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 立原が郁の家に寝泊まりするようになってから、早一週間。


「郁、郁、お腹空いた」

「んー……まだ眠い」

「もう九時だぞ」

「まだ九時……」

「起きないとキスするぞ」


 ガバッと起きた郁に、立原が笑う。


「何か作って。お腹空いた」

「自分でパンくらい焼いてくださいよ。ていうか、さっき私のこと名前で呼びませんでした?」

「あはは、そうだったかな。兄貴んとこと、トースターが違うから使い方がわからないんだ」

「トースターなんてどれも同じでしょ!」


 郁は立ち上がると、洗面所に行って顔を洗った。そして部屋に戻ると、立原が嬉しそうな笑顔で言う。


「オムレツが食べたい」

「却下」

「じゃあフレンチトースト」

「もっと却下」

「えー」

「えー、じゃありません。私はあなたの家政婦ではありません。ほら、あなたは自分のやるべきことをやりましょう。天気がいいので洗濯でもしてください」


 立原はしぶしぶと洗濯機の方へと行く。


「お前のも一緒に洗う?」

「あー、そうですね」


 立原だけの服を洗うには水の無駄だ。しかし郁のものは下着も混じっているから、彼に干させるのは嫌だ。


「干すとき言ってください。自分のは自分で干しますから」

「わかった」


 それから郁は朝ご飯を作り始めた。面倒なので、パンを焼いたものと簡単なサラダとスープのみだ。もちろんオムレツやフレンチトーストは作らない。


 洗濯機のボタンを押した立原は、自主的に部屋の掃除をし始めた。自分の寝ているソファは特に念入りに掃除機をかけているのを見て、結構潔癖なのだろうかと思う。律儀に郁の寝ていたベッドも整えてくれて、それが終わるといつもの綺麗な正座で、朝ご飯が出てくるのを待っていた。


「今日、何か予定があるのか?」


 テレビを見ながら朝ご飯を食べていると、立原がそう言ったので郁はパンをかじるのを止めた。


「昼からバイトです。七時頃まで帰ってきません」

「何のバイト?」

「塾講師」

「時給いいの?」

「うーん、二千円くらいです」


 そう言ってから立原の方を見ると、彼の目がキラキラと輝いていたのでぎょっとした。


「俺もそこで働く」

「ちょっと待って」


 言わなければよかったと激しく後悔しても遅い。立原はカバンからいくつものフリーペーパーを取り出してきて、「これ」と郁に見せた。


「どれも千円前後ばっかりだ。自動販売機のやつは、千二百円でちょっと高かったけど、もう辞めたし」

「辞めさせられた、の間違いでしょ?」

「一時間二千円……一日二時間働けば、高坂に払うお金も交通費も賄える」

「言い忘れてましたけど、私の時給は身内待遇なので、普通の人はもう少し安いですよ」

「どれくらい?」

「さあ、わかりません」


 それで話を終わりにしようと、パンを口に詰め込んだのだが、立原はなおも食い下がる。


「今日、一緒に行ってもいい? 履歴書ならいっぱい持ってるから、いつでも行ける」

「絶対駄目。それに講師は足りてるから、無駄足になりますよ」

「そこを何とか! 高坂と俺のよしみじゃないか! もうクビになりたくない! 君がいたら、クビになることもないだろ?」

「なーにを、もう採用された風に話してるんですか! あなたと働くなんて嫌ですからね! 塾講師がいいなら、諦めて違う塾に行ってください!」

「そんなあ!」


 しかし、幸運の女神様はどうやら立原に微笑んでいるらしい。


「郁! どうしよう!」


 授業が一つ終わって、講師たちが集まるオフィスに行ったとき、伯母の万千子が悲痛そうな声を上げた。他の講師たちもやってきて、「どうしたんですかー」とおっとりした様子で尋ねる。


「月曜日から来るはずだった講師が来られなくなったの。もう夏期講習が始まるのに!」

「この前採用した人ですか?」


 宮尾が言う。


「そう、実家の母が倒れたからって」


 万千子はそう言ってため息をついた。


 この塾は万千子の個人経営で、少数精鋭で子供たちに指導をしている。通常であれば事足りるのだが、七月の後半から夏期講習が始まるので、生徒の人数が多くなりそうなときには、その期間だけ新しく講師を雇うのだ。


「やばい、やばい……今から先生を雇うにしても、面接して、筆記試験して、研修して……夏期講習で初めての授業とかになりかねない」

「七月中はまだいっちゃん先生も大学があるしねえ」

「テストもあるので、何日かは来られない日があるかもしれません」

「そうだった」


 万千子ががっくりと肩を落としたので、郁は非常に申し訳ない思いがしたが、こればかりはどうしようもできない。


 そのとき、堀北が「そうだ」と郁の方を振り向いた。


「いっちゃん先生、大学の友達とか、講師できそうな人いないの? 四年生とか暇でしょ?」

「それだ!」


 万千子も顔を輝かせてこちらを見たが、郁は引きつった顔をする。


「でも、伯母さん、大学生のバイト講師嫌いなんじゃ」

「ええ、嫌いよ。責任感もスキルもないもの。だけど、この際かまってられないわ。郁だって真面目にやってくれてるんだから、きっと大丈夫。誰かいないの、そういう人。賢くって、教えるのが上手くて、生徒からも人気が出そうな人」

「えっと……」


 立原のことを思い出したが、慌てて首を横に振る。これでは彼の思うつぼになってしまう。


「郁、お願い! あなただけが頼りなの! 今からバイトを募集してたら、間に合わないし、郁の紹介だったら結構無理も利くでしょ!」

「ええっと……」


 誰かやれそうな人がいないか、必死で考えた。しかし、すでに他のバイトに就いていたり、地方の実家に帰る予定があったり、はたまた自動車の免許を取りにいったりと忙しい人が多い。結局郁は立原に電話をかけた。


「いいですか、絶対に変なことは言わないでくださいよ」

『一緒に住んでるとか?』

「そうです! あくまでも、あなたは学校でたまたま同じ授業を取って知り合った人ですからね」

『ふーん、わかった』


 電話の向こうの立原は嬉しそうだ。何度もバイトをクビになった男が本当に大丈夫だろうか、と心配しながらも、郁は万千子に立原が今から来ることを告げる。


「それじゃあ、授業に行ってきます」

「ありがとう、郁。今日中に面接と筆記試験を終わらせちゃうから、後で採点してあげて」

「はーい」


 授業があって立原と一緒に居られないのが不安だ。外面だけはいいから、初対面では問題ないだろうが、落ちてほしいという願望もある。


 教室に入ると、はしゃいでいる子供たちに向かって何とか笑みを作った。


「先生やっと来た!」

「ねー、さっき隆太が私のこと蹴った!」

「はいはい、チャイムが鳴るから一旦席に座ってね」


 可愛らしくもやんちゃな彼らにそう言いながら、郁は心の中でため息をついた。




     ○




「何なの、あのイケメン」


 万千子の最初の言葉に、郁はめまいに襲われそうになった。


「俺もさっき見たけど、同じ人間とは思えないな」

「めちゃくちゃ好青年だし」


 堀北と宮尾もそんなことを言うので、ますます郁は頭を抱える。


「今から面接してくるから、郁は筆記試験の答え合わせしておいて」

「いっちゃん先生の大学だから問題はないと思うけどな」


 宮尾が答案用紙をペラペラとめくり、うなずいた。


 確かに、何の問題もなかった。丸しかついていない答案は、更に万千子を感動させて、面接も問題ないからすぐにでも来てほしいとまで言わせた。腹が立つほど順調な滑り出しに、郁は何も言えずただ黙っている。


「ちょっと早い気もするけど、高校生を任せることにした。まだ時間があるっていうから、ミヤ先生の授業を見学してもらうわ」

「高校生って、本気ですか?」


 郁が言うと、万千子は笑顔でうなずいた。


「さっき、国公立レベルの数学の問題を解説してもらったんだけど、完璧だった。丁寧でわかりやすくて、要点だけを話すからすっと入ってくる。とりあえず一週間は様子見だけど、何とかなりそう。郁も小学生相手だからって、うかうかしてられないわよ」

「……」


 面白くない。全然面白くない。しかし、郁は適当に「そうですねー」と調子を合わせる。立原とは授業が同じだけのただの知り合いなのだから、あまり感情を露わにするのはよくない。


 その日、先に家に帰ったのは郁の方で、夕食を作り終わったときにようやく立原も帰ってきた。部屋に漂ういい匂いに、「つかれたー」と満足そうな声を上げながらやってきたので、郁のイライラが更に高まっていく。


「俺、採用だって」


 へらっとした笑顔で言った立原に、郁は「あっそうですか」とそっけなく言った。


「なあ、もっと喜んでくれよ。時給、三千円だって。これからちゃんと教えられれば、もっと増やすって」

「えっ! 何でそんなに高いんですか!」

「へへ、高校生に教えるから」


 心の中で、万千子に差別だと叫ぶ。しかし、郁には高校生を教えるだけの力はないので、不満を口に出すことはできない。


「あ、そうだ、お金がなくて困ってるって言ったら、塾長が今日の分って五千円くれた。だから、はい」


 差し出された五千円札を郁は呆然と見つめる。立原が首を傾げて「いらないのか?」と言ったので、郁は戸惑いながら口を開いた。


「だって、所持金千円もありませんでしたよね?」

「でも、俺あると使っちゃうから。出ていくときにお前にお金をもらえばいいや」

「……」


 どうしてそんなに信じられているのかわからない。もちろん勝手に取るつもりはないが、一応そのお金は封筒に入れて箱の中にしまっておいた。


「もうご飯食べてもいい?」

「どうぞ」


 いただきます、と手を合わせて立原は郁が作ったハンバーグを食べ始めた。いつも通り「おいしい、おいしい」と笑顔で食べてくれるので、この男に女が群がるわけが何となくわかったような気がした。


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