無賃乗車
「ようよう、おたく、田中氏じゃない?」いきなり名を云われてますます戸惑いながらも私は返答をする。
「え?あ、ああ…そうだけど、おたくは…?」
「ハハハ、やっぱりそうか。俺だよ、俺。山倉。覚えてない?」山倉?はて…とばかりなかなか思い出せない。しかしその顔と声には確かに見覚え聞き覚えがあった。
「ほら、川崎のさ、東扇島でUCCの物流をやってたじゃんよ、いっしょに」「ああ!」と俺は急速に彼のことを思い出した。云われるように確かに俺は今から20年ほど前、川崎市東扇島にあった大手の物流倉庫で、一時期フォークの運転手をやっていたのだった。彼もそうだったが業務請負の会社から派遣されてそこに来ていたのである。その後の20年を余りにも生々流転したもので、往時どこでもいつでも四面楚歌のような孤立状態にあった私に対し、殆ど彼のみが親しくしてくれていたのを、恩知らずにも失念していたのだった。なぜ親しくしてくれたのか迄は判らなかったが、とにかく万年孤独の中で彼の存在はありがたかった。
「ああ、山倉さんか。いやー、ちょっと思い出せなかったよ。ハハハ、失敬、失敬」
「いや、いいよ、いいよ、そんなことは。それよりさ、今どこに行くの?仕事の帰り?家はよ。今どこに住んでんの?」片側二車線のうち一車線を完全に塞ぐ形になっていたので彼は他の車群を気にしつつ畳み掛けるように私に聞いて来た。現住所が隅田川沿いの南千住であり今そこに帰るために浅草駅に向かっていることを手短に伝える。
「ああ、そう。南千住。だったら乗りなよ、車に。送っててやるよ」そう云って彼は後部左側の自動ドアを開けた。えーっ?とか云って恐縮する私に「いいから、いいから。早く乗って。無賃タクシーだからさ、大丈夫だよ。ハハハ。とにかく道塞いじゃってるから早く乗ってよ」とばかり有無を云わさない。