穴(こんとらくと・きりんぐ)
手首に包帯を巻いた、その男はポンプの集金箱にコインを入れて、ガソリンを車に入れた。
ガソリンスタンドは森のなかにあって、流行っておらず二台のポンプの他には、破風のような板造りを前面に貼りつけた店がある。その窓ガラスは埃と雨の伝った跡でぐちゃぐちゃに汚れていた。
ポーチにはひとり老人がひょろながいパイプを吹かしていて、男の顔をじっと見ていた。
「なんですか?」
男がたずねると、老人はパイプを口から離し、
「あんた、大丈夫かい? ひどい顔だぜ」
そう言われて、男はボンネットにミラーで自分の顔を見た。
ひどい顔だ。紙のように蒼白く、目には毛細血管の毒々しい蜘蛛の巣が張り、嫌な汗で前髪が額にぴったりくっついていた。
男は鏡のなかの自分の視線をかわし、ガソリンの注入口を元のフックに引っかけた。
トランクに目が行く。
男の顔が紙のように蒼白いのも、目に毒蜘蛛の巣のごとく毛細血管が散っているのも、嫌な汗を額にかくのも、全てはトランクの中身が原因なのだ。
「ああ、ちくしょう」
そうつぶやくと、男は老人に、
「旅で来たんですが、水が合わないようです」
と、こたえた。老人はうなずき、
「それじゃしょうがない。わしの大叔父のフレデリックは飲みなれない水を飲み続けたせいで風船よりも体が軽くなっちまったことがある。それで、温泉地に行かせて、鉱泉を飲ませたら、また元の、石から水を絞り出せるくらい屈強な男に蘇った。だが、残念なことに店にはミネラルウォーターは売ってない。このあたりの連中で、水に金を出すことを納得できる人間がおらんでな。みな、井戸を持っている」
「何か他に飲み物は?」
「ジンジャーエールがある」
「ください」
ショウガの辛さが分からない。口のなかはからからだった。
パトロール・カーがやってきたときは心臓が止まりそうになり、手から瓶が落ちた。
〈保安官事務所〉とペイントされたドアが開き、保安官が降りてきて、男にちょっと会釈してから、ガソリンスタンドの老人に挨拶した。
「ボブ。景気はどうだい?」
「絶好調よ。今日は二台給油したぜ」
「二台? しめちまえよ、こんな店」
「店がなくなったら、やることが何にもない。ボケちまう。で、保安官。何のようだ?」
保安官はポケットから取り出した紙を老人に渡し、店のどこかに貼ってくれと頼んだ。
「なになに。行方不明。リンダ・プルコット。なかなか別嬪だな。おれがあと三十若けりゃあなあ」
「その女、結婚詐欺師で連続殺人犯だ。カネを吸い尽くし、利用価値がなくなったら、保険をかけて殺す」
「で、逃げてるわけだ」
「ところが連邦政府が押しつけてきた特別捜査官はそう思ってない。殺された男のなかにマフィアのボスの息子がいて、それで消されたんじゃないのかと見てる。あいつら、何でも事件をデカくしやがる悪いビョーキにかかってる。その女は大金と一緒に高飛びして、南の島の白いビーチでパラソルのついたカクテルでも飲んでるに決まってる……なあ、そっちの人、大丈夫か? ひどい顔だ」
男は保安官の口から出た言葉、〈リンダ・プ――〉の冷たい手で心臓を握られた。本当に握られたのだ。彼の妻、トランクの死体の名前はリンダ・プレストンなのだ。
「水が合わないんだ」老人が言った。
「あーあ。そりゃあ。都会から来た人はみんなここの水に難渋する。ビールを水の代わりに飲むのを勧めるね。そういや、あんた、ここには何をしに?」
「それは、――ひとり、キャンプです」
保安官は怪訝そうな顔をした。男はバカなことを言ったと思い、冷たい指がまた彼の心臓を握りつぶそうと血管をなぞるように伸びてきた。
「ひとり、キャンプ。そいつぁ――そいつぁ、いいなあ。おれも一日でいいから、どこかの山奥でひとりテント張って、焚火の面倒見ながら、ウィスキーを一瓶と開けたいと思ってるよ。うるさい女房子どもをほったらかしにしてさ。男にはひとりになる時間が必要なんだ。あんた、結婚してないんだな。その状態をキープしたほうがいいよ。ほんとに」
「はぁ」
「で、ボブ。もう一台の車はどんな感じだった?」
「釣りに行くって言ってたぜ」
「釣りに?」
保安官は難しい顔をして、髭だらけの顎をジョリっとなでた。
「そいつぁ、変だな。パインズ・クリークじゃなくて、こっちに釣りに? そいつ、道を間違えたんじゃないか? でなきゃ、釣りのセンスが絶望的にないか、別の何か、――じいさん、もし、そいつが来たら、電話でおれに知らせてくれんか。なにかクサい」
男が車を出したときも、保安官と老人はその釣り人のことを話し、その疑念はどんどん深くなっていった。
男が妻を殺したのは男がコレクションしていたコミックを全て売り払ったからだった。
子どものころから集め続け、なかには途方もないプレミアのつくものを妻のわたしを大事にするべきだという論法でコミックを売り、マニキュアを塗りながら、いけしゃあしゃあとそのカネでバッグを買ったと言われた。
気づいたら、男の両手は妻の首を締め潰していた。
妻の眼と舌は大きく突き出て、顔は赤紫に変化、おまけに失禁していた。マニキュアを塗った爪は男の手首に食い込んでいた。
男は泣きながら、妻をビニールシートで包み、誰も来ないような場所に埋めるべく、車を走らせていた。
男が夜にたどり着いたのは松の森だった。
まるで空を支えているように太い松の並んだ銛で、下生えがなく、棘のような松の枯れた葉の絨毯を歩くと足が軽く沈んだ。
妻とスコップと電気ランタンをトランクから降ろすと、そこから一心不乱に掘りまくった。
園芸家垂涎のしっとりした黒土がスコップで宙へまき散らされて、穴はどんどん深くなっていった。
穴のなかで汗だくになり、全身土塗れになり、それでももっと深く掘らないといけないと強迫観念に悩まされ、ちくしょう、ちくしょう、と涙を流しながら、
「リンダ、ビートルマン、リンダ、エンフォースマン、リンダ、ハイパーマン、リンダ、リンダ、リンダ――ちくしょう。ああ、神さま」
「あの、すいません」
心臓が握りつぶされる寸前のところまで行った。
「あ、驚かしてすいません。ぼくは害を与えようとか、そういうつもりはないんです。ただ、相乗りができないかと思って」
見上げると、穴の縁にショートヘアの少女、もしくは長髪の少年に見える殺し屋が男を覗き込んでいた。
「あ、縄梯子降ろしますね」
いつの間にか穴が深すぎて、自分では上がれないくらいになっていた。
殺し屋は帽子に毛バリをつけた釣り人姿だった。
「それで、ひとつお願いがあるんです」
「お願い? カネなら、ないんだ。本当に勘弁してくれ」
「そうじゃなくて、その、ひとり埋めるだけなのに深すぎる穴。それにぼくが抱えている死体を一緒に放り込んでもらいたいなって思いまして」
「し、死体?」
怯えた声で男が言うと、殺し屋は涙色のクーペの、開けっ放しのトランクに、シーツとビニールシートでぐるぐる巻きにされた死体を指差した。
「ご紹介します。リンダです」
「はぁ」
殺し屋はリンダを外に引きずり出し、男の是非もきかず、穴に放り込んだ。そして、トランクに戻り、二十キロはありそうな袋を抱え上げ、穴のそばで降ろすと、ナイフで割いて、中身を半分、リンダにかけた。
「次があなたの番です」
殺し屋はまた男の是非もきかず、男の死体を穴に落とした(ただ、他人の妻を夫の目の前で足蹴にするようなことはしなかった)。
そして、先ほどの粉の残りを全部死体にかけた。
「あの、これは?」
「死体が溶けてなくなる不思議な粉です。これで半年もすれば髪の毛と歯以外はみんな溶けてなくなっています」
ウ、ウ。
うめき声がきこえた。
「あの、きみの死体、まだ生きているんじゃ――」
「生きてますよ。そういうオプションがついてますから」
「オプション……」
「じゃあ、埋めましょうか」
土の山を崩して、穴のなかに落とすと、ふたりのリンダの上に厚い土の層が出来上がり、殺し屋のリンダは物凄く呻いていたが、殺し屋は「情に流されてはいけません」と言って、せっせと土をかけた。
最後は表面をスコップで叩き、まわりの松の枯れ葉を集めて、カモフラージュすれば完成。
「助かりました。本当に人って殺すのは簡単だけど、死体を隠すのが難しくてしんどい」
「あ、あ、あの」
「あ、お礼がまだでした」
殺し屋はポケットから小さな紙片を取り出した。
そこには薄い紫のインクでおひとりタダとスタンプが捺してあって、裏には二丁のショットガンが交差している絵があった。
「おひとりまでなら無料で殺します。さらにオプションふたつまで選べます。生き埋めもこのひとつです。苦しまずに一撃で殺す頸骨降りなんてものもあります。じゃあ、誰か殺したくなったときに会いましょう。ターゲットとして再会することのないように」
そう言って殺し屋は背を向けて、スタスタ歩いていく。
「あの、殺し屋さんっ」
ん? と振り向く。
「えーと。このあたりに釣りに来る人はほとんどいないそうです。ここに来る途中のガソリンスタンドに保安官とかが来ていて、あなたを見かけたら、連絡するようにって言っていました」
「なんと。いやあ、参ったなぁ。でも、教えてくれてありがとう。じゃ」
殺し屋は夜に溶けるように、フッと消えた。
殺し屋慣習の落ち葉カモフラージュは完璧で、もう、どこに穴を掘ったのかも分からない。
しばらく、ボウっと立っていた。
あれは夢だったのかな?
頭が鈍くて、そんなことを考えるが、手のなかの無料殺人チケットが現実だと知らせている。
「あはは。あははははは。やった! おれは自由だ!」
胸に手をやると、心臓は温かい血管に包まれて、拍動している。
車に戻ると、夜が明けた。
松のあいだから差す白く色づいた光は心臓を包んでくれる血管を流れる血のごとく、暖かく、男がラジオをつけると、好きな曲が流れてきた。
「ざまーみろ! おれのコレクションを捨てるから、こうなるんだ! おれは自由だ! 自由だ! あははははは!」
中央病院の検死官は先輩医師に「さっぱり分かりません」と言い、手を洗っていた。
「何が分からんのだ?」
「町外れのガソリンスタンドに突っ込んで死んだ男ですよ。死因は頭蓋骨骨折じゃないんです。男は事故を起こしたときには既に死んでいた。死因は急性心不全なんですが――その――」
「もったいぶらずに教えてくれよ」
「心臓にヤケドがあったんです。心臓を握りつぶそうとする手みたいな形の。それにまるで爪の形で炎症を起こしていて」
「へえ」
「で、その男の手首には誰かに強く引っ掻かれた痕がありました。その形が、ひょっとしたらと思って、その、調べてみたんです。そうしたら、一致したんです。心臓の爪の形の炎症が手首の爪の痕に。これってどういうことでしょう?」
先輩医師は冷めたコーヒーを流しに捨て、
「起きたまんまだ。この仕事していると、こういうことはときどきある。あんまり深く考えないことだ。夢に出るからな」
紙コップを握りつぶして、ゴミ箱に捨てた。
先輩医師はもっとうまいコーヒーが飲みたいと言い、病院の向かいにあるカフェに向かった。
カフェのカウンター席に座っていた殺し屋に殺人無料チケットを入れたビニール袋を渡し、
「これが警察に見つかると厄介だろ?」
「はい。ちょっと面倒なことになります」
――代わりにやや厚みのある封筒を受け取った。
「でも、因果なんですね。死体は完全に処理できたのにその直後に事故死だなんて」
先輩医師はうなずいて、コーヒーに少し口をつけた。
「熱い」