第5話 囚われの貴公子様 3
「こんなところに通りがかりの馬車とは、実に珍しいですなあ。いやあ、それにしても風情ある景色だ。やはり王都の街の中ばかりにいてはいかんな。たまにはこうして外に出なければ」
王都の屋敷で対面したときとは違う好々爺の顔で、この国の宰相ガルスは微笑んだ。
お供に付いている老執事が、「まったくその通りで」と相づちを打つ。
エリオスは黙ったまま、ただ窓の外を眺めていた。
車輪が轍を踏む。
結婚式を行う予定の村が、だんだん近付いてくる。
王都の屋敷を出発して三日。
エリオスは滞りなく、式場となるエーテル村の教会を目指し旅を続けた。
そしてその旅も、もうすぐ終点を迎える。
老ガルスは予定通り、青年の結婚式へ参列するため付いてきた。
お忍びで行きたいという無茶を通してだ。そのために今はエリオスの従者という体を装っている。
一国の宰相がそのようなわがままを通すのも珍しいだろう。
王都からいくつかの街を経由し、ここまで三日を要した。
道中は安全なものだったが、それでもここまでの無茶をする臣はこの人物くらいのものだ。ときに自分の立場を忘れているのかと疑うほど、大胆な行動に出る。
もちろん完全な無防備というわけではない。
馬車を走らせる御者三人は彼の護衛。選りすぐられた精鋭の兵士だ。
しかし一国の宰相の警護に足る人数ではない。
彼は間違いなく史跡に名を刻まれる国一の宰相。
本来ならこんなところにいるはずはない。
しかし彼がそうと決めたら、最早そのわがままを止められる人物もいない。
かつては王でさえ素直に聞くしかなかったわがままだ。
宰相ガルス。
彼は辺境の地で形式的に行われる、それも人質に行く貴族の次男の結婚式に出るような半端な地位にはない。
王と並び立って話すことを許された人物なのだ。
王に最も近い大臣。
いや、もしかしたら彼がこの国の次の……。
「ふう。さすがに少し疲れた。私も歳だな。ああいや、こんなことを言っている場合ではないな。本番はこれからなのだから」
エリオスの思考は、ガルスの呑気な伸びと笑い声にかき消された。
老執事が「いやいや、公はまだまだお若い」と相づちを打つ。
青年はもう、窓の外を見続けるしかなかった。
馬車は北へ、着実に進んでいく。途中平民の馬車にすれ違った以外は、特に何の障害もなしに。その馬車も貴族を襲ってくるような過激な庶民は乗せていなかったようで、最も心配された民間人の襲撃はなかった。
わざわざ馬車を質素にしたのに、拍子抜けですなあ、と向かいに座るガルスが笑う。
馬車は外装ばかりか、馬も、馬を操る御者の装飾も取り払い、中に乗り込んだエリオスたち三人の服装も簡素なものに変えた。
婚礼に必要なものは先に村に送ってしまって、荷物も少なめにしてある。
すべては平民の攻撃を避けるために。
今はガルスも、地味な色の上着に黒い山高帽をかぶり、すっかり大臣としての威厳もなりを潜めていた。
何より柔らかな表情が、人の好さを演出している。
それが彼の恐ろしい部分であることも、エリオスはよく理解していたが。
そんなエリオスの考え事など知らぬ気に、ガルスはふっと感慨深そうにため息をついた。
「エリオス様が王都にお生まれになって十八年、苦難は多かったが、ようやくこの日を迎えられようとは」
「本当に。……ああ、王都のご家族もお式に参列することが叶えばどんなに喜ばれたか」
「うむ。エリオス様もお一人ではさぞ心細かろうにのう」
「ええ。式が終わればそのまま発たれてしまうかと思うと、今までお付き合いしてきた私はもう……」
老執事が目を潤ませる。
これから始まる長い旅路に、エリオスの見知った従者は付き添わない。
すべてが向こう側に用意されているのだ。
「父母のことなら気にしていません。新婦……リアとは先に会って挨拶したようですし。二人とも、忙しい方々なので」
「エリオス様……」
まるで独り言のように呟いた若い主に、老執事が悲しげな視線を送る。
エリオスはその視線も目に入れず、そのままぽつりと続けた。
「でも、クラウスは……」
その名を口にした途端、暗い瞳が自分を見つめるのが分かった。それは冷え切った、為政者の目だった。
宰相――ガルスはエリオスの思考を遮るように先ほどよりわずかに、本当にわずかに硬い声でこう言った。
「エリオス様。どうかご自分の運命を強く、懸命に生きられよ。この国の運命は、あなたにかかっているのですから」
皮肉にもその『運命』が発した言葉を、エリオスは顔を上げたまま、ただ黙って受け取った。