6
「ほら、起きてください」
「んー……いてっ」
郁が無理やりソファから落としてやると、立原は顔を歪ませながらのそのそと起き上がる。
「一体どういう教育を受けてきたんだ。寝ている人間を床に落とすなんて!」
「起きない方が悪いんです。早く顔を洗って、朝ご飯食べてください」
「む……わかった」
今日は簡単なトーストとサラダ、そして市販のヨーグルトのみだ。それを無言で二人は食べ終わると、それぞれ学校に行く準備をし始める。
「立原さん、これ」
「ん? 何?」
「昼ご飯代とバス代。お金、ないんでしょ」
「あ――ありがとう」
しかし、郁は目の前に差し出した千円をひょいと上げて掴ませない。
「先にこれを書いてください。借用書」
「がめついな。……おい、なんで利子つきなんだ」
「当たり前でしょ。明日から加算していきますからね。余った分を返していただければ、そっちにはつけませんから」
「……がめついな」
そう言いつつ、立原は借用書にサインをし、ご丁寧に印鑑まで押した。郁はその紙を鍵のついた棚にしまうと、カバンと鍵を持って玄関に行く。
「いいですか、バス停についたらお互い知らんふりですからね。私に話しかけないでくださいね」
「バスの乗り方がわからない」
「周りにいる人を見ていれば大丈夫でしょ」
「そうなのか?」
立原は不安そうな顔をする。しかし郁は構っていられるか、と部屋を出た。
運よくバスはさほど混んでおらず、バラバラだが郁も立原も座る席を確保できたのだが、どうやら郁は立原の人気を過小評価していたらしかった。
「ねえ、あれ立原サマじゃない?」
「ほんとだ。やっぱかっこいいね。なんでバスなんか乗ってるんだろ」
「超お金持ちって聞いたけどね。でもラッキー。こっそり写メ撮っちゃおうかな」
そんな声がちらほらと聞こえてきて、たまたま乗り合わせた八十過ぎのお婆さんでさえ、立原の方をじろじろと見て「まあハンサムな子だねえ」と呟いている。
立原はというと、じっと斜め下を見て物思いに沈んだ顔をしており、それが何ともアンニュイな雰囲気を醸し出しているから、誰からも声をかけられずにすんでいた。バスが止まるときだけじっと降りて行く人の方を睨むように見つめていたが、生憎彼の座った位置からは料金の支払い方がよく見えないようだった。
「……ふふ」
郁は笑いを必死で堪えながら、バスの中の光景を見守っていた。あの「立原サマ」の境遇を考えると、やっぱり面白くて仕方がない。今も、「何考えてるんだろうねー」と女の子たちの声が聞こえてきたが、あれは絶対にどう料金を払えばいいのかわからず、かなり焦っているのだろう。
いよいよ降りるバス停が間近になったところで、立原が堪え切れないように郁の方を見てきたので、郁はつーんと顔を背けてやった。すると、携帯の方に「この人でなし」とメッセージが届く。いつの間に連絡先を登録したのだ、と憤慨していると、バスが到着したのだった。
「××大学正門~、××大学正門~」
運転手のアナウンスが鳴り、郁は席を立ちあがってバスの前の方に行く。何人かの乗客も降車のため席を立ったが、立原が上手いこと人をかき分けて郁の後ろについたので、郁は呆れてため息をついた。
「……降り方、教えて」
「そこ、両替機に千円入れて」
立原は指示した通りに料金を払い、バスを降りたところで郁に不満を漏らした。
「両替機なんて聞いてない。どうして小銭を最初から渡してくれなかったんだ」
「どうせいつかは両替しなきゃいけない日が来るんですから、別によかったじゃないですか。それじゃ」
「あ――ちょっと」
郁は手をひらひらと振って、早足で歩いていく。立原はもうその後を追ってくることはなかった。
○
「あー、テストだるい」
「レポートの授業取ればよかったのに」
「私レポートだと成績悪くなるんだよねー……」
千佳の気持ちはわかる。講義によっては、簡単な穴埋めのテストのおかげで良い成績をくれるものもあれば、教授の好みを理解できずにレポートの評価ががた落ちするものもある。交換留学を狙っている千佳は、少しでも成績を良くしようと頑張っているので、比較的成績が取りやすいテストがある授業ばかりを取っているのだ。
「げ、またあいつらいる」
千佳の目線の先には、もう馴染みとなったあのリボンのついたカチューシャの女がいた。どうやら立原を待っているらしく、一人分の席だけを開けて楽しそうに会話をしている。
「よく毎日立原サマを取り囲んでいられるよね。そりゃかっこいいけどさ、何となく鼻に着く感じじゃん」
「ふっ――はは」
本当の立原を知ったら、あれがあの「立原サマ」なのかと驚いてしまうだろう。
立原が家に泊まっているということは、まだ千佳には打ち明けていない。もちろんこれからも打ち明けるつもりはない。絶対に反対されるとわかっているからだ。
だから、立原の本当の姿も郁の心の中だけに留めなければならない。それがむずがゆくって残念である。
「あっち行こう。もうトラブルはごめん」
「そうだね」
そう言って、二人がその場を離れようとしたとき、「あっ」とカチューシャの女がこちらを見て声を上げた。
「あんた、この前の!」
「……郁、やばいんじゃないの」
高いヒールのかかとを鳴らして、カチューシャの女がやってくる。そして彼女の連れもぞろぞろとやってきて、後ろで何やら耳打ちをし始めた。
「あんた、学部と学年と名前、言いなさいよ」
「は? 何でそんなこと言わなきゃいけないわけ」
千佳が言う。
「いいから答えなさいよ! 立原サマとどういう関係なのよ!」
「どういう関係でもないんですけど」
「でも前に、何か喋ってたじゃない!」
「さー、何のことかさっぱり。そろそろいいですか? 私たちもご飯食べるんで」
「そうね。じゃ」
そう言って早々に立ち去ろうとしたのだが、ぐいっと腕を引っ張られ、胸元に熱いお茶がかけられた。
「あ――っつ!」
「ちょ、郁、大丈夫!?」
幸い量が少なかったため、すぐにそれは冷えたが、郁の着ていた服は麦茶で濡れ、薄く茶色になっている。
「あはは! ざまあみなさい!」
「あんたらねえ! 人にお茶かけるとか馬鹿じゃないの! っていうか、夏なんだから冷たいの飲みなさいよ!」
千佳が怒鳴り始めると、周りにいた無関係の生徒たちもこちらを見始め、ちょっとした騒ぎになりつつあった。そのとき、「一体どうしたんだ」と現れた者がいる。
後ろを振り返ると、戸惑った顔をした立原が立っていた。彼は郁を見て更に目を泳がせ、「なんでここに……」と消えるような声で呟いた。
「ちょっと! あんたの取り巻きのせいで、郁の服がベタベタなんだけど!」
「え?」
「この女がぶっかけて――」
「お茶を運んでいたときにぶつかっただけです!」
千佳の声を遮って、カチューシャの女が言う。
「はあ? どの口が言ってるわけ? あんたがかけたんじゃない!」
「立原サマ、気にしないでください! さあ、早くご飯を食べましょうよ!」
立原はカチューシャの女と千佳を交互に見て、どちらを信じるべきか迷っているらしい。最後に郁を見て、目線で何かを訴えかけてきたとき、郁はため息をついて千佳の方を振り向いた。
「千佳、もう行こ」
「でも」
「こんな人、相手にする必要ない」
不満そうな顔をしたが、その一言で千佳も小さくうなずいた。そして、背中で甲高い笑い声を聞きながら、食堂を抜けたのだった。
○
「何あれ! 超最悪!」
女子トイレの洗面台で郁は服の汚れを落としながら、千佳の怒りにうなずく。
「これシミになるんじゃないの。もう最悪」
「あんな嫌なやつ初めて見たよね。落ちない?」
「微妙。一旦これくらいで我慢するかな。ああ、でも恥ずかしい。くっきり見えてるでしょ?」
「んー、っていうか、濡れてるから下着が透けてる……」
「うわあ……」
教室までタオルを胸に押し当てて行くしかない。それもそれで恥ずかしい。
「千佳、私次ないし、ここでちょっと乾かしてく。だから授業行ってて」
「ごめんね、また授業が終わったら」
「うん」
千佳が行ってしまうと、郁はため息をついた。パタパタとタオルを振ってみたが、これは時間がかかりそうだ。
そうしていると、携帯に電話がかかってくる。かけてきているのは立原だ。さっきのことだろうと、郁は少し間を空けてから通話ボタンを押した。
『あ、俺』
「はい、なんですか?」
静かなトイレの中とは反対に、立原の後ろからは人のざわめきが聞こえる。
『服、大丈夫だったか?』
「もちろん大丈夫じゃなかったですよ」
『今、どこ?』
「トイレの中」
そのときトイレに人が入ってきたので、郁はカバンを持って化粧台の方へと行く。
『今からそっち行く。どこのトイレ?』
「えっ、来なくていいですよ。むしろ来ないで」
『俺、今日パーカー着てるから』
郁はその言葉の意味がわからなくて、誰も見ていないのに首を傾げた。
『今、二階のエスカレーター横のトイレの近くにいるんだけど』
「あ……今そこにいます」
『じゃあ、ちょっと出て来て』
やっぱり意味がわからない。しかし、立原を女子トイレの前で待たせるのもどうかと思ったので、濡れた部分をタオルで隠しながら外に出た。
「これ」
エスカレーター前では人がたくさん通るので、階段の方に移動してから、立原はすでに脱いでいたパーカーをそう言って郁に差し出した。
「え……いいですよ、どうせすぐに乾くだろうし」
「でも、シミになってる。ちょっとサイズは大きいだろうけど、これなら女が着ててもおかしくはないだろ」
確かに、立原のパーカーは灰色の無難なもので、男女問わず羽織れるものだ。しかし、長袖のTシャツ一枚となった彼は、少し寒そうでもある。
「いいですって、そんな。もしかして、女の子には優しくしろーとかいう教育を受けて育ってきたんですか?」
冗談めかしてそう言ってみると、立原は眉を下げて「それもあるけど」と言った。
「いや、俺のせいでこんなことになったし。悪かったな、迷惑かけて」
「……」
郁は立原から目を逸らし、頬を人差指でかいた。
「別に、立原さんのせいだとは思ってませんよ。これは、あの人が勝手にしたことだし、例え立原さん絡みだったとしても、服が濡れたのは百パーセント、あなたには責任はありませんから」
立原は、戸惑った表情をしてこちらを見つめる。
「もうやだなあ、こんな雰囲気。とりあえず、立原さんには何も怒ってないんで、気にしないでください。……でもまあ、パーカー借りとこっかな」
郁が笑うと、立原もくしゃっと笑みを作って「うん」とうなずいた。
パーカーを着ると、立原の匂いがした。一緒に住んで、同じ洗剤を使っているというのに、しっかりと彼の匂いは残るみたいだ。
「え、何そのパーカー。男物?」
授業が終わった千佳は、郁に会うなりそう言った。
「誰の? サークルの誰かの?」
「あ――ううん、立原サマの」
正直に打ち明けると、彼女はげっとした顔をする。
「なんで? あの立原サマが?」
「なんか、服濡れたの自分のせいだと思って、気にしてくれたみたい。意外に、ね」
「へえ……意外。優しいとこあんじゃん」
無事に立原の株は上昇したようで、郁はホッとして笑った。パーカー一枚で、そんなに大した恩は感じていないが、優しくされた分、悪く言うことはできなかった。