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アクアライン


  木更津のアウトレットで家族サービスを良いことに爆買いをした帰り道。ベージュのレンタカーが東京湾の真ん中、真上を通るハイウェイに乗る。


 木更津は美しい。この帰り道は美しい。


 深い藍色の海は彼方の果てまで同じような波模様が続いている。波の立っているところは夕日を受けてほのかに紫色を含み、海の平たんなところは深い蒼色で、それが交互にチラチラとする。近くは明るく見え、しかし遠くに行くほど色が単調になり、果ては山影と大差のない色と表情をする。ベタ塗りで、ジョルジュ・スーラのような点描画のように見えるから、暮れなずみ、暗夜に呑まれるこの海が幻惑光を放ち私の眼を惑わせる。

 逢魔が時の東京湾は暗い色を好む画家である。


海の闇と夕焼けの闇とがぶつかるところはポツポツと星よりもすこしだけ強い光が真珠の首飾りのようにどこまでも連なっている。水平線が地とぶつかるところを表している。

 

 それは町灯り。

 皆一様に船と車の帰りを待っているのか、夜の到来を拒むように強く、強く光っている。


 そしてその街を裾にして、富士山が聳え立っているのだ。

 夕焼けの柔和な温い色の中に断固として存在を主張する末広がりの影。

 これは北斎が描いたようである。


 日本人であるせいか、それとも霊峰富士の神秘か、我々は朝焼けの青い霧の中でも、夕暮れに浮き上がる影だけでも、富士を富士と分かり、いついかなる時も心に染みこむ美しさを感じることができる。それはハイウェイの車窓でも変わらない。海風も気にせずに車窓を開けてカメラを向ける。三月の始めは未だ冬のように寒く、カラッとしていて、潮の不快感はない。


 一切の加工なくとも滂沱の美しさがレンズを埋め尽くす。

 斜陽を背に受けた富士の表情はいかばかりだろうか。

 私たちはそれを想像し、富士に恋し思い悩むのだ。光とはやはり背に受けるべきである。


 ふと気づけば右手側にスカイツリーが色々な光を発しているけれども、富士の間隣ではやはり矮小だ。一つだけ境界を貫くように夕空の藍に刺さっているけれども、まったく強そうではない。夕の富士の上で影を作る黒龍の如き雲に当たれば簡単に倒れてしまいそうだ。さらに近くにはもっと小さい赤い爪楊枝のような東京タワーが立っている。これも無粋である。


 夜の空と海の境目、富士山の裾野の下端に連なったあの光の粒のようにある人々の生活。

 あのようにあるべきだ。ここから見る自然の境目の装飾品だけが人間の居場所であるべきである。煌々とした街中にいると自然というモノが矮小であるように錯覚するが、何のことはない。それはその内側にいるからで、一歩引いてみれば私たちはどこまでも高く広い空とどこまでも広く深い海の須臾の間にいるのみだ。


 おぉ、富士も、海も、美しく仕立てるのはこの大いなる空の背景と縁なき額縁のおかげだろう。


 行きと帰り。朝焼けと夜闇。海と空。

 境界を超えるアクアラインはどの美術館よりも美しいものを讃えている


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