表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/24

 翌日、ひどい頭痛によって起きた郁は、冷蔵庫に水を取りに行こうとしてベッドから落ちた。割れるような痛みと吐き気に襲われて、この世のすべてを呪いたくなる。


「気持ち悪い……」

「大丈夫か?」


 男の声が聞こえて薄目を開けると、心配そうな顔をした立原が郁を覗き込んでいた。一瞬なぜ彼がここにいるのか考えてから、昨日出ていかなかったことを思い出す。


「水……」

「はい」


 素早く手渡されたペットボトルを口につけようとして、横になっているから上手く飲めないことが判明する。すると、立原が郁を支え起こして、「ほら」と水を飲ませてくれた。


「ん……もういい」

「横になってろ。薬は?」

「飲む……」


 立原は郁をベッドに乗せると、白い錠剤を持ってきた。それを何とか飲んで、郁は大きなため息をつく。


「痛い……死ぬ……気持ち悪い……」

「薬が効いたら良くなるから、それまで我慢しろ」


 優しくそう言われて、思わず郁の目から涙が出そうになった。おまけに頭も撫でられて、故郷の母を思い出す。


「何か食べたい物はあるか? さっきお粥とかプリンとか買ってきたけど」

「……立原さん、学校は?」

「気にしなくていい」


 立原は微笑む。なんとなく引っかかるところがあったが、郁は何も言わずに目を閉じた。


 次に目が覚めたときには起き上がれるようになり、彼が買ってきてくれたお粥を食べた。そしてまた寝て、夕方にはすっきりとは言わないが、回復して風呂にも入った。


「俺も料理ができたらいいんだけど」


 お腹が空いてきたので簡単な料理を作り始めた郁に、立原が申し訳なさそうに言う。


「……まあ、座っててください」

「いい匂いがする」

「……コンソメ入れただけです」


 出来上がったポトフを口にした立原は、「おいしい」と満面の笑みを浮かべる。その横で郁はスープをすすりながら、なんでこんなことになっているのだろうと考えていた。


「昨日のことなんですけど」


 やっと話を切りだせたのは、食事が終わって皿も洗い終わってからだ。棚の上にあるテレビを見ていた立原は、ぎこちなくこちらを見る。


「途中から記憶がなくなってるんですけど、私、何かしました?」


 例えば、立原にこの家に居てもいいと言ったとか。


「覚えてない?」

「かすかに覚えているような気がするんですけど、思い出せません」


 立原は黙った。その顔から何を考えているのか読み取ろうとしたが、綺麗な横顔としか思えない。


「キスした」

「え?」

「だから、お前とキスした。昨日」

「……は?」


 郁は大きく目を見開く。


「ちょ、ちょっと待ってください。キスしたって、私とあなたが? どうして?」

「そういう流れになって」

「……」


 頭に昨日の記憶がだんだんと蘇ってくる。ビールを飲んで酔っ払った郁。立原がベッドに運んで、一緒に倒れこんだ。立原の顔がとても綺麗だと思って、それから――。


 真っ青な顔をして頭を抱え込んだ郁に、立原は「思い出した?」と言った。


「あ、あれは酔ってたし――その、酔ってたから」


 そう言ったとき、立原がゆっくりとこちらに近づいてきた。郁の手を軽く掴みながら下に下ろし、そして顔を近づけて言う。


「確かに酔ってた。だけど、なかったことにしたくない」


 数センチと離れていない近さで、まっすぐに見つめられて、郁は恥ずかしくなって顔を赤らめた。相手は、実家を追い出された、バイトもすぐにクビになるような、高慢で生活能力のない男だと自分に言い聞かせるが、目の前に迫った整った顔立ちに心がぶれる。


「高坂」


 耳元で囁かれてびくりとする。絶対にわざとやっているのに、いちいち反応してしまう自分が情けない。立原の右手が郁の頬にあてられて、彼が目を閉じて顔を近づけてきたので、咄嗟に郁は顔を背けた。


「私を――あなたに群がる女の子たちと一緒にしないで」


 顔を真っ赤にしながら言うには、まるで説得力のない言葉だったが、立原は郁から離れた。そして、眉を小さく下げながら、「悪い」と言う。


「高坂が嫌っていうなら、もう近づかない。だけど、さっきの言葉に嘘はない」


 郁は立原から離れるためにベッドの上に座り、心を落ち着けた。そして大きく深呼吸すると、きっと彼を睨む。


「そんな言い方して、私に取り入ろうとしてるんですね。本心じゃないくせに。行くところがないから、私に媚を売ってるくせに! そんな風に言われるくらいなら、前の方が良かった!」


 立原は驚いたように口を開けていた。郁はまたビールが飲みたくなって冷蔵庫の方に行ったが、もちろんあるわけもなく、仕方なく牛乳をコップに入れて一気に飲み干した。


「……ごめん」


 そう声が聞こえてきたので、振り返って立原を見た。彼はまさにしょんぼりとした様子で正座をしており、また何かを言おうと思っていた郁も黙ってしまった。


「だって、俺なら誰でも受け入れてくれるって言ったから、お前でも通用すると思った。それに、料理も上手いし、いちいち笑っている必要もないし、この部屋落ち着くし」

「あの、言ってることとやってること、矛盾してますよ」

「え?」

「私に取り入ろうとする限り、あなたはここでも外と同じようにしなきゃいけないってことです。お上品な笑みを浮かべて、丁寧な言葉遣いをして、私の気分を良くしなきゃいけない」

「……あ」


 郁は呆れてため息をつく。


「で、でも、前の方が良かったって言ったじゃないか」

「あんな見え透いた嘘、誰だって腹が立ちますよ」

「いや、お前だけだ。俺に言い寄られて嫌な気分になる女なんかいない」

「そう言われるのもむかつく! ちょっと顔がいいからっていい気になって!」


 ベッドの上に置いてあるクッションで立原を叩きに行くと、彼は慌てて手でガードした。


「この顔は生まれつきだ! お前もなびいてたくせに!」

「うるさい! 急に近づいてきたからドキドキしただけ!」

「やっぱりドキドキしたんじゃないか!」


 そのとき、隣の部屋からドンと大きな音がして、郁たちは固まった。明らかに壁を叩かれた音に、お互いに顔を見合わせる。


「怒られた……」

「ちょっとうるさくしただけなのに、気が短いな」


 郁はベッドに腰掛けると、持っていたクッションを膝の上に置いた。すると立原も隣にやってきて腰を下ろす。


「これからのことなんだけど」

「出て行ってください」

「お願いします、ここに住まわせてください」

「住まわせてください? せめて泊まらせてください、でしょ?」

「はい、そうでした」


 両手を合わせて懇願する立原に、郁は右手を三の形にして前に突き出した。


「一日三千円」

「え?」

「ここの家賃が五万円で、光熱費とガス、水道を合わせた分。あと食費」

「ちょっと高くないか? 家賃が五万円なら、一日当たり千六百円くらいで、光熱費とかもそんなに――」

「住まわせてもらうのに、文句を言うんですか? ホテルならもっと高いですよ」

「……はい」


 郁は立ち上がって棚の中からメモ帳を取り出すと、そこに数字を書きつけた。


「昼ご飯は自分でどうにかしてください。朝夜も外で食べるなら、二百円ずつ引きます。洗濯も自分でやってくださいね」

「洗濯ならやり方知ってる。兄貴のところでもやらされてたから」

「それは良かったです。あと、ここから学校まで行くのに、バス代が片道二百七十円かかりますから、そのつもりで」

「往復五百四十円か。結構かかるな」

「三年生ですから、毎日学校に行っていないですよね?」

「いや、教授の手伝いとかもあるから、週四くらいで通ってる」

「じゃあ、一週間でかかるお金の総額は大体二万五千円くらいですね。私に払う分がそのうちの二万一千円。明日急に払えっていうのもあれですから、ここから出て行ってからの支払いでも結構です。その分利子をつけますけど」

「がめついな」

「何て言いました?」

「何でもありません」

「嫌なら出て行ってもらって構いません。無料で泊まらせて、ご飯も食べさせてくれる人なんて、きっとゴロゴロいますよ」


 立原は少し考えるような素振りをした。郁はもしかして出ていくと言うのかと思ったが、彼は一度だけ大きくうなずいて「ここにいる」とはっきりと言った。


「家族以外で素が出せるのって高坂だけだから。高坂となら楽に生きられる」

「……」


 黙って見つめていると、立原は「嘘はついてないぞ」と笑ったので、郁は思わずドキリとしてしまった。


「ん?」

「……千円だけおまけしてあげます。二万一千円の一千円だけですからね」

「それって、一週間はいてもいいってこと?」

「利子は出ていってから一日ごとに十パーセントってことで」

「そんな!」

「あと、ここにいる間は、絶対に私に手を出さないこと。今度キスしようとしたら、問答無用で追い出しますから。罰金一万円も取ります。あと、学校では他人ですからね。話しかけないでください」


 郁はその他の細かいルールもつけたして、すべて紙に書き上げると、それを壁に貼った。そして、まだ時間は早いがもう寝ようと歯磨きを始める。立原は紙を見つめながら「バイト探さなきゃ……」と呟いていたが、郁が歯磨きをし出したのを見て、一緒に洗面所の前に立った。


「ここ、コップとか置いてもいいか?」

「あんまり生活感出さないでほしいんですけど」

「髭剃りも置いていい?」

「……」


 嫌そうに睨んだが、立原は気にせず洗面所の棚にそれらを置く。そして同じように歯磨きをし始めた。二人で立つには狭い洗面所で、おまけに立原は背が高いため余計圧迫感を感じてしまった。その空気に耐え切れず、郁の方から口を開く。


「立原さんって、肌綺麗ですね」

「ん? 別に何もしてないけど、高坂も綺麗だろ」

「これは努力の結晶ですよ」

「確かに、いろんな液体があるな」


 棚を見つめて立原が言う。


「こんなにあったら、爆発するんじゃないのか?」

「するわけないでしょ」

「はは」

「全然面白くありませんから」


 そう言って、郁は口をゆすいでタオルで拭くと、一足先に部屋へと戻った。明日は学校があるためゆっくりとは寝ていられないから、目覚まし時計をかけた。そうしていると立原も戻ってきて、自然な動作でベッドに座ったので、郁は思わず「ちょっと」と突っ込んでしまった。


「あなたはあっち」


 ソファを指さすと、彼は唇を尖らせた。


「固いから嫌だ。何もしないから、ベッドで寝かせてくれ。昨日も実は一緒に寝た」

「嘘! 最低! 変態! 罰金取りますからね!」

「くそう……」


 渋々立原はソファに行き、その日は彼が何もしないか心配だったため、電気をつけたまま寝たのだった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ