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「で、どうしてあなたがここにいるんですか」
アパートの玄関の前に立つ立原に、郁は冷たく言い放った。彼は目線を逸らしながら、無言でじっと立っている。その横に、一週間分の服なら余裕で入りそうな、大きなスーツケースがあり、それの上には更に大きなボストンバックが乗せられていた。
「誓約書に書かれた住所を見て来た」
「はあ、それで?」
「この姿を見てわからないか」
「全然わかりません。それじゃ、ご飯作ってるんで」
扉を閉めようとすると、立原が慌てて間に足を入れてきた。
「待て! 先に話を聞け!」
「嫌です! あなたとする話なんてありません!」
「扉を閉めたら、ここで思い切り叫ぶからな! それでもいいのか!」
「じゃあ警察に通報します!」
「俺が悪かった。お願いします、開けてください」
結局扉を開けた郁に、立原はホッとしたように肩を落とす。
「それで、一体何の用ですか」
「この荷物を見てもわからない君に、特別にはっきりと言うことにしよう。つまり、しばらくここに泊めてくれ、ということだ」
「無理です。アホなこと言わないでください」
「どうして? 見たところ、俺一人増えても問題なさそうなスペースをしているじゃないか」
立原が奥を覗き込んだので、郁は両手を挙げてそれを遮った。
「スペースの問題じゃありません。私は女で、あなたは男でしょう。無理です、絶対に無理です」
「俺と寝られるなんて、ものすごく幸運なことじゃないか。他の女が知ったら、発狂して喜ぶレベルだぞ」
「じゃあその他の女のところに行ってください。では」
「ちょっと待って! 閉めるな!」
郁はため息をつく。
「他に友達はいないんですか? 男友達とか」
「……親しくしている男はいない。みんな、俺を敬遠するから」
それは何とも可哀想なことだ。本人に原因があるとしか思えないところが、なおさら可哀想だ。
「じゃあ漫喫にでも行けばいいじゃないですか。っていうか、あなたの家ってお金持ちなんでしょう? ホテルに泊まればいいじゃないですか」
「それは無理だ。金がない」
「は?」
「だからバイトをしていた」
「えっと……じゃあご実家は?」
立原は黙っている。唇をしっかり結んで、答えるつもりはないらしい。またため息をついた郁は、一体どうしたものかと髪をかき上げた。
そのとき、立原のお腹がぐうーっと鳴る。
「……」
「……」
部屋の中からは、もうすぐ完成するロールキャベツの匂いが漂ってきていた。オーブンで焼いていたグラタンの匂いもする。
「昨日の昼から何も食べていない」
「はあ、そうですか」
立原はきっと郁を睨んだ。しかし、また上から目線ではいけないと思ったのか、唇を噛みしめてうつむきながら言った。
「……何か、食べさせてほしい」
郁はまたため息をついた。
○
「グラタン、一つしか作ってないので、半分ずつですからね」
どうして部屋に入れてしまったのだろう、と郁はすでに後悔をし始めながら、立原の前にグラタンの皿を置いた。立原は部屋をきょろきょろと見渡して、物珍しそうに口をぱっくりと開けている。
「聞いてますか?」
「――あ、ああ。いただきます」
立原が自分の部屋にいるなんて、不思議な感じだ。アツアツのグラタンを一口食べて、慌てて口を押えた立原は、涙目になりながら「おいしい」と呟いた。
「……おいしい。お前、料理上手いんだな」
「それはよかったです」
郁も一口食べて、熱さに顔をしかめながら確かにおいしいと我ながら思った。
「それ食べたら、出ていってくださいね」
「……」
立原はかなりショックを受けた顔をした。しかし、郁はつーんと無視をして、ロールキャベツにかぶりつく。
「やっぱり、泊まっちゃ駄目か?」
「駄目に決まってるでしょう。あなたを泊めてくれる人ならたくさんいるんだから、そっちに行ってくださいよ」
「……嫌だ。あいつらは、俺の表面しか見ていない」
ぽつりとそう呟いた立原を郁は見つめた。
「顔がいい、勉強ができる、金持ち……そんなステータスでしか、俺のことを見ていない。もし、これで外見が良くなかったら、誰も寄ってこなくなる」
「でも、今までそれで寄って来た人たちにちやほやされて喜んできたんでしょう?」
「う、うるさい! 嫌々だったんだ!」
「どうだか。私には十分楽しんでいるように見えましたけど。今さら本当の自分を見てくれないって言ったところで、ご立派なステータスを見せびらかして喜んでいたのが、あなた自身の本当の姿でしょうに」
立原の顔が真っ赤になった。怒りにわなわな震えているようで、机をバンと叩いて立ち上がると、「お前、最低だな!」と言って、玄関に向かっていった。
「ここを出て右に行けば、漫喫がありますからねー」
後ろ姿に声をかけると、彼はピタリと止まる。どうしたのかと思って見ていると、立原は振り返ってまた先ほどの位置に戻ってきた。
「……」
思い切り殊勝な顔をして、先ほど自分が怒ったこともチャラにしたいような雰囲気だ。郁はそんな彼を見つめながら、この人は知れば知るほど残念で、お笑い的要素を持っているのではないかと思い始めた。
「……ごめんなさい、ご飯だけ食べさせてください」
「――ぶっ」
思わず吹き出した郁に、立原は目を丸くさせた。郁は笑いを堪え切れず、腹を抱えて身もだえており、挙句の果てには涙まで流し出す始末だ。
「あっはっは! あははは!」
「お、お前、人のこと馬鹿にして、そんなに面白いか……」
「だって――あはは! これがあの『立原サマ』だなんて!」
笑いが止まらない。立原は、さっきのように顔を赤くさせて、怒鳴りだす一歩手前という顔だ。しかし、ご飯を恵んでもらっている手前、怒るに怒れないらしく必死で我慢している。
「あはは……苦しい……」
「……人に笑われたのは初めてだ」
郁は涙をぬぐい、そしてふうっと長い息を吐いた。
「あー面白かった。グラタン、もう冷めちゃったなあ。ほら、さっさと食べてくださいよ。食べ終わったら課題をしなきゃ」
「食べてもいいのか?」
驚いた立原に、郁は「いらないのならあげませんよ」と言う。すると、立原は慌ててスプーンを持って、グラタンを食べ始めた。
ご飯を食べ終えると、部屋の中で向き合いながら郁は立原に尋ねた。
「で、どうしてここに来たのか、教えてもらえますか?」
もう夜も更けてきて、スーパーもそろそろ閉まる時間だ。あと数時間もすれば、街の中心部へ行くバスもなくなるから、早めに決着をつけなくてはいけない。
「……家を追い出されて」
立原は綺麗に正座をして、そう答える。その姿勢から育ちの良さが感じられたが、発せられた言葉はどうもかみ合わない。
「追い出されたって、またどうして」
「いろいろあって」
「勘当でもされたんですか?」
彼は答えなかったが、表情がそうだと語っていたので、郁はため息をついた。
「今日追い出されたんですか? バイトをしていたのは、お金がなかったからですよね?」
「追い出されたのはもう少し前。それからは、バイトをするという条件で兄貴のところに住まわせてもらっていたけど、そこも今日追い出されて」
「どうして追い出されたんですか?」
「三か月も経つのに、まだ一円も稼げてないから、兄貴が怒って」
「……」
これはとんだ箱入り息子か、それとも相当の阿呆か。バイトを五回もクビになったという話は聞いていたが、どれも一日と持たずとして辞めてしまったのだろう。そんな人間が世の中にいたという事実さえも、郁を驚かせる。
「今の所持金は?」
「……九百八十七円」
財布を取り出して中身を見せてきたので、今度こそは郁もため息をつけずがっくりと肩を落とした。
「今すぐ、親に謝りに行くべきですね。もしくは、お兄さんのところへ。心を入れ替えて、謙虚にバイトに励んでください。あなたにとっては、いい社会勉強になると思います」
「そ、そんな! 百歩譲って、兄貴のところへなら行くが、そこまで行くタクシー代がない」
「は?」
「たぶん、ここからだと五千円くらいはかかるかと」
叫び出したくなる気持ちを抑えながら、郁は「バスや電車で行ったらどうですか?」と言う。しかし、立原は首を横に振って、「スーツケースを抱えてなんて無理だ。第一、そんなものに乗ったことがないから、乗り方がわからない」と言ってのけた。
「せめて車があれば、自分で運転していけるが」
「……あなた、馬鹿ですか?」
「え?」
郁はその場に立ち上がって、びしっと立原を指さした。
「いつまでも金持ちだと思ってふんぞり返るな! 所持金千円以下ってことに危機感を持ちなさい! 今時小学生一年生でも電車に乗れるのに、大人のあんたがどうして乗れないの! 挙句の果てにはここにやってきて、一体どれだけ私に迷惑をかけているのか、ちゃんと自覚しなさい!」
「ご、ごめんなさ……」
「謝る暇があったらさっさと出て行け! 親に勘当されたって、大学に行かなくったって、あんたの顔と頭があれば、どこでだって生きていける!」
はあ、と郁は息を吐くと、再び床に腰を下ろした。突然上から怒鳴られた立原は、茫然とした顔をしていた。
「携帯電話、貸してください」
「……なんで?」
「ご自宅に電話をかけます」
「そ、それは駄目だ。家は駄目、絶対に」
「じゃあお兄さんの」
「それも……」
「いいから、早く」
「……」
立原は渋々ポケットから携帯を取り出して、兄の番号の画面を開くと郁に差し出した。
「――あ、立原椿さんのお兄様ですか?」
電話の向こうから聞こえてきた声は、落ち着いた大人のものだ。
「突然のお電話、申し訳ありません。椿さんと同じ大学の高坂と申します」
『もしかして、椿に何か?』
「問題といいますが、先ほど泊めてくれないかと家に来ましたので、弟さんを引き取りにきてもらいたく、お電話を差し上げました」
『では、あなたの家に今椿が?』
「ええ、そうです」
立原は不安そうな顔をしてこちらを見ている。
『それはご迷惑をおかけしてすみません。よろしければ、少し椿と代わってもらえますか?』
「わかりました」
郁は立原に電話を差し出した。弟はこんなに残念だが、兄の方は話がわかるようで、一先ず安心する。電話を受け取った立原は、何度か相槌を打ちながら、兄の話に耳を傾けていた。
しかし、だんだんと声が低くなり、終いには、
「――え、ちょっと待ってよ兄貴。兄貴――あっ」
そう言ったのを最後に、立原は戸惑った顔で電話を耳から離した。
「切れた」
「切れたって、最後何の話をしてたんですか?」
「……女がいるなら、もう俺の家には来るな、そこで泊まらせてもらえって」
「それ、本気で言ってます?」
郁は立原の手から携帯を奪い取ると、兄に折り返し電話をかけた。しかし、いくらかけても相手は出ない。挙句の果てには、途中から「その番号は現在使われていないか、電波の届かないところに……」という無機質な音声が流れ始めた。
「着信拒否されてるかも……」
「えっ」
郁は自分の携帯を取り出して、それで兄に電話をかけてみる。
「あ、もしもし、先ほどの――」
耳元であっさりとガチャリと切れた電話を郁は見つめる。
「この弟にしてこの兄ありとは……」
わなわな震えだした郁を見て、立原はひっと体を縮めた。郁は近くにあったクッションを一度だけ叩いた後、今までで一番長いため息をついたのだった。
「いいですか、何かしたら即行で追い出しますからね」
「なんで俺がソファなんかで……」
「何か言いました?」
「いや、何も」
「いいですか、今日一日だけですよ。明日になったら出ていってもらいますからね」
「でも、そうしたら泊まるところが……」
「その顔で愛嬌でも振り舞いて、誰か適当な人のところに行ってください。顔だけはいいんですから、すぐに泊めてくれる人が見つかりますよ」
立原はふて腐れた顔をしているが、郁に文句を言うことはできない。背の高い彼にとっては小さすぎるソファだが、床で寝るよりかはマシだと判断して、ソファの上で毛布にくるまって座っていた。
郁は時計を確認しながら、パソコンを起動させてWordを開いた。明日提出の課題があるのに、立原のせいで始めるのが遅くなってしまった。
「課題か?」
「そうです。もう遅いので、先に寝てもらってもいいですよ」
「何の課題?」
ソファから降りてきて、立原が郁の隣にやってくる。郁は彼を少しだけ見つめて、課題の内容を伝えた。
「ああ、それなら簡単だ。教科書貸して」
立原は郁から教科書を受け取ると、机の上にあったシャーペンでささっと線を引き始めた。
「今線を引いたところをまとめればいい。あと、ここの用語の説明も書いて、――ちょっと待って」
ボストンバッグの中から本を取り出してきて、彼はそこにも線を引いた。
「あとここ、適当に言葉を変えて。これだけ書けば千文字に足りる」
「……」
郁が黙って立原を見ていると、彼は「何だよ」と唇を尖らせた。
「いや、すっかり忘れていましたけど、立原サマって勉強の頭だけは良かったんだなって思って」
「悪かったな。それに、立原サマって呼ぶのやめろよ」
「どうもありがとうございます、立原閣下、立原お大尽様、お立原大先生様」
そう言うと、郁はパソコンに向き直って、立原が教えてくれた通りにレポートを作成し始めた。
「そこ、順序が逆。こっちから書け」
「はいはい」
「そこにここの一文を入れろ。で、こことつなげる」
「ああ、なるほど。すごく分かりやすい文章になりましたね。やっと意味も理解できましたし」
郁が感心した様子で笑うと、立原は少し照れたように「俺が教えたたんだから当然だろ」と言った。
「お礼にコーヒーでも淹れましょうか? でも、寝る前に飲むのはあんまりよくないですね」
「……別にいい。泊めてもらってるし」
妙にしおらしくなった立原に郁はまた笑う。
「恩を感じてもらえて何よりです。――じゃ、ティーバッグの紅茶でいいなら淹れますよ。私も飲みたいですし」
それから三十分後には、電気を消して二人とも眠りについた。父親以外の異性と同じ部屋で寝るのは初めてだが、案外簡単に寝てしまった。立原も、ソファなんかで寝られないと言っていたわりにはころっと眠ってしまったようで、次の日の朝に郁に叩き起こされるまで一度も起きなかったようだった。