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序章 雪降る貧しき街で

 老女は語る。


「そして最後に、人々は立ち上がった」


 ささやかな暖炉。熾火の爆ぜる音。家主の分しかない椅子。

 それは終の棲家すみかの様相だった。


 質素な家具に囲まれたその部屋で、老女は語る。


「なだれ込む軍隊。武器を構える兵士の群れ。でも街の人は決してあきらめなかった。みんなで力を合わせて、戦火を逃げ延びたの」


 それはある街の過去。

 十数年の時を経て忘れ去られた狭いとおりの物語。

 迫る兵士の波から逃れた小さな人々の記憶。

 老いた声はそれをたどる。


「そのときは街のシンボルの塔に砲弾が撃ち込まれて、それはもうひどい有様だったわ。人々は急いで逃げる準備を始めた。でも、兵士はもうそこまで迫っていてね……」


 窓の外は雪。粉雪がちらちらと通りに舞っていた。

 街は静寂に包まれ、道行く人の靴音まで降ったばかりの雪に染みてかき消された。


 部屋の中に響くのは、ゆったりと流れるような老女の声。それと熾火の音だけ。

 

「武器を持たない街の住人たちは、それでも何とか逃げなければならなかった。人々は協力し合い、弱い者から先に避難させていった。それでも追っ手の足は速くてね」


 彼女はその街ではよく知られた語り部で、過ぎ去った混乱の時代の話を、それを体験した自分の記憶を、面白おかしくときに生々しく角をゆく人々に伝えていた。

 なんでも若い時分はあちこちの国を放浪していたとかで、波乱に満ち満ちた彼女の話は多くの人に好まれていた。


「そんなときみんなを救ったのが、ほら吹き男のジョンのホラ話だった。ジョンは突然兵士たちの前に踊り出て、得意の昔語りを始めたの。遠い戦場で活躍したっていう英雄の話を。それまで誰もが、彼の話はすべて嘘っぱちの作り話だと思っていたわ。だからみんな、ジョンが命を捨てたのだと固唾を呑んだ」

 

 聞き入る誰かが、生唾を飲み込む音がする。


 今日の客人は、学校帰りの少年少女が五人ほど。

 椅子がないので、決して広くはない部屋の床を埋めるように座っている。そして吹き込む隙間風に負けぬよう、身を寄せ合って暖をとっていた。

 しかしこれが彼らの、物語を聞くときのいつもの格好でもあった。 


「でも彼の話は、隣の大陸で活躍した実在の大将軍の話だったの。その大陸の出身だった兵士たちは、彼の話に聞き入った。ジョンはそれから、三日三晩兵士たちと語り合い続けたわ。そしてその間に、街の人々は荷物をまとめて安全な所に避難したの」


 話を聞いていた子どもたちの目が、わくわくと輝いた。


「ほら吹きのジョンが、その大将軍だったの?」

「さあねえ。ジョンは誰かにそのことを聞かれると、いつも笑ってごまかしていた。本当のところは、彼にしか分からないわ。けれど普段は饒舌な彼が、その話だけは濁したということは、もしかしたらね」

 

「絶対にそうだよ」と子どもたちが楽しそうに目を見交わす。

 そんな彼らを微笑ましそうに見やって、老女はほっと息をついた。


「今日の話はこれでおしまい。続きはまた明日にしましょうか」

「うん。ありがとう、ミス・クレイン」


 そして手に手に教科書の入ったカバンを取りながら、子どもたちは立ち上がり始める。これからどうする? 雪遊びに行こうかと話し合いながら。


「あ、そうだ。ミス・クレイン」


 その内の一人。七、八歳くらいの少女が学校カバンの中から何やら小さな木箱を取り出し、老女へと差し出した。


「見て見て、ミス・クレイン。この前、いちでいいものを見つけたの!」

「いいもの? まあ、オルゴールね」


 その言葉に少女はうなずく。旅の行商から手に入れたというそのオルゴールは、貧しい少女の唯一の宝だという。

 ねじが巻けなくなってガラクタ同然に置いてあったものを、値切りに値切ったらしい。


「これは珍しい物ね。この箱の彫りは、西の大陸でしかやっていないわ。旅の人もよく価値を知らなかったのでしょう。良いものを見つけたわね」


 老女が褒めると、少女は鼻の頭にしわを寄せてへへんと笑った。

 彼女はさらに、隠していた宝を早く見せたいという表情で小さなネジを巻き始めた。

 そしてそっと、彫りの入った蓋を持ち上げる。木箱の中で金色の円筒が回り始めていた。


 開いたオルゴールから、緩やかな音楽が流れ出す。

 少女のきらきらとした瞳が、老女を捉えた。


「すごいでしょ。毎晩ねじを回していたら、鳴るようになったの。それでね、あたし、もっとすごいことに気付いたの」


 弾む声音は古い音階板が結ぶその曲に、彼女にしか名付け得ない題名を与えた。


「この歌、エルンスト爺さんが作った歌でしょう? あたし、すぐにわかったよ」


 輝く少女の眼差しに、老女はゆっくりとうなずいた。深く皺を刻んだ口元に、穏やかな笑みを浮かべながら。

 そしてかすかな呟きは、消え入るようでも真に迫って感慨深く。


「そう、その歌……とうとうこの街まで届いたのね」


 老女の乾いた呟きの後、不意にドアを叩く音がした。


 窓を通してその音の主を確認した少年が、玄関のドアを開けてやる。

 そして冷たい風とともに、もう一人の客人が滑り込んできた。


「こんにちはーって、今日はたくさんお客さんがいるのね」


 上着の粉雪を叩き落としながら木戸を閉めたその女性は、慣れた様子で部屋に踏み込むと、抱えたまきの束を暖炉の近くへと置いた。


 子どもたちが「おかえりー」と彼女に声をかける。

 彼女はこの近くに住む工場員で、仕事帰りに何かと老女の世話を焼いている人物だった。ここに物語を聞きに来る者は、彼女にとっても顔なじみなのだ。


 部屋を包む澄んだ音色に、入ってきたばかりの女性は首をかしげた。


「あら、オルゴール? 珍しいわね。この曲はなんだか聞き覚えがあるけれど……」


 考えこむ女性に、子どもたちが曲の注釈を加える。

 その様子を、老女は何も言わず微笑ましそうに眺めていた。


 部屋の空気を暖めるような優しい音は、しばらく鳴り続いた。

 そしてゆっくりと緩やかにオルゴールのネジが巻き戻り、部屋は再び熾火の音だけの静寂に戻った。


 曲を聞き終えて、不意に老女は、手近にあったテーブルの上に手を伸ばす。

 彼女は足が悪く、常に杖を片手に暮らしていた。故に椅子の上から動くことは滅多にない。欲しい物はすべてそのテーブルの上に置かれていた。


 ランプ、古い菓子箱、誰かから届いた手紙。そしてすでに読んでしまった十数冊の本の山。

 老女が手を伸ばしたのはそれだった。

 何百回と読み古された本の中から老女が手に取ったのは、数ある中でも抜きん出て古く、長い間持ち歩いたのか焼けがひどい一冊だった。

 

 ぺらぺらとページをめくって、老女は本の中程を開く。

 読むためにではない。

 そこに挟まれていた、一枚の小さな写真を取り出すためだった。


 かさかさと、セピア色の写真がゆっくりと引き抜かれる。

 随分長い時を経ているのか、その写真も本と同じく全体が焼け、シワに覆われていた。

 なんとか判別できるのは写り込む二人の人物と、一台のピアノ。

 演奏の途中を捉えたものなのか、一人はピアノに向かって座り、――写真からでも分かる、品の良さそうな青年だった――もう一人はその横に立っている。


 それを眺めて、老女は何故か口元に笑みを浮かべた。

 子どもたちが不思議そうに彼女を取り囲む。

 

「ミス・クレイン。何を見てるの?」

「見せて見せて」


 寄ってきた子どもたちに、老女が写真を手渡そうとする。

 そのとき、本の同じ頁から一枚、小さな紙片が床に舞った。


「何だこれ」


 拾い上げた少年が首をかしげる。

 そこには大きく何者かの氏名が書かれ、あとは細かく、何かの許可が云々と長文が続いていた。

 こちらも写真と違わず随分古いもので、もとは白だと思われる紙が今は茶色く変わっていた。


「ああ、それは『労働許可証ろうどうきょかしょう』よ。と言っても、若い人には分からないでしょうね。昔はそれがないと、私たちみたいな人間は街にいられなかったのよ」


 懐かしげな口調で老女が答える。激動の時代を生きたことはそっと瞳の奥にしまって。

 子どもたちと一緒にその『労働許可証』を見ていた女性がはっとしたように顔を上げた。


「これ、エルンスト・シモンって書いてあるけど」

「ええ。この前亡くなった、エルンスト爺さんのものよ」


 となりのとなりの、そのまたとなりの街で音楽家をしていたエルンスト爺さんが亡くなって早一か月。

 彼はときどきここにセロを奏でに来る愉快な爺さんとして知られていた。

 その爺さんの名前が入った労働許可証なるものをつまみ上げながら、女性が呟く。


「それにしても随分ぼろぼろね。今にも破れそう」

「そうでしょうね。それは彼が音楽家として成功する、ずっと前に発行されたものなんだから」


 朗らかに笑ってセロを弾く。昨今はそれだけをわざとしていた爺さんも、昔は街の歌劇場に曲を提供する、少しは名の知れた音楽家だった。


 少し知れているくらいで、生活は庶民のそれと変わらない困窮ぶりだったらしいが。

 それでも彼は、路銀を惜しまず何処へともなく赴いて、つじで人々に演奏を聞かせるのが好きだった。


 その爺さんが死んだときは、遠いこの街の住民も悲しみにくれたものだ。


「それは昔、彼がある国のとある街に住んでいたときに、とても重要な役割を果たした証書なの。本人はもう、そんなものがあったことさえ忘れてたかもしれないけどね」

「じゃあ、その写真に写ってる演奏家はもしかして……。でも、もう一人は?」


 女性が写真の中のもう一人を指す。

 そう。写真のなかには鍵盤に指をかける青年と、もう一人。


 青年と同い年くらいの少女が、ピアノに寄りかかって立っていた。

 あちこち跳ね上がったくせ毛に、痩せた華奢な体。

 格好は貧しい町娘そのもので、とても音楽家に縁がある雰囲気の少女ではなかった。

 しかしそんなことは知らぬげに、写真の中の二人は穏やかに微笑んでいる。


 女性の質問には答えず、老女もまた、しわに囲まれた瞳で写真を見つめて微笑んだ。


「ねえ、聞かせてミス・クレイン。エルンスト爺さんのお話。ミス・クレインは知ってるんでしょう?」


 感慨にふけってしまったような老女に、小さな少女の手がせがむ。

 他の子どもたちもそれに続いた。


「そうだよ。ミス・クレイン、エルンスト爺さんの話は全然してくれないじゃん」

「あら、本人から直接聞けばよかったでしょう?」

「爺さんいっつも音楽のことしか話さなかったじゃん。楽しそうにさ。ミス・クレインと違って歴史の話はしてくれなかった」

「…………」

「あとは口癖みたいに、破天荒なわら色の髪の町娘のお陰で私はここにいるって言うだけ。これじゃ全然わかんないよ」


 少年の言葉に、老女は白い頭をなでた。


「破天荒ね……」

「だから聞かせてよ、ミス・クレイン! その写真の頃のエルンスト爺さんのこと」


 見守る子ども達を前に、老女は年古りた目を伏せる。

 そのまましばらく黙っていた。

 しかしやがて顔を上げると、また穏やかに息をついた。


「……そうね。エルンスト・シモンのことを語れるのはもう私一人だけね」

 

 そして彼女にしか聞き取れぬその呟きのあと、


「分かったわ。今日はもうお開きにしようかと思っていたけど」


 語り部はそのまま子どもたちへと向き直る。皺だらけの手が膝の上で組まれた。


「みんな、まだ時間はある?」


 子どもたちが座り直したのが、肯定の合図だった。

 次の話が始まるのを、期待に満ちたまなざしで待っている。


 それを見ながら静かに微笑んで、老女は椅子の上に座り直した。

 それは彼女が次の話を始める前のくせでもあった。


「当時その地域には、海を挟んで睨み合う二つの国があった。舞台はその二つの国が何度目かの戦争を終えて少し経った頃。貧困と混乱、それが若い日のエルンストが生きた時代」


 どこか遠く、過ぎた昔を見つめるその瞳。記憶を手繰たぐって唇は、その物語の主人公の名を紡いだ。


「――話しましょうか。少し長くなるけれど。彼、『エルンスト・シモン』の話を。そしてその親友のわら色の髪の子の物語を」

「わら色の髪の子? 爺さんの言ってた?」

「ええ。エルンストを語る上で、彼女の存在は絶対に外せないわ。お人好しで、誰でも助けたがりの彼女のことはね」

「なにそれ」

「まあとにかくその当時、その狭い通りには、わらのような髪をした変わり者が住んでいた。住んでいたって言っても、屋根なしの生活を送ってたんだけどね。彼女は相当のおせっかいで、困ってる人を見ると手を貸さずにはいられない性分だった。自分はただの、その日暮らしの浮浪者だったのに。……彼女はある日、街へ仕事を探しに出かけたのだけど――」


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