九
「ゆすら」
明日、いよいよ入内。
宮中へ行くという日、日垣は、ゆすらを自分の部屋へ呼んだ。
「はい」
静かに強い瞳に見つめられ、ゆすらはそっと畳に手を突いた。
大好きな兄。
早くに両親を亡くしたゆすらに寂しさを感じさせないほど、日垣は心砕いてゆすらを育ててくれた。
「お世話に、なりました」
万感の思いが込み上げ、声が掠れる。
そんなゆすらを見つめる日垣の目はとても優しい。
「俺からお前に告げるのはひとつだけだ。ゆすら。お前は第一皇子に嫁ぐ。嫁ぐからには、何があっても第一皇子に随いなさい」
静かに染み入る声。
何があっても。
ゆすらを妃とし、日垣の後見をもって春宮となることが決定した彰鷹ではあるが、その立場は未だ盤石とは言えない。
強力な後見を持つ第二皇子。
否、第二皇子を有する内大臣が、このまま指を銜えてみているとは思えない。
「この先、何があっても。例え廃嫡の憂き目を見る日が来たとしても、私は最後まで彰鷹様に随います」
運命を共に。
その覚悟でゆすらは日垣を見つめた。
「いい目だ」
満足そうに頷き、日垣は柔らかな笑みを浮かべる。
「なあに。何かある時は、俺も命運を共にする」
元よりその覚悟で彰鷹の後見となった。
で、あれば。
「何処までも、皇子様と共に行こう。あの方は、お前を必ず幸せにして下さる」
日垣の言葉に、ゆすらは強く頷いた。
「・・・・・行って、しまった・・・」
ゆすらが宮中へ行った後の、西の対の屋の庭。
その今は思い出となってしまった場所に立ち、千尋はゆっくりと辺りを見渡した。
『千尋くんっ、こっちこっち!すっごく大きな蛇が・・・!』
聞こえる、幼い声。
子供の頃、好奇心が先に走って無自覚に危険に近寄るゆすらから目が離せなかった。
『千尋くん、今日すっごく暑いね。お池に入ったら気持ちよさそう』
そんな風にうっとり見つめるのみならず、即実行に移してしまうゆすらの行動力に、千尋はそれ以上の迅速さを培った。
奇異な姫だと、皆が言うのが不思議だった。
ゆすらは何事にも素直で、嘘を吐かない。
真っ直ぐな瞳は千尋に安寧をくれたし、ゆすらが何を言っても何をしても、千尋には可愛く思えるばかりだった。
時に言われる我がままでさえ、鈴を転がすような声を聞いているだけで幸せな気持ちになれた。
そして。
『ね、千尋くん。可笑しく無い?』
裳着を終えたゆすらの姿を見たときの、あの感動に似た衝撃を千尋は生涯忘れる事は無いだろうと思う。
きれい、だった。
物凄くきれいだった。
天女がこの地に舞い降りたのかと思うほど、ゆすらは眩しく美しかった。
「ゆすら・・・」
呟く名。
その名の持ち主は今、宮中に在って。
傍に、居るのだろうか。
「春宮彰鷹親王・・・」
日垣がゆすらの婿に選んだのは、第一皇子彰鷹だった。
千尋は、冷遇の皇子と言われ続けた彰鷹の、その凛とした佇まいを思い出す。
春宮に立ち、凛々しさを増したと評判の彼は、以前には強く濃くあった気鬱の影が緩んだと見える。
「あれは恐らくゆすらと出会ったがため」
呟き思い返すのは、先だって彰鷹より直々に声を掛けられ、問われた言葉。
『その方、ゆすら姫と親しく育ったというのは、本当か?』
諾という言葉と共に頭を下げた千尋を、春宮は責めるでなく、ただ一言言い切った。
『それは、羨ましい話だ』
羨ましい。
千尋から見れば、それは春宮の方が遥かに。
羨ましい?
どうして、過去までもを欲しがるのですか。
貴方はゆすらの未来を手に入れたのに。
ゆすらから、その隠し名を告げられる幸福者なのに。
自分こそがゆすらに隠し名を告げられる存在となりたかった、恥じらいつつ告げるのだろう甘やかなその声を聞きたかった、と改めて思えば暗い淀みに取り込まれるようで、千尋は頭を左右に振って、その思考を霧散させた。
「千尋君じゃないか」
その時、聞き慣れた声に呼ばれ、千尋ははっとして声のした方を見た。
「これは左大臣様。お邪魔しております。お留守に、申し訳ありません」
そこに日垣の姿を見、千尋は一気に心臓が煩くなるのを感じる。
「いや、それは別にかまわないが・・・。何故、ここに・・・?」
ゆすらの去った場所に千尋が居る、その意味。
柔らかな日垣の瞳が一瞬鋭くなり。
そして。
「・・・そうか。そうだったのか・・」
より柔らかになった音が、千尋を包んだ。
「千尋君。君は、ゆすらを想ってくれていたのだな」
言葉に、千尋は息を呑んだ。
密かにゆすらを想う。
誰よりも強く激しく。
それは今更であり、この先も変わらない千尋の不変。
「君は、ゆすらとは幼い頃から仲良くしてくれていたから、婿がねにとも思わずきてしまったが・・そうか。もっと早く言ってくれれば・・・。あ、いや」
気楽な調子で話していた日垣が不意に深刻な様相を呈した。
「言わないでくれて、ありがとう」
その言葉に、千尋は己の判断が正しかった事を実感した。
『言わないでくれて、ありがとう』
その言葉が意味する処。
それは、何があってもゆすらは春宮妃になった、と、そういうこと。
「後宮でゆすらに与えられたのは、麗景殿だった」
そして、日垣よりもたらされる後宮でのゆすらの情報に、千尋は当然と頷いた。
「それはそうでしょう。何よりも大切にするべき存在なのですから」
「まあ。俺もそう思う」
豪放に笑う日垣を、千尋は頼もしく見つめる。
日垣ならばきっと、ゆすらを不遇になどさせはしないだろう。
「まずは先制攻撃というところですか」
麗景殿とは、春宮の住まいである梨壺からも近く、特に大事とされる妃に与えられる場所。
春宮の正妃として迎えられるのだから当然としても、やはり表立って春宮に大切にされていると示す格好の機会であることは間違いない。
「派閥としては、そうなのだがな。春宮様ご本人としては、どうやら本当にゆすらを大切に想ってくれた結果のようでな」
「ああ。そのようですね」
思わず苦い声になってしまうものの、ゆすらと共に育った自分を本気で羨ましいと言った瞳に嘘は無かったと千尋も思う。
「未だこれからだが。春宮様なら、ゆすらを大切にしてくれるだろう」
「それだけでは駄目です。誰より幸福だとゆすらが感じるようにしてくれないと」
そうでないと自分が攫いに行きたくなってしまう、と冗談めかした本気で言った千尋の肩を、日垣はぽんと叩いた。
「まあ。もしもの時は、本気で思い切りやってくれ」
「はい。ゆすらの気持ちを揺らしまくって、春宮を動揺させてやります」
だがその前に、ゆすらが春宮妃として幸福な道を歩めるようにしよう、とふたりは固く誓い合った。
ありがとうございました。