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 それから、もはや立原の独壇場だった。


 講師研修を終えて教壇に立つと、まず女子生徒の心をわしづかみにした。彼女たちは休み時間にもオフィスにやってきて、黄色い声を上げながら立原を眺めつづけ、他の講師たちを戸惑わせた。男子生徒はやや冷ややかな態度を取っていたが、立原に笑いかけられると途端に懐柔された。男でも女でも、綺麗なものには目がないらしい。女子はボーイズラブだとより一層はしゃぎたてもした。


 しかし、それよりもすごかったのは、塾の前で夏期講習のチラシを配っていたときだ。前を通りかかる子供がいそうな中年女性をターゲットに配っていたのだが、その翌日から体験入塾させたいという親がどっさりと来た。子供にしてみれば迷惑な話であるが、入りたいというのであればきちんと対応しなければいけないので、万千子は大忙しだった。


 郁はそんな喧騒と離れて、いつも通りの生活をしていたが、塾で立原に会う度にやっと笑われるので、内心むかむかしていた。同じ時間に授業があっても、二人は時間をずらして塾に行っている。もちろん帰るときも同じだ。

最初の頃、堀北から「あれだけかっこいい男なら、いっちゃん先生も好きになるに決まっている」という推測をされて、まるで中学生みたいな囃し立てを受けたが、毎回冷ややかな態度を取っていたことが幸いして、それもなくなった。


「モテモテだよなー、立原先生」


 生徒がみんな帰った後のオフィスで、堀北が立原にそう話しかけると、彼は外行きの愛想笑いを浮かべた。


「いろいろと騒がしくしてすみません」

「大学でもモテモテなの? どうなの、いっちゃん先生」

「モテモテですよ、堀北先生。――それじゃあ、私帰ります」


 机の上の筆箱やら手帳をカバンにしまうと、郁は立ち上がった。勤務表に万千子のハンコをもらうと、それを棚にしまう。


「郁、最近慌ただしく帰るようになったね。どうしたの?」

「まさか、彼氏と同棲し始めて、早く帰りたいーとか?」


 いつもなら軽くあしらうところだが、立原の顔が目に入った瞬間郁は何も言えなくなってしまった。立原が郁の家にいることを誰も知らない。まるで寄生するように彼は住んでいるが、他人の目から見たら同棲そのものだ。


 黙ったままの郁に、万千子も驚いた顔をした。


「嘘。まさか本当に彼氏と住んでるの? それはちょっと、羽澄さんに報告しないと」

「違うって! 同棲なんかしてない!」


 母の名前を出されてますます動揺したとき、落ち着いた声で立原が言った。


「テスト期間だからじゃありませんか? 高坂さんは真面目だから、頑張って勉強しているのかも」


 にっこりと笑った立原に郁は敗北感を感じたが、救われたのも事実だ。


「あ、そうだった、そうだった。立原くんはテストないの?」

「少しだけ。もう三年なので、授業数も少なくって」

「でも先生のお手伝いとかいろいろ大変なんでしょう? すごいわねー、顔も良くって、頭も良くって」

「そんなことないですよ」


 にこやかに交わされる会話を横目に、郁は「それじゃあ」と頭を下げた。


「私はもう帰りますね」

「気を付けてね、郁」

「おつかれさまでした」


 外に出ると郁はため息をついた。今まであまり感じてこなかったが、同棲という事実が重くのしかかってくるようだ。きっと実家の両親たちが知ったら、ものすごく怒られるのだろう。体の関係がないと言っても、若い男女が同じ部屋に住むなんて、と今時のシェアハウスでも軽蔑するような親だ。


「あ、待って、待って」


 自宅のアパートについたとき、そう言いながら立原が追いついてきたので、郁はまたため息をついた。それを見て彼は「もうアパートなんだから別にいいだろ」と言う。


「っていうか、さっき危なかったな。俺がフォローしなきゃ、墓穴掘ってたぞ」

「どうもありがとうございましたー」

「同棲って、はは、確かに同棲だよな」

「……」


 一人で笑う立原を無視して、郁はポストから郵便物を取り出した。入っていたのはすべてチラシで特に重要なものもなく、そのまま手で握りつぶす。


「あっつー、もう夏だな。シャワー浴びたい」

「私が先に浴びますからね」

「ええ、まじかよ」

「当たり前です」

「高坂長いから、待ってる間に汗が引っ込むだろ。俺なら五分で終わるのに」

「私の場合、シャワーが長いんじゃなくて、出た後にいろいろしなきゃならないことがあるので遅くなるんです」

「爆発させんなよ」

「だからするわけないでしょ」


 そんな話をしながらエレベーターの場所へと行ったとき、前から黒い服を着た男がやってくるのが見えた。遠目からではわからなかったが、近づくとそれが郁の隣に住む人だということがわかる。


「こんばんは」


 頭を下げると、向こうも無言で頭を下げた。そのときに、立原の方をじろりと見たから、咄嗟に郁は恥ずかしさを感じてしまった。


「誰?」

「隣に住んでる人。佐々木さん」

「あの、壁叩いてきた人?」

「そうです」


 佐々木は年齢不詳の、どこで働いているのかも不詳の男である。いつも目の下にクマを作って無精ひげをはやし、髪もボサボサ服もダボダボであるから、引きこもりの生活をしているのだと推測している。


「何かやばそうな人だな」

「一年半ずっと隣ですけど、何もありませんでしたよ。全然物音を立てないですしね」


 だからこそ、この前壁を叩かれたことがショックだった。あれからなるべく静かにするようにはしているが、佐々木がどう思っているのかはわからない。


 隣に立つ立原は、佐々木はとは正反対の男だ。顔は精悍で髭も生えていないし、髪もきっちり服はスーツで(塾はスーツで教えている)、外見だけはしっかりとした様子だ。


「何? 俺に見とれてる?」


 ボーっと見ていたことを指摘されて、郁は顔を背けた。


「見てましたけど、見とれてはいません」

「あっそ」

「あ、立原さん。暇ならレポート手伝ってください」

「またかよ。別にいいけど」


 そう言いながら、立原はやってきたエレベーターの扉を手で押さえる。もう何度かされていることだが、まだあまり慣れはしない。


「何してんだよ、早く入れよ」

「……立原さんって、こういうとこありますよね」


 育ちがいいというか、何というか。


「な、なんだよ、レポートのこと怒ったのか? 別に手伝わないとは言ってないだろ」

「そっちじゃなくて……もういいや」

「気になる言い方するなよ。あ、今日鶏肉が食べたい」

「あ、それ私も思ってました! チキン南蛮にしようかなーって」

「それいいな! じゃ、俺作ってる間、レポートの本見とく」

「わー嬉しい」


 二人は笑い合う。そうしてから、郁はがっくりと肩を落とした。


「え、何? また何かしたか?」

「絶対、同棲じゃありませんからね! あなたは寄生ですからね!」

「な、なんだよ。わかってるって」


 絶対わかっていない。怒る郁に首を傾げながら、立原はまたエレベーターの扉を押さえたのだった。

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