5
翌日、ひどい頭痛によって起きた郁は、冷蔵庫に水を取りに行こうとしてベッドから落ちた。割れるような痛みと吐き気に襲われて、この世のすべてを呪いたくなる。
「気持ち悪い……」
「大丈夫か?」
男の声が聞こえて薄目を開けると、心配そうな顔をした立原が郁を覗き込んでいた。一瞬なぜ彼がここにいるのか考えてから、昨日出ていかなかったことを思い出す。
「水……」
「はい」
素早く手渡されたペットボトルを口につけようとして、横になっているから上手く飲めないことが判明する。すると、立原が郁を支え起こして、「ほら」と水を飲ませてくれた。
「ん……もういい」
「横になってろ。薬は?」
「飲む……」
立原は郁をベッドに乗せると、白い錠剤を持ってきた。それを何とか飲んで、郁は大きなため息をつく。
「痛い……死ぬ……気持ち悪い……」
「薬が効いたら良くなるから、それまで我慢しろ」
優しくそう言われて、思わず郁の目から涙が出そうになった。おまけに頭も撫でられて、故郷の母を思い出す。
「何か食べたい物はあるか? さっきお粥とかプリンとか買ってきたけど」
「……立原さん、学校は?」
「気にしなくていい」
立原は微笑む。なんとなく引っかかるところがあったが、郁は何も言わずに目を閉じた。
次に目が覚めたときには起き上がれるようになり、彼が買ってきてくれたお粥を食べた。そしてまた寝て、夕方にはすっきりとは言わないが、回復して風呂にも入った。
「俺も料理ができたらいいんだけど」
お腹が空いてきたので簡単な料理を作り始めた郁に、立原が申し訳なさそうに言う。
「……まあ、座っててください」
「いい匂いがする」
「……コンソメ入れただけです」
出来上がったポトフを口にした立原は、「おいしい」と満面の笑みを浮かべる。その横で郁はスープをすすりながら、なんでこんなことになっているのだろうと考えていた。
「昨日のことなんですけど」
やっと話を切りだせたのは、食事が終わって皿も洗い終わってからだ。棚の上にあるテレビを見ていた立原は、ぎこちなくこちらを見る。
「途中から記憶がなくなってるんですけど、私、何かしました?」
例えば、立原にこの家に居てもいいと言ったとか。
「覚えてない?」
「かすかに覚えているような気がするんですけど、思い出せません」
立原は黙った。その顔から何を考えているのか読み取ろうとしたが、綺麗な横顔としか思えない。
「キスした」
「え?」
「だから、お前とキスした。昨日」
「……は?」
郁は大きく目を見開く。
「ちょ、ちょっと待ってください。キスしたって、私とあなたが? どうして?」
「そういう流れになって」
「……」
頭に昨日の記憶がだんだんと蘇ってくる。ビールを飲んで酔っ払った郁。立原がベッドに運んで、一緒に倒れこんだ。立原の顔がとても綺麗だと思って、それから――。
真っ青な顔をして頭を抱え込んだ郁に、立原は「思い出した?」と言った。
「あ、あれは酔ってたし――その、酔ってたから」
そう言ったとき、立原がゆっくりとこちらに近づいてきた。郁の手を軽く掴みながら下に下ろし、そして顔を近づけて言う。
「確かに酔ってた。だけど、なかったことにしたくない」
数センチと離れていない近さで、まっすぐに見つめられて、郁は恥ずかしくなって顔を赤らめた。相手は、実家を追い出された、バイトもすぐにクビになるような、高慢で生活能力のない男だと自分に言い聞かせるが、目の前に迫った整った顔立ちに心がぶれる。
「高坂」
耳元で囁かれてびくりとする。絶対にわざとやっているのに、いちいち反応してしまう自分が情けない。立原の右手が郁の頬にあてられて、彼が目を閉じて顔を近づけてきたので、咄嗟に郁は顔を背けた。
「私を――あなたに群がる女の子たちと一緒にしないで」
顔を真っ赤にしながら言うには、まるで説得力のない言葉だったが、立原は郁から離れた。そして、眉を小さく下げながら、「悪い」と言う。
「高坂が嫌っていうなら、もう近づかない。だけど、さっきの言葉に嘘はない」
郁は立原から離れるためにベッドの上に座り、心を落ち着けた。そして大きく深呼吸すると、きっと彼を睨む。
「そんな言い方して、私に取り入ろうとしてるんですね。本心じゃないくせに。行くところがないから、私に媚を売ってるくせに! そんな風に言われるくらいなら、前の方が良かった!」
立原は驚いたように口を開けていた。郁はまたビールが飲みたくなって冷蔵庫の方に行ったが、もちろんあるわけもなく、仕方なく牛乳をコップに入れて一気に飲み干した。
「……ごめん」
そう声が聞こえてきたので、振り返って立原を見た。彼はまさにしょんぼりとした様子で正座をしており、また何かを言おうと思っていた郁も黙ってしまった。
「だって、俺なら誰でも受け入れてくれるって言ったから、お前でも通用すると思った。それに、料理も上手いし、いちいち笑っている必要もないし、この部屋落ち着くし」
「あの、言ってることとやってること、矛盾してますよ」
「え?」
「私に取り入ろうとする限り、あなたはここでも外と同じようにしなきゃいけないってことです。お上品な笑みを浮かべて、丁寧な言葉遣いをして、私の気分を良くしなきゃいけない」
「……あ」
郁は呆れてため息をつく。
「で、でも、前の方が良かったって言ったじゃないか」
「あんな見え透いた嘘、誰だって腹が立ちますよ」
「いや、お前だけだ。俺に言い寄られて嫌な気分になる女なんかいない」
「そう言われるのもむかつく! ちょっと顔がいいからっていい気になって!」
ベッドの上に置いてあるクッションで立原を叩きに行くと、彼は慌てて手でガードした。
「この顔は生まれつきだ! お前もなびいてたくせに!」
「うるさい! 急に近づいてきたからドキドキしただけ!」
「やっぱりドキドキしたんじゃないか!」
そのとき、隣の部屋からドンと大きな音がして、郁たちは固まった。明らかに壁を叩かれた音に、お互いに顔を見合わせる。
「怒られた……」
「ちょっとうるさくしただけなのに、気が短いな」
郁はベッドに腰掛けると、持っていたクッションを膝の上に置いた。すると立原も隣にやってきて腰を下ろす。
「これからのことなんだけど」
「出て行ってください」
「お願いします、ここに住まわせてください」
「住まわせてください? せめて泊まらせてください、でしょ?」
「はい、そうでした」
両手を合わせて懇願する立原に、郁は右手を三の形にして前に突き出した。
「一日三千円」
「え?」
「ここの家賃が五万円で、光熱費とガス、水道を合わせた分。あと食費」
「ちょっと高くないか? 家賃が五万円なら、一日当たり千六百円くらいで、光熱費とかもそんなに――」
「住まわせてもらうのに、文句を言うんですか? ホテルならもっと高いですよ」
「……はい」
郁は立ち上がって棚の中からメモ帳を取り出すと、そこに数字を書きつけた。
「昼ご飯は自分でどうにかしてください。朝夜も外で食べるなら、二百円ずつ引きます。洗濯も自分でやってくださいね」
「洗濯ならやり方知ってる。兄貴のところでもやらされてたから」
「それは良かったです。あと、ここから学校まで行くのに、バス代が片道二百七十円かかりますから、そのつもりで」
「往復五百四十円か。結構かかるな」
「三年生ですから、毎日学校に行っていないですよね?」
「いや、教授の手伝いとかもあるから、週四くらいで通ってる」
「じゃあ、一週間でかかるお金の総額は大体二万五千円くらいですね。私に払う分がそのうちの二万一千円。明日急に払えっていうのもあれですから、ここから出て行ってからの支払いでも結構です。その分利子をつけますけど」
「がめついな」
「何て言いました?」
「何でもありません」
「嫌なら出て行ってもらって構いません。無料で泊まらせて、ご飯も食べさせてくれる人なんて、きっとゴロゴロいますよ」
立原は少し考えるような素振りをした。郁はもしかして出ていくと言うのかと思ったが、彼は一度だけ大きくうなずいて「ここにいる」とはっきりと言った。
「家族以外で素が出せるのって高坂だけだから。高坂となら楽に生きられる」
「……」
黙って見つめていると、立原は「嘘はついてないぞ」と笑ったので、郁は思わずドキリとしてしまった。
「ん?」
「……千円だけおまけしてあげます。二万一千円の一千円だけですからね」
「それって、一週間はいてもいいってこと?」
「利子は出ていってから一日ごとに十パーセントってことで」
「そんな!」
「あと、ここにいる間は、絶対に私に手を出さないこと。今度キスしようとしたら、問答無用で追い出しますから。罰金一万円も取ります。あと、学校では他人ですからね。話しかけないでください」
郁はその他の細かいルールもつけたして、すべて紙に書き上げると、それを壁に貼った。そして、まだ時間は早いがもう寝ようと歯磨きを始める。立原は紙を見つめながら「バイト探さなきゃ……」と呟いていたが、郁が歯磨きをし出したのを見て、一緒に洗面所の前に立った。
「ここ、コップとか置いてもいいか?」
「あんまり生活感出さないでほしいんですけど」
「髭剃りも置いていい?」
「……」
嫌そうに睨んだが、立原は気にせず洗面所の棚にそれらを置く。そして同じように歯磨きをし始めた。二人で立つには狭い洗面所で、おまけに立原は背が高いため余計圧迫感を感じてしまった。その空気に耐え切れず、郁の方から口を開く。
「立原さんって、肌綺麗ですね」
「ん? 別に何もしてないけど、高坂も綺麗だろ」
「これは努力の結晶ですよ」
「確かに、いろんな液体があるな」
棚を見つめて立原が言う。
「こんなにあったら、爆発するんじゃないのか?」
「するわけないでしょ」
「はは」
「全然面白くありませんから」
そう言って、郁は口をゆすいでタオルで拭くと、一足先に部屋へと戻った。明日は学校があるためゆっくりとは寝ていられないから、目覚まし時計をかけた。そうしていると立原も戻ってきて、自然な動作でベッドに座ったので、郁は思わず「ちょっと」と突っ込んでしまった。
「あなたはあっち」
ソファを指さすと、彼は唇を尖らせた。
「固いから嫌だ。何もしないから、ベッドで寝かせてくれ。昨日も実は一緒に寝た」
「嘘! 最低! 変態! 罰金取りますからね!」
「くそう……」
渋々立原はソファに行き、その日は彼が何もしないか心配だったため、電気をつけたまま寝たのだった。