の視界が開けた。それまではストラマを客観的に映し出していた視界だったが、主観に戻ってきた。目が覚めたのだ。やっと夢から解放されたのだ。しかし様子が変だった。両手両足はずしりと重たい。周りを取り囲んでいるのがかつての「同志」であることが知れたのはその重たい四肢で踏ん張りやっとのことで顔をもたげた時だった。皆勲章をつけ彼に敬礼しているようだった。

「如何ですか我が君。」

「ここはどこなんだ、同志よ。」

「ここは、ここは、ココハ……ココハ ジゴクダ。」

「地獄?」と聞き返すと同時に今まで覆っていた視界の明度が再度落ちた。取り囲んでいる同志を黒服が包囲していた。よく見れば彼らは武器を取り押さえられ、羽交い絞めにされていた。

「何をしている、彼らを放せ。」

必死の叫びに応える一人の影。


wa(何をしている) du(自分の体もままならないのに)?


「なんだ?」


I(私は) gibhitani(ギビタニだ)


「ギビタニ?」


身長はストラマより高く見えたその男は自らを「ギビタニ」と称した。それが事実なら……お前は一体?


I(私のことか)?


「何故分かる。」


理由は分かっていたのだが、聞かずにはいられなくなった。


Already(既に) i(それは) comed(到来したのだ) The brainaccus(ブレナクスの時代が) be completed(完全に)

Yu(お前は) explore(探っているな) I(私のことを)

i(それは) make(全く) no(意味を) sense(なさない)

cuz(何故なら) I(私は) be party(党そのものだからだ)


「お前は本当は誰なんだ?」


I(私は) be party(党そのものだと言っているだろう) and(それに) yu(お前でもある)


党?そうかここは党の内部であった。それにストラマの部屋であった。党中枢を目指していたのだった。向こうからやってきた。これは好都合ではないか。腰の黒に手をかけるが、届かない。


wa(何を) du(しようとしている)


腰に掛けようとした手は拘束によって制限されていた。これでは黒を取り出せない。畜生。


gonta(殺そうと) kill(言うのか)? よかろう 分からせてやる

お前は希望をプロールの中に見出したのだな?

それがこのざまか 笑えるな


「お前は一体……、」


だからギビタニだ 党の中枢のギビタニだ お前は私をも殺すのか

お前は罪深い 何人も殺した 革命の犠牲に何人もー私の母さえー


「母?お前は母を知っているのか?ーお前は随分と幼かったじゃないかー。」


セロのことだろ? 彼女は善い母だったのに お前は殺した

知っているか? 彼女はプロールだ プロールと党員の子だ 私は

党では散々馬鹿にされたよ そんな混血は認められない、とね

汚れた血だと、そういわれたさ


本当にギビタニが話しているような気がした。我が子さえも手に掛けることは忍びないのだが、しかし、興味が勝って少し話を聞いてみたくなった。奇妙であることに変わりのない彼との再会だったがしかし興味だけがまたswotであった。


お前は私に興味を抱いているな しかし残念だ 私はお前だから

お前の記憶が私だ 革命の子だ 革命は成就した それで満足か?

私が党を取ったのだ お前の代わりに母の遺志を継いで

それなのに それなのにお前は……


ギビタニの姿が揺れ始めた。グリッチが入って、思想が揺れるたびに同じだけ像も揺れた。彼の精神は彼の肉体であった。それならば好都合であった。

「汚れた血よ、よく聴け。お前は党員の落ちぶれと、プロールの端くれから生まれたお荷物だ。革命の子と名付けもしたが、あれは気の迷いだったみたいだ。どうした?揺れているぞ?そんなに私が憎いか?」

ギビタニの像は目のあたりを抑えてうずくまるように地に伏した。


お前 今の言葉…… イマノコトバヲトリケセヨ


うずくまったギビタニから黒い煙が吹き乱れ、徐々に姿を変えていく。果たして現象したのはゴルデルだった。


革命は成ったな お前は革命を成し遂げた なしとげた

ナシトゲタ ナシ…トゲタ トゲタ…… …ゲタ

イマヤセカイハオマエノモノダ スベテテニイレタ モウナニヲ

ホカニ?


グリッチで乱れる声と姿。革命は成った?こんなに簡単に?私は世界のすべてを手に入れたのか?党を打倒してすらいないのに?

また靄がかかって今度は知らない顔になった顔だけが変わった。夢でも見ているのだろうか。そうだきっとこれは夢だ。セロを殺したのもギビタニを産んだのも、今の会話も全て夢だ。そうに違いない。


夢(daydream)? 違う(no)な お前(you)は'are'現実の非現実を生きているのだ(alive)

おっと(oops)自己紹介が遅れたな(myself) 私は真理省を司る(I govern miniturue) 

いやすべての長だ(no I be all)

all of party understan'お前が打倒しようとしていた党のすべてだ


やっと出会ったのだ。党の中枢、いやそれ以上の存在に。心から敬虔の念を抱いた。愛していた。党員としてのストラマは彼のすべてを愛していた。しかし同じだけ憎悪を抱いた。これが打倒しなければならない党の本体であることが分かった。あとは探し出すだけだ。


探し出すか(find) yu can'tお前には無理だろうな なんせ(cuz)……、 

いや差し出がましいのは止そう(stop it) お前はところで希望はプロール(in on hope)

の中にあると固く信じているようだな(tha yor bekieve)

in tha hope yu can'tそのようなことを考えていてはいつまでも無理だな


どこかで見覚えのある顔だとも、全然知らない顔だとも思える彼にはストラマの心はすべて明け渡されていた。ブレナクスが完成してしまった以上私は思考犯罪者とならざるを得ない。それだけが確信だった。


思考犯罪(antism)? いや君は立派な党員だよ(no yu be justfyed party member) 

そうその目が訴えている(goodwise seeing)

お前をこのままにしておくのは大変惜しいことだ(yu 'be' good party member)

上手く利用させてもらうよ(live goodwise) 我らが党に光栄のあらんことを(with bon future)


そのままたちまちにして靄は消えてしまった。

あとに残ったのが荒廃したストラマのデスクであったことに気が付いたのは、多分彼が寝落ちてしまった後のことだった。革命に生きていた彼にとってまた党内部で活躍するというのは、あまりに酷な現実であったのだ。しかしそれが強いられているという謎の使命感だけ取り残されてしまった。


記憶穴から送られてきた書類は一連のコロニークーデターの歴史を統合するというものだった。別段難しい作業でもなかったのだが、やはり主観として革命を率いていた身には、それ自体が歴史であったし、それを否定し続けることは、自我に対して嘘を言うことと同じことだった。しかし仮初めの平穏が訪れさえしたのだから、いやこれはまた何かの序章に過ぎないのだろうという嵐の前の静けさを感じ取り、嫌気がさした。


報告  コロニー第十三セクションでのクーデター

    七月未明プロールを率いた元党員によるクーデター勃発

    九月現在鎮静 このクーデターによる死傷者は……


いや駄目だ。完全に党に対し反旗を翻している。この文章では駄目だ。コロニーの反乱自体がなかったことにならねば駄目だ。


報告 コロニー第十三セクションでアンチズム運動

   党員内部の干渉により鎮静

   以降コロニーは統治下に置かれ、教育の拡充を図る

   児童施設の解体を進め、新たな教育機関の設立

   費用は歳出の五パーセント下方修正

   党内部に危害なし 以上


今度はまだマシだ。しかし依然としてアンチズムの動きが目立つ。これではいけないだろう。修正案をひねり出す。簡単にできていたことがこんなにも苦痛になるのは実体験の重さからくるのだろう。私はアンチズムであったし、今もそれに変わりはない。だからこそこういう日常茶飯事に苦労しているのだろう。


報告 コロニー第十三セクションにおいて人口が減少

   党の介入によって補填されるのが望ましい


これだ。なんの不穏もない。ただ単純にコロニーの人口が減少しただけ。それだけなのだ。このことは党にとっても取り立てることの重要性がなにもない、ただの歴史上の「事実」である。真理なのだ。この仕事を愛していると、ストラマは強く実感した。

昼頃になってドアをノックする音が聞こえる。まさかあの報告が気に障ったかと思いもしたが、それなら記憶穴で連絡を取ればよいのだから、不安は一抹に留まった。果たして配給のプロールだった。肉を三キロ、野菜、その他衣服など一通りを支給していった。

ブレナクスが指令を下したのはそれからデスクに向かって数分の頃だった。


報告書はよくできていた よくやった同志よ

しかし革命のことには何も触れるな 思考さえするな

アンチズムはお前の業だが、しかしそれを表に出すな

良きに計らえ 同志よ


戦争を経て完全に確立されたブレナクスはもはや快感状ですらあった。もはや頭痛など微塵もなく、アンジーとの一件もないから全然気分は晴れ晴れしていた。

それから日々は溶けていく。革命の赤が飽和してしまって殆ど透明になっていた。何も悔いがないーと言えば言いすぎなのだろうがー、そんな気分に晴れ晴れした。過去のことはすべて忘れた。多重思考によって手に入れた「平穏」は青い空の祝福を受けていた。


党員の呼び出しがかかったのは一晩寝て過ごし例の如く記憶穴と睨めっこし、顔を少ししかめていたー十三時くらいー頃であった。特になんの差し出し名もなくただ、


党員呼び出し 至急真理省本部へ


とあった。


党本部。どこにあるのだか見当はつかなかったが、ストラマの部屋から出た先に広い踊り場があってそこを奥に進んでいくと、警備が塞いでいる扉があった。’top only’と記された白い大きな壁に向かう。

「ああ、ストラマだ。党から呼び出しのあったストラマだ。」

名前を二回も繰り返せば聞き分けもよくなった。なんらの文句もなく道を明け渡す警備。こんなに杜撰でいいのだろうか。


扉が開いてまず目に入ったのはあの管に詰められた人間様のものだった。何を意味しているのか分かり兼ねる文字の羅列があった。辛うじてアルファベットであることは分かったのだが、それがオールドスピークなのだか、ニュースピークなのだかーさらに進んで私の把握しえない言語なのだかーとんと見当がつかなかった。

暗い道が延びていく。管に若干の照明作用があってその分安心して歩くことができた。

何分か歩いたところ、あの薄ら寒さが体に触れ、ゾッとする。ひょっとすると記憶を巻き戻しているのかもしれない。であれば出会うのはあのギビタニに違いない。実際の私の子であるならこんなところを知るはずもないし、歩くこともままならないはずだ。しかし記憶はいつも正しい。セロのこともギビタニのことも、プロールに紛れていたことも正しい記憶だった。それ以外が依然として偽なる歴史であるのだ。いつも自分だけは正しい。自分の記憶だけは正しい。

進んでいくと今度は天井が開けてきた。外の光が入ってくる。その晴れ空に雲がかかっているのを把握するのが先か、いや現象が先か、雲は女神の姿をした。女神は四方に雲を伸ばしその先に子供の形をした雲が連なっていた。


直知

直観

予言

信仰

伝播


五つの言葉が脳内を占めた。神の直知、その直観と予言。信仰をして、伝播してゆく。いつも人間は信じることしかできない。信じるものがすべてなのだ。

空は閉じ、元の暗闇に戻った。後ろを振り返っても人間サンプルはもはや無かった。不審がりつつも背後に人の存在を感じる。振り向くと同時にそれが何であるのか、知っていたし、信仰していた。


やあ(hallo)、お父さん(fath)


正体は果たしてギビタニだったが、どこか物腰の柔らかさを備えた、あの時の高圧的な姿勢がどこかに消えていってしまっているギビタニだった。


会えてうれしいよ、父さん


「そうか、少し変わったか。」


変ったって何が?


「前会ったときはその、お前じゃないみたいだった。」


前に会った?誰と勘違いしてるの?


「前に会った人間と話がしたいんだ。変わってくれ。」


ギビタニの影は「チェッ」と残しつまらなさそうにドロドロ溶け出して、その内奥にあるものを見せつけんとしていた。その内部に顔が生じる前に、時間が巻き戻る。


ここに足を踏み入れ党員としての生活をしていたたった一日。その

前に出会ったギビタニ、今見えていたところの管に入った人間たち。拘束。

目の上に浮かぶのは幼虫のようなもの。バタンという脅迫音につられてあっちを向いたりこっちを向いたりする。奥の方から手前の方に向かってこちらに向かってくる。私の番が来た。どうしたらいいのか分からない。どうしよう、ええい。


バタン


長らく目を閉じていたような眠気が瞼を抑えつけた。私は何を見ているのか?訳が分からぬまま体を起こそうにも身体拘束が邪魔をする。あああの時と同じだ。多分ギビタニがやってぅるのだろう。

果たしてやってきたのは知らない顔の人物だった。誰か知らない、いや知っているのだろうか。面影というには乏しすぎるようなギビタニの残り香を備えていた。

「誰だ。」

ほぼ反射的だった。

顔の知らない男は告げる。


誰か、か 何かの方が相応しい問いだと思うがね

まあいい種明かしを渋っても仕方がない 私はギビタニだ


「ギビタニ?前にもあったことがある。こうして身体を拘束されてお前に話をしたことがある。」

ストラマの訴えに少し首を傾げたギビタニを語る男は続ける


ギビタニ? そういえばそんなこともあったな

ところでそいつはこんな顔をしていなかったか?


彼の顔にグリッチがかかり次第に元の統合を取り戻していく。すると現れたのは幾分若く見える、この前に見たギビタニそのものであった。

「そうだ、そんな顔をしていた!」

思いがけない光景なのに、何か引っかかりのある顔をしているためにすとんと腑に落ちた。


それから彼はニュースピークを話していただろうーこんな風にー

いやすべての長だ(no I be all) all of party understan'お前が打倒しようとしていた党のすべてだ


全てが合致した。これは夢ではない。その「有る」ことの衝撃はストラマの全生命を貫いた。これは現実だ。現実の夢か?夢の現実なのだろうか?それからまだ疑問が残るストラマは続ける。

「それで一体お前は何なんだ。一見したところお前は誰の顔にもなれるみたいだ。この前は、ええと、たしかゴルデル……」


ゴルデル! かつての私の知己! ああなんという再会だ


また顔にグリッチがかかり徐々にその顔をゴルデルに変化させてゆく。ある一つの結論めいた考えが席巻する。

「じゃあ、アンジーはどうだ。」


アンジーか つまらない女だったよ いつも義務のことばかり

でもお前のことが好きなわけではなかったらしいぞ

その隣のレスポラをひどく気に入ってたんだとか


言葉が終わる前に女性の体に変化し、声色も変えてゆっくりと語っていた。ストラマは半分得意になった。

「ということはお前はレスポラでありさえもするのだな?」

今度は苦しそうに顔を歪めながら靄がかかる。


こういうのはどうだ 分かっただろう 私はすべてである

お前の打倒しようとしたすべてなのだ


「そうだな。お前はすべてだ。私の記憶の中に限ったすべて、だろう?」


はははっ 何と浅ましい それではこの男を知っているか?


そういって姿を変えたのは見知らぬ老人だった。この影が一体何を現象せしめているのか全く分からなくなった。私の記憶の中の産物であるという結論は激しく瓦解した。


愚かな! お前は私をお前の記憶のすべてだと思ったのだろう?

何と浅ましい! 私は私の記憶と共にあるのだ

決して誰か個人の制限された知識の中に落ち着かないものだ

私はすべてを統べる 私はすべての中にある

統べつつ統べられる存在 どうだこれは多重思考のようだろう?


高笑いが響く。グリッチが出鱈目だ。何者でもないことはかえってその中に何者をも超越した存在を見出させる。駄目だ、理解を超えている。何を言っても無駄だ。何をなしても無駄だ。駄目だ駄目だダメダ……


ダメダダメダダメダ…… お前の心もブレナクスで手に取るようだ

ブレナクスは一部の技術者の特権ではないのだ

それは私の創造だ すべて私の発案通りだ すべて私の心のままに

すべては私と共に、私と共にすべてが そうすべてなのだ

お前を凌駕するすべてが私なのだ


救われない。私は救われない。


救われるさ 私の思い為し一つなんだ どうだ選んでみたまえ

このまま天命を全うするか党員として安定した生活をするか


党員も死ぬことも止めだ。革命なのだ。お前を打倒する革命なのだ。


未だ革命に拘泥するのか それでは良いことを教えてやる

ギビタニのことだ 彼はお前の後を追うことになる

父も父なら子も子だな 彼も革命に生きようとした

お前が死んでから数年のことだ 彼は革命軍を……


「死んだ?私が?いつ?」


そんなことも忘れてしまったか お前はこの中枢に到着するすんで

のところで死んだのだ お前がみているこれは死後の記憶なのだ

だから今更お前が何を望もうと望むまいと何も変わらないのだ


「そんな。そんな。」

彼は身体拘束の限度一杯に体を縮こませた。世界のすべてから遠ざかろうとした。現実であることに耐え難かった。私は死んだ。生きながらに死んだ。どうしてそんなことが分かるのか。どうしても耐え難かった。


それでお前はどうしたかったんだ

党を破壊して それで何を望んだ


「全知ならすべてわかるだろう。」

ストラマの頬を一筋の青が伝う。


どうして泣いている なにが悔しい? もう死んだのだ

しかし望みは何だったんだ 何がお前をそうさせた


「……セロと、セロともう一度会いたい。」

濁流は決壊した。


そうか


そう残すとまたその顔のあたりを靄が覆い、次第にセロの面影を呈した。なぜかストラマは黒い銃口を彼女に突きつけていた。あの時と同じ部屋にいた。間接照明として日光が差している。あの懐かしい、しかし陰惨な頃に戻ってきた。あの時に向けた銃口に、恐怖とは違った震えが起きる。会えたのだ。私が死んでいようがいまいが、彼女にまたもう一度会うことができた。ストラマの心は愛に溢れていた。向けている銃口を外に放り出し、彼女と熱く抱擁する。

「どうしたのいきなり?銃を向けたり、泣いたり、抱きついたり。」

「分からない。分からないんだ、けど君がこうして私のそばにいる。それだけでいいんだ。もう何も望まない。革命なんて止めだ。今すぐプロールたちを徴収しよう。」


いいか諸君 よく聴け 革命に長らく従事してきたのだが

それを今日を以て止めにすることなった

諸君が所持している勲章も今日限りの栄光だ もう意味はない

諸君に価値はない ただのプロールとして天命を全うしたまえ


反感と困惑の混じった声がやがて土石流のように高まった。次第に熱を帯びる聴衆。中には「党員を殺せ」。


あの党員を殺せ

あの党員をやっつけろ

あの党員をやっつけろ


次第にリズムが彼らの中に沈殿していく。彼らにも結束の絆があるみたいに感じられ、その点は流石だと言わざるを得なかった。

次第に人流が彼の立つ論壇に押し寄せる。殆ど野生動物の声の如く「党員を殺せ」。信じられない光景だがあの黒を一吹きすれば大概は上手く収まる。しかし手元に黒がなかったことに気が付いた。セロとのひと悶着で手放してしまったのだった。濁流が押し寄せる。なす術なく押し込まれていく。

蹴りを入れる者や少し離れたところから小石を投げつける者、様々に不満を晴らそうとしていた。


それが一頻り終わって、一つ呼吸ができるようになる頃にはストラマの顔面はひどく腫れぼったくなっていた。これが「小石を投げ、それが湖面に当たると沈んでいき、科学的な静寂に落ち着いていく」というものである。一難去って静寂。あとは無言の席巻。気味の悪いくらいに素早く変動する。しかしそれも嵐の前の静寂であった。

革命のリーダーを失った豚どもは次に革命を自分たちで遂行するにはどうしたらいいかを話し始めた。結果としてはやはり自分たちの身分開放をも求め、従って党に抗うことを決意したようだ。彼らが自力で党の圧政に気づくはずがない。何といってもストラマ自身党の出身であり、その中である種のエリートだった身分には到底党のやっていることが悪質であるなどとは思えなかったのだ。むしろ居心地がよかった。革命という言葉で何を意味していたのだかとんと忘れてしまった。

そして数日後武装した豚どもがコロニーの壁をくぐって遠征に駆り出された。ストラマは王座に座って晴れた頬の看病をセロにさせていた。セロがいるなら何もかも安泰だった。たとえこの頭がかち割られようとも、最期の瞬間には君を思い出すだろう、と思った。

それから誰もいなくなったコロニーの一角で義務から離れた、愛情の確かめ合いをした。悪くなかった。いや最高だった。党員になかったこの放埓な生き方というものはひょっとするとーいや完全にーアンチズムであるのではないかと疑わざるを得なかったが、「大丈夫、セロとならどこへでも」と思い込み、何事もない日常を薄紅がかった紫に溶かしてゆく。


何週間と彼女と共にいただろうか。

赤い怒号が押し寄せてきたのはそんな頃合だった。口を揃えて、


党員をやっつけろ

党員をやっつけろ

党員をやっつけろ


と連呼していた。党のある種の醜さを植え付けたのは私ーいや正確には私を焚きつけたゴルデルなのーだが、その醜悪はどこに向かうのかはっきりしているように感じられた。次は私の番だろう、とどこか確信めいたものと、いや私の存在はもう既に忘れられているかも知れないという幾分かの安堵を胸にした。そしてここから離れるべきだと判断した。

「セロ、ここを離れよう。」

「どうして?」

「時期彼らは僕の存在に気が付いて殺しに来る。君だけが生きていても駄目だし、私が生きながらえるだけでも駄目なんだ。二人で生き残ろう。」

セロは曖昧に笑い彼の方に顎を乗せ、腕を首に回す。優しく頬にキスをした。

裏口に回り、コロニーの出入り口からは見えないところを通って何とか逆の穴に辿り着いた。その間にも「党員をやっつけろ」は鳴り止まなかった。その声が次第に小さくなっていくのを見るとやはり私の王座に向かっているであろうことが分かった。

アスカンドル攻略のためにできた穴はバリケードになって塞がれていた。二人で模索しながら「党員をやっつけろ」が次第に近くなったり遠くなったりするのを横目に作業を続けた。

やっと一人通れるだけの穴が開いた。そこをするすると潜り抜け、コロニーの外側に出た。出た先は地獄一丁目であった。そう、アスカンドルの武装組織が監視を強めていたのだ。「そうだった、今は警戒状態で、だから反対側の穴をこじ開けたのだった」と思い出し、しかし引き返すにも穴は瓦礫で既に埋まってしまっていた。

「いたぞ!捕らえろ!」

彼らの関心が一気に二人に集中する。そんなはずじゃなかった。これは失敗したか?今コロニーの外を行くのは危険すぎたか?

監視組織は二人を捕縛する。

「お前たちには大きな借りがあるからな、たっぷり返させてもらうぞ。」

「何をする、離さないか。彼女だけは離すんだ。俺はどうなってもいいんだ。離すんだ。」

「分かった分かった、お望み通り……」


ばすん。

ドサッ。


ほんの一瞬のことだった。セロの体はくったりと地に伏している。何が起こったのか、何を見ているのか、疑いたくなったが現実だった。アスカンドルがセロを殺したのだ。二度と見たくなかった光景だった。捕縛されたまま声も出ずにただ口を大きく開いて涙を流した。二度も死んだ。このままでは生きていても仕方がない。どうすれば……。

「お前には用がある。この女は不要だった。プロールには要はない。」

「おまえ、たち……はっ、うぐ、なにを……、」

「悪くない話だと思うが、ここで死ぬかどっちがいい?つまりお前は革命の主導者だったのだろうーお前が党員出身であることは見れば分かるし、あの豚どもにそんな脳みそがないことは明らかだ、だからお前が主導していたんだろうー?そこで頼みがある。」

「なにを、なに、を……、」

セロが死んだことは受け入れがたい事実だった。なぜそんなことになったのか、到底理解が及ばない。プロール出身であることはこんなにも残虐なことを良しとするのか。

「いいかー落ち着けー、悪い話じゃない。お前を反革命軍の指導者にしたいんだ。こちらからも低調にお迎えするつもりだ。どうだ、話は分かってもらえたかな。」

一向に嗚咽をやめないストラマに向かって、

「市内に入ればこんな女幾らでもものにできる。そんな事問題じゃない。それより早く返事を聞かせてくれ。」


―⑨―


いいか 反乱軍は弱い 軍隊ですらない 奴らの脳みそに鉛玉

をくれてやれ なに、造作もないさ 私が率いていた時も全く

役に立たなかった そんな軍隊なら打倒するに優に三日で済む


セロのいない生活に意味などなかった。あんなに毛嫌いしていたセックスも馴染んでしまえば愛おしい彼女の一部だった。それが失われた。そのことが逆説的に彼を反乱軍撲滅に向かわせた。

軍の行動は速く、次の日にはもうコロニー壊滅のための物資が整った。豚どもとは大違いの有様にやはり人間とはかくあるべしと、何か得心のいくものを感じたのだった。革命の赤をすべて塗りつぶして、透明にするのが今のストラマの心意気だった。


発破音がした。開戦の狼煙だ。コロニーのアスカンドル側の出入り口をこじ開け、軍が大挙して押し寄せる。豚どもの悲鳴と困惑の混じった声が甲高く響く。今もう一度一歩を踏み出す。

事態を把握することになったプロールどもは付け焼刃の物資で応戦の体制に入った。遅すぎる、豚どもよ。勲章をいつまでも誇りとしているあの集団に、つけこむ隙しかなかった。浮かれていればいいのさ、いつまでもそうやって。

次第に前線が出来上がり、両軍は対峙することになった。これだけの人数で押せば半日もかからない。反乱軍撲滅とセロの供養は軌を一にしていた。真っ白なコロニー内壁が赤く染まっていく。


三時間後、コロニーの内部は完全に透明な色に染まった。血がまだ鮮やかな色をしている。最後に残った児童施設へと向かう一行。少しの不安が過る。あそこにはギビタニがいるのだ。


諸君は見事な成果を果たした これより先も私の指示を聴け

児童施設にはたくさんの子供がいる 私が先に見て

安全を確保してから諸君が中に潜入するように


沈黙の了解だった。何か不安を覚える。何故彼らは反応しないのか。

「いや、革命の分子は最後まで刈り取るのがいい」と軍の一人が言い始めた。これも暗黙の了解。


逆らうなら今ここで殺す 分かったか 彼らには何の罪もない

悪いのは反乱分子の方だ 君たちは首を突っ込まなくていい


ニューフェイスが指揮を執っていて、しかしそれは上が決めたことだからと、頭を垂れ、不満の肯定を表しながら、それを全体に波及させていく。もとより軍の一員であった私が指揮を執ることなど造作もない。殺されたくないから生きているのだ。なんのためでもなく、ただ生に甘んじることが、人間のなす最低の拘泥である。

児童施設に入り込んだストラマは仰天を見出す。あの時に見た管に入った人間がまたもや彼の両側面に広がっていた。何を見ているのか疑った。あの時見たのは夢ではなく現実であった。夢の現実、現実の夢。夢の予定調和が、見かける全ての子供に名前の札が載せてあることに見出される。

「ということは」と心に何かが掠める。不安と焦燥に駆られて目に入った名前はGibhitani……

一瞬施設内の気圧がぐんと上がり、次いで下がったことで天井から何からすべてが崩壊した。不思議なことに瓦礫は体をすり抜けて、怪我を負うこともなくストラマは立ち尽くしていた。

その煙たい砂埃の中からまたしても「彼」が現れる。


それでどうだった? セロのいた生活は それでも失うものは

失うそれが分かっただろ それにお前はどう転んでも自分の家

族を葬らないではいられない 運命かな いや全知の私の前で 

お前の自由などないのだ どうしてもお前は孤独に帰ってくる

のだ


「そんな……、」

見たことのない顔をしていた。彼は誰なのかさっぱり分からなかった。

「なぜこんないくらいものばかり見せるのか。」


それは運命だからだ アンチズムに陥った人間はそれまでのすべて

を脱ぎ捨て 記憶の渦の中に放り込まれるのだ 望もうと望

まざるとお前は立派に党員をやっているのだ 今この瞬間も


「今この瞬間はただの人間としての生だ。誰にも邪魔されないし生なんだ。何を以て私は党員であることを免れないのか。」

瞳に青が溜まる。人間の生と党員の死が交わって腐卵集を醸し出す。精神の上に持ち込まれた異臭は青になって希釈されていく。


生きていることがどういうことか教えてやろう それはつまり

死にながら生きることだ 個人ではどうしようもない全体に埋

もれることだ 圧倒的閉塞の中苦しむことが生きることなのだ 

そうでなければ人生は輝かない 何の意味もない


「しかしこうやってまやかしを見せることになんの意味があるんだ。」

 青が希釈された炎に変わる。怒りが込み上げてきた。

「こんな、記憶の渦中に人を引きずり出して、嫌悪を抱えた人間を、そうしてそんなに欲しがる?意味のないことじゃないか。」


すっかり意味にとらわれているようだな いいかお前ひとり生

き死になどどうでもいいのだ そこに無理に意味を当てだがっ

ているからそれが崩壊した時に耐え難く感じるのだ 私の人生

などどうでもいいと思えたその瞬間に人間は花開くのだ


「ではお前は何が言いたいのだ?お前はまだ私を党員の端くれくらいには思っているのか?それで何がしたい?」


いいか よく聴け お前は才能があった 仕事も革命軍の統率

もうまくやって見せた そんなに才能があるのに皆のために利

用しない手はないだろう? 何も戻って来いとは言わない し

かしいつでも席は空いている


最期の言葉を残すと彼は煙になって消えた。ストラマはどうしようもなく脱力した。「私が党員になる」ということが半分信じられなかった。しかしどの道を選んでもセロもギビタニも救えない。何をしようが大切なものを大切にできないのであれば、それを諦めたまま無難に人に紛れて生きるということは苦痛でしかないのではないか、と考えに至った。

ストラマは爆撃で崩れ果てた児童施設の中、独り党員の生活を思い出す。透明な色をしていた。何にも混ざらずただそこにあるだけの生活。端くれとして業務をこなす毎日。ああ、何と革命は甘美で自由だったことか。「同じ川には二度と浸れない」という直感に苛まれ、しかし依然としてある川の存在に目を向け、それが脈々と受け継がれることが人生であるのだろうと、ぼんやり目を瞑った。目にはセロとギビタニが映った。悲しみの涙も流れる隙が無く、ただ胸の中で彼女らを抱擁した。


風が凪いでいて、そよそよと草木を揺らす。けもの道を少し進んだ先には小さな踊り場がある。そこだけ禿げ上がっていた。何と無しにそこまで駆け寄ってみたくなって、見える光景に唖然した。セロとギビタニが抱き合っていた。目を瞑って二人だけの世界にいるみたいだった。「ああ、セロ」と半分嗚咽が混じった挨拶をした。しかし一向に彼女らがこちらを向く気配はない。私の声が届かないみたいだ。彼女らに駆け寄っていく。すると踊り場は長い廊下みたいにセロとギビタニの二人をその最奥に追いやって、ストラマから完全に距離を取る形になった。いくら進んでも一向に距離が縮まらない。「どうして」と投げかけた声もストラマの中に充満して反響するだけだった。手も心も届かないことが察せられた。そうだこれは夢なのだ。彼女らは死んだ。だから、だから……。

一瞬彼女らの目線がストラマを捉えた。大きな目をしていた。そして怪訝を露わにして目を背けた。遠ざかる彼女らとの心理的距離に居た堪れなくなって、もっと急いで彼女らに近づこうとした。近づくほどに離れていく二人。追えども先の見えない暗がりに通じているみたいだった。


 お前は私たちを殺した 許さない


酷く魘されていたみたいで体にはびっしょり玉汗をかいていた。そこがストラマのデスクのベッドであることを発見したのは朝の十時の時計が鳴ったときだった。

「どうして?」

今まで児童施設にいたはずで、セロとギビタニがいて、それに追いつけなくて……


お前は私たちを殺した 許さない


反芻して吐き気と頭痛を催す。懐かしい防衛反応だった。窓が無いクリーム色の褪せた空間に一人、ポツンと存在していた。そこには革命の朱も、涙の青もなく、ただ透明な虚無が広がっていた。


―⑩―


今朝届いたばかりのニュースピーク辞典ー完全版と付してあるーを開いてみた。また懲りもせずにニュースピークの成立時点での言語数や迂遠なgoodwise educateが並んでいた。「しょうもない」と心の中でぼやいた。

昼を回って記憶穴から一通の指示書が届いた。中を開けてみるとそこには「ニュースピーク辞典の編纂者適任者に連絡」と題された紙が入っていた。どういうわけかーいや理由ははっきりしている、ブレナクスが私の「しょうもない」を嗅ぎつけたのだー私は適任者に選ばれたようだった。

シンクライトに向かって「了解 日時を指定してくれ」と綴った。

午後五時とだけ短く書かれたものが記憶穴からやってきたのは三時過ぎの頃だった。それまでは時間と身を持て余した。なんだか落ち着いていられない気になって自分のデスクから出て例のバーに向かった。

 昼過ぎでも何人かの党員が屯していた。皆の言葉を注意深く聞いていると、何も理解できないことだけははっきりした。ニュースピークは完成したのだ、とどこか嬉しい反面、どこにもオールドスピークが存在しない息苦しさを覚えた。そういえば記憶穴とのやり取りもニュースピークではなかったのを思い出す。「歪だ」と口に出す。それがオールドスピークであることを嗅ぎつけた何人かの党員と目が合った。まるで虫けらを見るみたいな目でこちらに見入っている。

活躍できると期待していた世界は全く違って見えた。何もかもが通用しないようだった。言葉も思考も、何もかも。

結局時間潰しにならず、代わりに精神を潰して約束の時間まで過ごしていた。部屋に戻ると追加の記憶穴が届いていた。紙面にはただ、真理省中枢 約束の場所にてと書かれているのみで、それがどこなのだかあまり判然としなかった。仕方がないからシンクライトに向かってその場所とはどこなのだか聞き出す旨の書類を送信することにした。


約束の場所がさほど辺鄙な場所でなく、というよりかなり目立つところだということが分かったのは、その場所について再三影になったりして姿をくらましていた「党の長」に出会った時だった。開けた空間に大きな奢侈な椅子に座っていた彼には何度か会っているために、さほどの身構えは必要ではなかった。彼はストラマが着くと話始めた。


よく来た 要件は分かっているだろうから早速かかってくれ


彼の奢侈な椅子とテーブルのほかは開けた空間に、ニュースピークを感じるための余白はないように感じられた。彼自身オールドスピークを語っているようで、ある一種の気遣いのようなものだと思ったのだが、しかし「ニュースピークは理解しないだろう」と高をくくられ、だからこそ譲歩ではなく、単なる憐れみを感じ取り、居た堪れれなくなった。

「要件は分かっているが、ここには辞書も何もないじゃないかーどうやって編纂作業をするのかー。」

ストラマの問いに少し不服そうな彼は指を立てて示した。


シンクライトと旧版の辞書だ


彼がそう言うと、テーブルの上に筆記器具と辞書が並んだ。幾分か不思議な光景だったが、彼というものに何度かであって以来、そんなことも造作のないことなのだろうと変に腑に落ちた。

「それでどうすればいい。」


党の正統に関する記述に関して 包括的に見直してほしい


「それだけか?」と「そんなにも?」という気持ちが溶け出しあう。正統はかなり重要な概念である。革命によって得た彼の党に対する漠然とした不信感の下ではそんなことを成し遂げられるのか、甚だ疑問になった。


十二版はお前の気に入るところではなかったようだ それは知って

いる だからお前の好きなように改変できるようにしておいた

現在は十五版の制作に皆必死だ その一部をお前に任せているのだ


私だけが優れて選ばれているわけではないことにどこか寂しさを覚えた。しかし与えられた仕事は全うしなければならない。党に生きる退屈な日常こそが、孤立と孤高を踏み違えながらも重要なものであると感じたのだ。


正統に関する用語を「言語」、「概念」、「行為」の三つに分類する所から始めた。この三つは前者から常に拡大の方向性を持っている。つまり言語は概念を支配し、概念は行為を支配している。大本の言語に関する修正は困難を極めるだろうから、後者から逆の方向に向かって修正していくことにした。


「アヒル語」…党の言語で喋ること

「信仰」…党の精神を享受すること

「多重思考」…正統な思考に至る過程

「革命」…党の確立した際の運命的体制の土壌


ストラマは徐々に解釈が上手になっていった。それが多重思考の内に暗に否定しなければならない者さえ飲み込み、党の正統に準ずる形で吐き出した。


Educate…党の歴史を知るための教育

Live…党の正統の中に生き、党の正統を拡充すること

……


思いの外ニュースピークの翻訳は簡単であったが、ニュースピークを語るのもニュースピークでなければならず、オールドスピークによる翻訳は些か無駄なように感じられたが、党員たちの正統が何か変革を加えてくれるであろうということに細やかな期待をしていた。


夕方を過ぎて出来上がった数十の翻訳を見て何か得心が行く気持ちになった。私は党の中で重要な役割を担っている、という確信が少しほころばせた。とりわけ党の重要な行為概念に関して翻訳をしていたため、一層党に対する理解が深まった。それが喜びであることを実感し、生きていることのすべてが肯定されたような気になった。


よく出来ている しかしオールドスピークへの翻訳は少々頂けない

ニュースピークへの移行がまだ完全ではない どうだ ニュースピ

ークを学ばないか?


そういう提案があったのはこうして一息ついた時のことだった。

「ニュースピークを学ぶ?」


そうだ お前は長らくプロールのコロニーにいた だから洗練

されたニュースピークの諸原理を完全に忘れてしまっている 

どうだ一度学びなおしてみないか?


翻訳作業自体は苦ではなかったし、楽しみさえも抱いていた。だからそれを本格化するための学びなおしには二つ返事だった。

「是非やらせてほしい。今までの人生の中で今が最も楽しく感じている。それを持て余すことなく党に使いたい。」


それではまた連絡する


そう言って影は消えていった。


日常の同じ色彩にうんざりした。また例のバーに出向いたのだが、やはり白い目でこちらを見る集団。私には私の責務があり、それがプライドであり、いつかはそうした連中の言語概念を握ることになろうから、別に気にすることもなかったが、その中の一人が話しかけてきた。


Howd(どのように) speak(話すのか)? like(豚どもの) pig(様に)? And(そして) whyd(何故お前は) come(ここに) back(戻って) to(来た) us(us)? Honest(俺は正直)

I(お前のことが) don(気に入らない) admit(と感じて) yu(いる). Heared(言葉から) yu(私たちに) commit(制限を加えようと) our(している) langage(みたいだな). Howd(どのように)?

Yu(プロールの) plore(お前ごときが).


何もわかっていないな、と感じた。ニュースピークは今や進化の最終段階にある。その言語を知るのはストラマを含めた編纂要員のごく数名だ。いつの日か私の言葉によって歴史が語られる時が来るだろう。そうなったら次はお前たちがプロールなのだ。不承不承の様で「別に構うまいさ、明日はお前たちだ」とグラスを傾けた。ほんのり油臭いアルコールに胸が焼ける。ニュースピークの編纂という大きな炎が心の中で燃えて、これもまたじんと痛む。


部屋に戻ってもニュースピークのことが頭を離れることはなかった。むしろそれを学ぶことができると喜びに満ち、堪らなくなった。これであの豚どもを完全に理解の範疇から追い出すことができる。再び洗練された党員になれる。何もかもが透明な空気の中に溶けていって、しかし確かに輪郭を浮かべるベールのようなものになった気がした。


翌日、呼び出しのあった時刻に前の部屋に行ってみると、そこに影はいなかった。少し不審な感じがしたが、待っていれば問題ないだろうと高をくくっていた。

窓があって差し込む光が眩しい部屋だった。これからの華々しい党員生活を象徴しているかのようで、少し気分がよくなった。

期待に胸を膨らませながら待っていると、ドアは大きな音を立てて開いた。物の数秒の間にストラマは何かによって身体を抑えつけられてしまった。息苦しく感じながら「なんだ、これは」と問うてみるも返答はなし。もがいているところを傍目に影がやってくる。


それではニュースピークについて初めていこうか まず今の君

の状況だが、自由はないものと思ってくれて差し支えない

不自由であることが党に対する忠誠を示すのではない それは

不自由すらーつまり不自由などという言葉も概念も必要ないがー

それすら一個の意味のある党に対する服従でありその意味で自由は

ない この不自由が君を開放することもなければ支配すること

もない ただ一つの事実として君はニュースピークの原理に触

れたいと考えている それに対する少々手荒な真似だ 許しは

請うていないさて、本題に入る ニュースピークとは何である

と心得ていか


初めて影にあったときのあの身体拘束を思い出す。これではまるで拷問を受けているみたいだ。羽交い絞めにされている体を上手くねじって影の正面を見る。不敵な笑みを溢していた。

「新しい時代の新しい言語概念だろう。」


まあ、そういったところで問題はないのだがもっと心の奥にあ

るそれは何だ?


「革命。」


またなんと お前は逆戻りしてしまった そんなものであれば

お前にニュースピークを知る猶予はない


彼を引き捕らえる手に力がこもった。彼の内奥にあるニュースピーク。彼自身がその使用をしたことがないのだから何もあるはずがないのだが、しかし依然として「洗脳」の二字が席巻する。

「洗脳。」

洗脳か まあ大抵はそんなところだろう それで? 洗脳して何に

なるのか聞かせてくれるかい?

「党への抵抗が一切なされない言語空間が出来上がる。」

それでどうなるのか?

「支配というものがイデオロギーになりむしろそれに反発する者がいなくなる。」

つまり……

「つまりお前たちはお前たちの制度の上に胡坐を搔いていたいだけなんだ。」

取り押さえと影の薄ら笑いが響く。

……っ、それでお前はまだ革命の要因が党内に存在すると考えてい

るのか?

「そうでなければ言語支配などする必要はない。」

いたって真面目に考えたつもりなのだが影には冗談としか受け止められなかった。

分かった、教えてやろう ニュースピークは常に変化する 変化

こそ目的なのだ それが他の目的に取って替わられることはない

変化しそれに追従する それが党員の目的なのだ

「変化に従順である党員を集めて何をしたいんだ。」

問題はそこじゃない ただ変化するものを変化するものとして

それに乗じることこそが目的であることで人間はより従順にな

るここにもはや利権などどうでもいいのだ ただ今あるものを

再生産する それだけが目的と呼びうるのだ いいか もう一

度言うぞ単に再生産され続ける連続のみがここでは重要なのだ 

他に一切

意味はない 存在していないのとほぼ同じ意味だ

「それに何の意味がある?」

意味などないのだ 意味があると思いたいのは人間の性だがそ

れが諸悪の根源だ 意味などないものを受け入れなくてはいけ

ない

ニュースピークの存在意義とは無であるのだ その無になんの

意味などない 不在に対する不安が皆を統率に導く 統率され

ても

また仮に統率に意味があると見出されても それは思い為しだ

いいか 何度でも言う 生きていることに意味はない 少なくとも

ニュースピークの刷新など意味がないものだ それにお前が従

事している それだけの話だ

心の中に空虚が席巻した。今までなしてきた党員としての従順さは何だったのか。人生とは何だったのか。胸の奥がちくちくして心臓が小さくなってその凹凸に触れ痛む。

「意味がないこの人生というのは何なんだ。」

それ自体だ それ自体が意味のすべてだ 空虚に耐えきれない

のは意味を信じたい人間の悪癖なのだ 分かるか お前にはも

う意味がないのだ 党の精神は空虚なのだ 意味はない そこ

にあるだけそれがすべてだ


身体の拘束が緩んでいき暫し内省をしていてそのことに気づかずにいた。意味のない人生というものは何ものなのか。これまで歩んできた党との関わりのすべては何だったのか。専ら再生産しか目標にないこの無に生きるものとは何なのか。

「無に生きるとは……」

無に生きるとは それ自体をすべて愛することだ 何も見いだ

せないものに対する服従と愛が党の精神のすべてなのだ

身の自由をようやく感じた。そして正面から影に対峙した。

「少しだけ分かった気がする。」

私たちは愛しているのだ 意味のないこの人生のすべてを そ

の博愛を押し広げることが 私たちの責務だと思っているのだ 

その愛を理解できるようになった時 その時にこそお前はお雨

の人生を丸ごと肯定できるようになる その時まで一緒にいて

やろうと思うそれで今日のところは満足しているか?

「今日のところは」ということはまた次があるのだろうことが心の中に雫となって潤いをもたらした。何か教師めいたものを影に感じた。

「最後に一ついいだろうか。何故意味のないものを愛するのか?」

それはまた今度にしよう いや簡単な答えだけを一つ 人間は

すべて自らの所産だと思っているものがある 文化、経済、思

想、歴史そのすべては意味がないにも関わらずそれを何か崇め

るべきものと

している しかしそれらすべては人間の外のものだ ヒューマニズ

ムと言い表されるすべての人間的所産は人間自身の進化を意味する

のではない 囲まれるものが進化しているだけなのだ 人間はその

まま生まれてこの方を保持しているに過ぎない 人間は何も変わら

ない ブレナクスがコミュニケーションに代替してもなお人間は

変らない挨拶を求めあう 人間は変わらない 変わらないことを

自覚するから孤独になる 我々党の愛というのはそうした虚無の

自覚を覆い隠すためのものだ 「戦争は平和なり」というのは戦争

に動機づけられた人間というものが愚かにも戦争に生き甲斐を持ち

それで明日も生きていくことができることを意味した そういう古

のスローガンなのだ


予想外の返答を自室で反芻していた。「党は党員を愛している」ということが何度も芥から拾い上げられ、舞う。ならば私のやっていることには何の意味もなく、しかしひたすらにそれを没頭しなければならない、しかしそれは私の人生において空虚と向き合う時間を減らすためのものである。愛することがこんなにも徹底されているなど。思いもしなかった。バーの連中を馬鹿にして、尻に敷こうとしていた考えがバカらしくなり、手元のグラスを傾けた。油臭さは消えず微睡の中に消えていく記憶。「革命」に焚きつけられていた時を思い出し、それが生きる価値であったことも思い出した。

「人間……、」

と口に出し、それが如何に弱い者であるかを実感した。窓のない部屋に雲の影が映ったように黒く沈む。


それでは続きを始めよう 変化し続けることは人を愛すことだったつまり我々は党員に指示を下し その生きる意味を創造し続けている これは無意味な空虚に人が陥ってしまわぬように設けられた人間性に対する愛なのだ

今度は拘束はなく指示された時間に教示が始まった。それは私自身のことを愛しているからだろう。変わり続けることが人間らしくあることというのを理解し始めた。

「つまり党の中枢は我々を変化の渦中に巻き込み、それで生きる希望を与えている、というのか。」

その通りだ しかし一点気になるだろう 何故生きることに希

望が必要なのかについてだ つまり人間は人間らしく生きてい

なければ意味がないのだ 変化にさらされ続けることで その

渦中にある人間同士の連帯が生まれる それがコミュニケーシ

ョンなのだ だから……

気になって仕方がなかったから聞くことにした。

「愛していることで変化を産み、それが人間関係に影響を与えることは分かった。しかし人間が人間らしく、というのはどうして必然的な目標になるのか、まだ分からない。」

それは難しい問題だな しかし理解は及ぶだろう 人間が人間

らしくというのはそれを願っているからだ 党のすべての人間

は愛されねばならない それがどういった必然性に囚われてい

るか、だがこれも愛によって人間に人生の意味を与えることで 

それが無為であることを覆い隠し それによって盲目に生きる

ことを求めることができる 人間らしさというのは盲目である

ということなのだ

つまり……

「盲目であるのが人間らしいというのはどういうことなのか」聞かざるを得なかった。開眼していない人間を集めることは、それ自体は本当に愛のなすことなのだろうか。それならまだアンジーとの盲目で無意味な義務の方が人間らしく思えた。

盲目であるということは何も人生に昏いということではないむ

しろ盲目であることはそれ自体に対する享受なのだ 開眼して

しまえば良くも悪くも何もかもが見えてしまう 特に暗い部分

に目を当てながら生活するというのはとても苦痛であることだ

ろうそういう種々の暗い人生を直視しないで済むために盲目で

あることが必要なのだ これが我々の理想とする盲目としての

愛なのだ

 なんとなく得心のいく気がして、しかし革命に身を置いた立場としてはやはり実体験ベースの疑念が残った。革命は人間の本来的な欲求として、暗い部分を啓蒙していくような含みがある。革命の成功は革命児にとっては明るい啓蒙なのだ。同時に幸せでもあるはずなのだ。それをインスタントな盲目で覆い隠してしまうのは、不幸を作り出す何者かではないのか。問わずにはいられなかったが先取りして影は答えた。

そうだ 革命にとっては啓蒙というのは自由と幸福の象徴なの

だしかしそれは党の外の話だ 党の中において党のすべてを見

ることはできない どんなに頭の切れる人間でさえーお前はプ

ロールコミュニティーに属したお前だから感じた違和のことは

認めるーしかしそれは最初から最後まで党員である者にとって

は意味のない所謂欠陥のようなものだ お前は生きつつ死にゆ

くホモ・サケルとして生きたのだ このような例は稀有とまで

はいかないがしかし他の党員にはないある種の特異点であった

のかもしれない。その中で見てきたものも真実であり しかし

今この私たちが愛しているというのも真実なのだ だからお前

にはよく理解していてほしい

「それでは私の思う幸せとは……」

幸せとは無知であることだ よく分かっているだろう 見るも

のが増えるから比較対象が生まれる 生まれて来るからそれに

目を向けざるを得ない 何も生まれて来ることが悪なのではな

い 悪に気が付くから だから悪は悪として存在するようにな

る そこには何もなかった ただ純粋な事実の羅列がそこにあ

ったのみである だから憎むべきは「知ってしまう」というこ

となのだ

「しかし党のことも知らなければその人が党の中に包摂されていて、それで愛されていることも知り得ないのではないだろうか。」

そうだ その通りだ だから我々は教育のすべての段階におい

て党の精神を植え付ける 他の思考形式を許さない だから比

較は生まれない それが無知であることの幸せなのだ 何が本

当に起こっているか それに目が向かない場合には比較も困惑

も生じない 愛するということはほかの可能性を摘んでしまう

ことなのだ 分かるだろうか

「愛することは、それがほかの可能性に逃げていくことを排することで根本的な逃走本能をかき消すことなのですか」と聞いていた。党が革命時代に抱いていたほどの憎悪の対象ではないと少しずつ理解できるような気分になってきた。

そうだ 物分かりがいい どうだ そろそろ党のことが分かっ

てきたか こうしたことを続けて革命を忘れ何も知らない党員

となりまたあの平穏な日常に戻っていくことができるだろう 

今日はこのあたりにしよう


硬いベッドの上で身を縮こませひたすら言葉を反芻していた。「人間にとって何かから逃げるということは、不幸なことである。それは幸福の増大を目指しているように見えて実際は比較対象を作り出し、だから目に見えなかった不幸に目が行く。」党は完璧だった。あの影の言っていることも、ただ純粋な圧力ではなかった。受け入れ涵養する土壌であると分かった。


その昔「無知は力なり」という標語があった その謂いは前に

も言ったようなことだ 比較対象がなければ心は動乱すること

がない人生において平静であることが大いに人間を強くするのだ

 「それについてはかなり自分でも考えた。目に見えないものが多いからこそ自信を持って生きていくことができる。だいたいそういった意味なのでしょう。」

 そうだな ではもう少し進めてみようか 実際「戦争は平和なり」

とか「自由は隷従なり」という言葉もあった それについては

知っているかい

「一度どこかで目にしたことがあります。」

そうか あれらの言葉はすべて今言ったような「知らない方が

幸せ」であるような状態について語っている 戦争に動機づけ

られた人間はいやでもナショナリズム的にそこに動員されてい

く それが人生のすべてになる お前が革命を企てた時に抱い

ていた全能感というのは従って戦争を目的にすることによって

得られる一過性の熱のようなものなのだ その時には正しいと

信じていたものは戦争が止むとすべて水泡となって消えていく 

戦争時と休戦時の間にある思想的な断絶がその当人を苦しめる 

お前も苦しい思いをしただろう

「ええ、それはもう大変に。」

人は誰かにその目を握られているとき その時が一番自由なの

である 他に何も見なくてもいいから 自由などないことが不

安や断絶を無くし、本当の人間たらしめる 人間の本性は非自

由の中に自由を感じ取るだけの小さな理性の働きによるのだ 

人間の根源的欲求は支配を望むことなのだ だから私たち中枢

も何かに支配されることを望んでいる しかしそれが叶わぬこ

とである以上 我々は最大の愛を以て党員を支配する それが

すべての党員の明るい生活の為だからだ

「私は大変に愛されていると感じます。」

心の中の蕾は寄生植物の寄生木をすべて破り捨てて、大きな赤い花をつけようとしていた。巨大な愛というものは彼らを生かすには十分すぎるものだった。

しかしお前は矛盾したところがあるようだ ともすればお前は

ブレナクスを恨んでいたな 憎悪、というに相応しいものを以

て接していたはずだ お前の本心はどこあるのか 計り兼ねる 

しかしそれは次第に分かればよい 私にはすべて分かっている

のだからお前がその補助をして言葉を紡ぐだけでよい それだ

けがお前のなすべきことだ さあ正直になるのだ 救済は訪れ

るかもしれないし訪れないかもしれない 私にはすべて分かっ

ているがすべてはお前の思慮一つ次第だ お前の人生はお前の

思慮一つ次第だ しかしすべては決まっている それに対しお

前が何を為すのか それがすべだ

すべて分かっているというのにしかし私の思い為し一つによって、何が変わるというのか。

「何が変わるというのですか?」

受動的なのはお前の悪い癖だ もっとお前の中に沸き起こるも

のがあっただろう そう革命のときを思い出すのだ お前の胸

の中にあった何かをここで披露してほしいだけだ 難しくない

「それでなんになるというんです?」

それなら一つ助言をやろう お前は少し党を憎んでいた 違う

か?

「人並みには。」

しかし今は救済が訪れるかもしれないと信じてもいる

「全くその通りだと思います。」

お前は党の愛と正義、それから憎悪すべき対象についてどちら

にどれだけの信頼を置いているのだね? お前が見てきたもの

はすべてであったはずだ すべてを見てもなお何か引っかかる

ところがあるのならそれは多重思考の内に包摂され、しかし確

固たる虚偽と真実の疑心を以て、その中でお前が育てる価値観

になるのではないか?お前の信じているものというのがどんな

に愚かなのか考えたことはあるか?

「私は、私は……、党を信じています。しかし私の経験は私と共にあり、そして党と共にあったのであり、どちらが欠落してもいけないのです。その実感だけは真実なのですが、何と言いますか、私の希望がプロールの中にあったのも事実です。それはどうしようもない人間の信ずべきものへの核心的な依拠です。私は党員であります。党員でありながら一人の人間としてその前に存在しています。人間が人間であることというのは信ずべきものを信じることにあるように感じます。」

その信ずべきものが私たちと軌を一にしているのではないのか

ね?

「もちろんそれはここまでの私の改心を見れば明らかなように思いますが、しかしどうしても頭からつま先まですべてを飲み込むことはできないように感じるのです。しかしこれは全幅の信頼を置くことでも、疑念を置くことでもないのです。ただ私は迷っています。党の閉塞と、その確固たる愛を天秤にかけ、そのうえでどのように何を吸収すればよいのか大変判断に困っています。」

迷う必要はないのだ すべてを受け入れ、すべてを判断中止の中に

放り出してしまえばいいのだ 愛することも盲目なら、それを受け

入れる愛される者も同時に盲目でなければならない 私たちは

お前のその視野を確実に奪うことになる それが愛することの

暴力であり、しかしその暴力がお前を生かしてくれるはずなの

だ だ?少しは盲目を肯定する気になりはしないか?

「盲目というのはもう私は何も見えなくなるのでしょうかーその、現実に物理的な損傷として私の目がなくなることを意味するのでしょうかー?」

お前が望むならそれがどんな形であれ、盲信をさせることはで

きるお前の手放したくない何かを犠牲にそして崇高にして自由

な未来に拓くことは可能なのだ ただひとつお前がすべてを失

うことを自分で認めることができるかどうか それ次第なのだ

「すべてを失うというのはどういうことでしょう?」

お前が守ってきたセロとギビタニを忘れ、革命を忘れ、一人の

人間であることをやめ、党の内に盲信的に仕事を果たすこと 

それがお前の支払うべき代償なのだ 今までの自分を否定し続

けなお自分のことを洗練された党員であることを自覚し、その

生活の中に甘んじて飛び込むことだ 今ならまだ選ぶことがで

きる つまりこれまでのまま信ずべきものと疑念の対象を天秤

にかけながら、しかし前を向くのか 何も感じない無痛の中に

記憶をすべて溶かしていくのかどちらかを選ばねばならない

「私……、は……、」

体がひどく痩せこけていくような感覚に苛まれる。骨と皮がへばりつき、内臓を潰しながら腹は背につく。

「私はすべてを捨てたくはない。しかし捨てないでいるのもすごく苦痛になる、と思うのです。」

比較の対象があることはそれだけ選択肢を増やし結局悩みに転じる

「ですから、私は……、しかし、過去から逃げていることになりませんか?私が盲目になってしかしそれでも生きながらえるためにすべての記憶を失って、自失の中で呆然と、漫然と生きていくのはひどく寒々しく感じるのです。過去から逃げていてはいつかそのツケがやって来はしませんか?」

お前が望むなら……、 すべての記憶を無くし、非在として生

きてしかし運命としての党員の生活が確信されている人間にな

ることも可能だ 私たちに救えない人間はいない

「それならば」と希望で一杯になる胸。

「それならば、いや、しかし失うことは怖い。怖いのですが、私がもう一度、いやこれを最後に人間として愛を受けるのならそれが最も私に相応しい人生の道のりなのではないかと考えています。」

失う覚悟はできたか

頬を一筋の青が通り抜けていった。ゆっくりと頷くと、影は消え、あたりに靄を残した。


—⑩―


目を覚ます。視界が開ける。毎日同じだ。窓のない部屋にシンクライトが置かれ、それに向かって毎日を繰り返している。彼は記憶穴から出て来る指示書を読み簡単な改定と編集を続けている。「不毛だ」と何気なく思う。なんの希望もない。ただ毎日を文章の作成に充てているだけの、そんな毎日が不毛だった。いつからこんな雑事を始めたのだったか見当がつかない。一週間だったか一か月だったかー記憶ははっきりしていないー前にここで目を覚まして、一言「真理省 編集部 テレキスト宛」以下草々と書かれていた。どうやらここでの業務は編集であるということだけが鮮明に分かったのだが、これをだれが見ていて、いやそれ以前に何の目的で、そしてなんの宿縁でこの雑事を任されたのだか全くの知識が欠落していた。そんな毎日をなんの意味を以て解釈すればいいのだか理解に苦しんだ。

しかし分かったことは色々あった。この仕事がない時は別に何をしちぇいても構わなかった。定期的に来る背の低い人物が配給を置いていってくれる。食うに困ることはなかった。そして部屋を出れば廊下にいくつものドアがあって、何階か登れば風の吹く外に出ることができ、そこには少し居心地のいいバーがあった。持ち合わせで十分すぎるくらいに酔うことのできるそのバーに入り浸っていた。しかし不可解なことにほかの客が何を話しているのだか全然聞き取れなかった。話されている言語が理解できないのに、指示書の文字だけはなぜか読めたし、理解もでき、行動に移すこともできた。そうでなければ雑事は困難だったろうが、人と話すことができないことが苦でさえなければ、全く十分とは言わないまでも不満は少なかったー数少ない不満は専ら食事がまずいことくらいだったー。

酔いが回り店を出る。あたりを見渡しても真っ白な世界が広がっているだけで、何の面白みもないのだが、ただ一つの確信だけが胸の中に広がっていた。

「私は愛されている。」

口に出すことはなかったが、しかし本当に確信していた。私は生きている。それを強く実感している。実り多い人生などは分かったものではない。理解の範疇を超えている。私が空腹になっても、愛されているという実感を胸に抱くだけで、私の心と体は満たされた気になる。実際食事も酒も必要ではない。必要なのは日々の雑事に没頭することだけだった。それが最もよく何事も排斥して愛をそのまま飲み込んでしまう方法であり、私の生きる糧となっていた。愛にはロマンスなど必要としなかった。実際それは「義務」と呼ばれていて、性行為を伴っただけの簡素な子作りであることは最初の指示書にそれとなく書かれていた。もちろん刺激を与えれば興奮する突起だが、それはもう何の意味もなく切り捨てても構わない気がした。記憶の芥が巻き起こって、ある女性を思い出すことがあった。黒い布を顔の前にぶら下げて、いつも義務をせがんでくる。思い出すと突起は躍起になってその本能をぶちまけようとする。それがどこか罪悪感を催させ、一週間に一度開放してやればまた思い出し排出する、というのを何度も繰り返した。別にこれに奔放になっている間は何の快楽もなく愛が離れていくとさえ感じることもあった。いつも「やめにしなくては」と思い罪悪感から逃げるようにその恍惚を忘れようとした。しかしいつまでたってもその女性は記憶の中から出ていかなかった。

何も感じなくなるように雑事に精を出した。しかし一週間に一度の解放は続いた。本当にその女性のことを知っている気にもなったし、記憶に出てくるものに似ているものを見るとまた突起が剣になった。愛されてはいても、誰かをそんな風に沸き起こる感情の中に引き入れた覚えはない。無常観だけが残っていつも終わるのだ。

忘れたい、逃れたいと思いながら雑事に身を浸す日々。

シンクライトにはただ一言


私は愛されているし、愛してもいる


と残されたのみで、あとは筆記されなかった。

どこかで浴びた陽光のような白い反射を全身に浴びて、彼は愛を実感した。心地よく風が吹き抜け心臓を揺らす。彼は雑事に戻った。大いなる愛を胸に


―以上―



「パスティーシュ、パスティーシュ、君は誰?」

「私はリリィ」

「そっか、キレイな名前だね」

「私は貴方が好きよ」

「僕は嫌いになってしまったよ、君の事」

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