第1話 悪夢
淡い光をたたえた空が曇っていく。
風は冷たく、この金の羽を散らすように吹きすさんだ。
世界は闇の中。取り巻くすべてがこの身に向かってくるようだった。
処断のときは、刻一刻と迫っていた。
『罪人』はただ固く目を閉じ、静かにその瞬間を待っていた。
幾重にも重なり合う甲冑の兵士の波。
標的を取り逃がさぬようぎらぎら光る幾千の目。
その真ん中に連れ出されても、心は平穏のまま。
最早、何者にも乱されることはなかった。
檻の鍵を開けて、兵士は『罪人』を外へ出そうとする。
その胴と首を離すために。
静かなときの終わりが訪れようとしていた。
しかし静寂の帳を開いたのは、断頭台の刃の下りる音ではなかった。
悲鳴のような怒号が響き始めたのは、ずっと向こうから。
恐慌は兵士の間を伝い、すぐに全体に広がった。
……ああ、あの人が来てくれたのだと、その空気の震えだけで分かった。
怒声はさらに大きく、悲鳴はそれよりも大きく上がっていく。
動揺と混乱。
それが甲冑の海の端から広がる。
そしてそれはすぐにここまで届いた。
取り囲む兵士の波が割れていく。
その先に、あの人は立っていた。
ああ、本当に来てしまった。
まだ遠くにあるあの人の顔を見る。
どうしてあの人は、他の人々と一緒に逃げてくれなかったのだろう。
どうしてこんなところまで来てしまったのだろう。
あの人だけには、上手く逃げおおせてほしかったのに。
だが心のどこかで、必ず来てくれるとも思っていた。
巡っては離れ、離れては巡る一つの輪のように、あの人はいつだってこの身を救ってくれた。救い続けてくれたから。
そしてそれは、この運命のときにも変わらず。
がんじがらめに巻付けられた鎖。
目元まで覆いつくすような拘束具。
捕らえられた、鳥かごのような鉄の檻。
その隙間から、必死にその人だけを見ていた。
ゆっくりと、こちらへ近づいてくる眩しい面。
懐かしくて、寂しくて空しくて、喉が割れるくらいあの人に叫びたいのに、一声も絞り出すことができない。
兵士の波を蹴散らし、あの人はこちらへと近づいてくる。
身動きできぬこの身の代わりに、近づいてきてくれる。
どうかそのまま、この手が届くところまで。
だが居並ぶ兵の数は、あの人の限界を超えてしまっていた。
幾千の刃があの人を捉え、振り下ろされる。
傷付いたあの人の体が、だんだん朱へと染まっていく。
くずおれる。何度もこの身を救ってくれた、あなたが。
その隙を逃さず、矢はつがえられた。
危ないと、そう伝える声さえ届かない。
誰かの合図で、連れだって矢束が飛んでいく。
駆け出して、今すぐその場を代わりたかった。
けれど立ち上がることさえかなわない。
全身を貫く針の雨のような一斉掃射を浴びても、あなたは立ち止まることはなかった。ただその目だけがこの瞳を見据え、強い光を注いでくれる。
もういい。もうやめてくれ。
足元の枷ががちがちと鳴る。
その音の方が、今は自分の声より大きい。
滲んだ視界の片隅には見えていた。
軍の精鋭が最後の一矢をつがえ、もうまともに歩けなくなったあなたの額の真ん中を狙っているのが。
それがあなたの運命の一矢だと、分かった。
あなたにも見えていただろうか。
それでも、足を引きずってでもまだ前へ進んだ、あなたの目にも。
涙だけが流れていく。
ああ。
届かない。届かない。
あなたが消えてしまう。
それでも、届かない。
そして。
矢の放たれる轟音。
擦れた自分の叫び。
……何より激しい慟哭が、彼を夢の世界から引きはがしたのだった。