第2話 旅立ちの朝
悪夢は跳ね上がった己の鼓動とともに途切れた。
結んだ汗の玉が額を滑り落ちていく。
差し込む朝陽を手の平で遮って、目が覚めたことを確かめた。
目覚めることができた。
涙が滲んだ目元を擦って、冷たく湿った朝の空気を吸い込む。そのまま一つ寝返りをうった。
胸の震えが落ち着いていくのを感じながら、もう一度布団の中で目を閉じる。
悪夢は去ったのだ。いつものように。
庭木の間を飛び回る鳥の声を聞きながら、しばらくまどろむ。
まだいい。起き上がらなくても。
すうすうと、乱れた呼吸を寝息へと変える。
そうしていると、夢の記憶もゆっくりと頭の底の方に沈んでいく。
慣れた感覚だった。
それでも慣れたはずの悪夢に怯えたのは、今日が『その日』だからだろうか。
やっと静寂が訪れて、それが長くは続かないこともよく理解していた。
使用人のノックの音がする。静寂が破られる。
ささやかな猶予の、終わりのときが来たようだった。
そう、終わりのときだ。
悪夢はもう、瞳の奥底まで落ちている。
その瞳をこじ開ければ、いつも通りの光景が青年を待っていた。
まだ覚め切らない体を起こして、誰かが選んだ服を着て、朝食の席へと通される。
静かな一日の始まりだった。
壁際にはずらりと給仕たちが並んで、皆一様に黙り込んだまま、主が食事を終えるまで見張っていた。
一人でとる食事は冷たく、見た目は豪華だが彼にとっては味もしないも同然だった。冷たいまま、のどの奥を通り過ぎていく。
しかしこの冷たい食事も、今日で終わり。
無言の食事を終えて、青年は自室の窓辺へと帰った。
大きく開け放たれた窓から、遠く城下の街が見渡せる。
街の雑踏はここからは見えず、ただ並ぶ家々の屋根が弱い太陽の光を受けていた。
壮大ではあるが、これもまた青年には見慣れた景色だった。
この退屈な眺めも、今日で見納め。
旅立ちの前の部屋を、慌ただしく使用人たちが片付けていく。
一度だけその忙しそうな様子を見やって、青年はまた無感動に窓の外に目を戻した。
不意に窓の外から風が入ったのはそのときだった。
窓際の机の上に重ねてあった紙片が吹き散らされる。
青年が手を伸ばすが、ほとんどは風に乗って部屋の中に飛び散ってしまった。
床の上に広がって落ちたそれらを、青年ではなく部屋にいた小間使いが拾い上げる。
机の上に戻されたのは、五線に音符が細かく刻まれた数枚の楽譜。
そしてもう一枚。
簡素な文字で書かれた一通の手紙が、机に戻される。
その手紙に指で触れながら、青年は一つ、深い深いため息を吐いた。
ドアがノックされ、高齢の執事が彼を呼ぶ。
それは、青年の運命が動き出す声だった。
「エリオス様、そろそろ出発のお支度を――」
そう、長年閉じ込められてきた暗く狭いこの部屋も、今日が最後。
この屋敷を出てしまえば、僕は。
机の上の手紙を白い手に握りしめて、青年は覚悟を決めるように目を閉じた。
――それは出立の二日前のこと。
「……まさかあなたが参列下さるとは、ガルス公」
青年エリオスのにらむ先には、紅い外衣を纏った老臣が控えていた。
一部の隙なく整えられ、後ろで短く束ねられた白髪。年相応に皺を刻みながらも、いまだ精悍なその顔つき。その目に見つめられれば、彼が王政を預かる臣であることを知らずとも、自然と人々の頭は下がるだろう。
臣、といっても彼は最早誰の臣下でもなく、他でもない彼自身以外に己の主はいないのだが。
対するエリオスは、公爵の次男とはいえまだ十八の若輩。領地も持たず、政治的地位もない。どころか今日まで屋敷に閉じ込められるように生きてきた、まさに『深窓』の貴公子だった。
青年の警戒を見て取ったのか、宰相は口元を歪めてかすかに微笑んだ。
「まあ、そう警戒なさるな、エリオス様。これは両国にとって大きな意味のある縁組。長くこの王都に仕えてきた臣として、私には見届ける義務があるのです」
両開きの大きな窓から、冷たい風がレースのカーテンを吹き上げる。
若者と老人は長いテーブルを挟んで、その両端で対峙していた。
「リア嬢もこの日を大変心待ちにしておられた。二人とも全く知らぬ間柄というわけでもない。向こうでも有意義な日々を送られることだろう」
「……リアは僕の負う業には無関係です。どうか彼女には害が及ばぬよう、それだけはお願いいたします」
「業、とは。そこまで覚悟が決まっておいでなら、もう何の心配もいらぬな」
いかにも感心したように、老臣は白い髭を撫でた。
「晴れの日を楽しみにお待ちするとしよう。この国の歴史が動く日ですからな」
そのまま彼は椅子を引き、テーブルを後に立ち上がる。
そばに控えた従者が、早足で寄ってきてすかさず彼に杖を渡した。この国の宰相の証、最も高位の臣にしか許されぬ、黒水玉の錫杖を。
それをまるでありふれた日用品のように、一歩歩くごと軽く床に突きながら、老臣は広間の出口へと向かい始めた。
一連の動作を、青年はただ声もなく黙って見つめていた。その顔に若干の、張り詰めた色をにじませながら。
去っていく背中越しに、老臣は最後に青年に諭すような声音でこう言った。
「そのお覚悟をまことに喜ばしく思いますぞ、エリオス様。ここで普通の生涯を送られれば、あなたの夢が実を結ぶ日もあったかもしれない。あるいはただ長閑に、楽器を奏でて平穏に生きる日もあったかもしれない。……それを捨ててただ国のために尽くして下さること、一臣下としてではなく、私自身として賛辞を送らせていただこう」
エリオスはもう何も言わなかった。
去っていく背が開いたドアをくぐる。
見送る者を振り返りもせずに。
そうして慈悲もなく扉は閉められた。
部屋にはただ、沈黙する青年だけが残された。
さらさらと白いレースの流れる窓辺に、正午も近くの眩しい陽が差す。
しかし青年はそんな太陽の温度さえ感じぬように、ほの白い顔のまま窓際に立った。
そのまま窓の外を見下ろす。
眼下には、屋敷の入り口を見張る兵士の制帽の頭があった。
この屋敷に連れられて十年。それは随分と見飽きた景色だった。
他にも、屋敷には入り口という入り口に兵が配備されている。
侵入者が入り込むことも、『家主』の青年が出ていくこともかなわぬ鉄壁の配備が。
しかし今さら抜け出す気などない。すべては決まったことなのだから。
婚礼は五日後。
エリオスが生まれたのとほぼ同時に決まった政略結婚だった。
この婚礼を機に、エリオスは長年敵国として対峙してきた海の向こうの国へ行くことになっている。
そして一生帰らない。
そう、一生帰らないのだ。
広間の片隅に置かれた、一台の黒塗りのピアノを見つめる。
これからは苦も楽も一人。
すべて一人で片付ければいい。
誰も巻き込まず、必要以上の害も為さず。
その先に待つのが何であれ、もうこの生涯に変質はない。
あの男が用意した一本道だ。
それなら心にひっかかるものは、すべてこの屋敷に置いていこう。
せめて最後のときを、空の心で迎えられるように。
誰が差し伸べる手も、もう救えはしない。
窓の下に、屋敷を出て行く老臣の頭が見える。
振り返らないその背を見送る。
時はあの男の手で流されていく。
この身は彼が紡ぐ歴史の、その砂粒の一つになるのだ。
それだけだ。
途方もなくて、でももうすぐ終わる旅路を前に、青年は強く強くまぶたを閉じた。
……途切れた悪夢の続きが、自らを連れて動き出そうとしていた。