81 (百人オーディエンスクイズ 4)
「やめろ、各国の王がいる場だぞ、そんな無体が通ると思っているのか」
「はっ、事態を把握できてないのはそちらだ。すでにハイアードは大陸で並ぶことのない強国、妖精の鏡はそれ自体を破棄するためと、ハイアードの覇道の妨げとなる可能性があったために集めていただけのこと。そして承知しているはずだ、その発動に何が必要かを」
ユーヤは背後に意識を向ける。短い苦鳴の声。舞台袖にいる王族たちが、身をこわばらせるのが感じられる。
「その発動の鍵がここにあるではないか。王子たちを失えば、唯一無二の王を生贄に捧げるわけにも行くまい。つまり鏡を封じるだけならば、ここで王子たちを全て殺せばいい、いや、ハイアードキールに持参している鏡も、ごく単純に奪ってしまえばいい話だ」
ちゃり、と鍔鳴りの音がする。
おそらくベニクギが刀を抜き、舞台袖の入り口に立ちはだかったのだろう。舞台袖スペースはさほど広くない、ガナシアとベニクギで前後を固めることは可能。しかしそれでどうなる。ユーヤは思考の行き詰まりを感じて歯噛みする。
「ユーヤ様……」
エイルマイルの呟きが背中に聞こえる。
(――どうする)
(まさかこんな、世界中に中継されている中で仕掛けてくるとは。観客席の側が空いているから、そちらに何か混乱を起こして逃げられないか――)
観客席をちらりと見て、
その黒い瞳が、妙なものを見つける。
「――?」
着飾った老婦人が、手の中で何かを叩いている。
別の場所では、耳のそばで銀色の塊を振っている者がいる。それはユーヤもよく知っている、機械の不調を確認するような動きだ。
(あれは、たしか銀写精)
――何が、もう一度調整。
そして耳に声が届く。スタッフと思しき人間が、何か大声で話している。ユーヤがそちらに意識を絞れば、偶然のことなのか、はっきりとこう聞こえた瞬間があった。
――中継していないだと、何故だ。
――わかりません、こんなこと過去に一度も。
(中継?)
ユーヤのかつての仕事を思い出すような言葉。この場で何かを中継すると言えば何か。それは大陸全土に音声を飛ばすという、世界で最も貴重な妖精の一つ、七彩謡精のことではないか。
天井を振り仰ぐ、かなり高い位置にある天井には、米粒を撒いたように白い輝点がある。あれは何度か目にした、照明の役を果たす妖精のはず。
(あの妖精は健在だ)
(まさか、七彩謡精と銀写精だけが活動をやめている?)
(ジウ王子が何か仕掛けた――?)
がらん
突如、生まれたその不自然な音に、ユーヤが、そしてジウ王子も意識を引きつけられる。
そこには、真珠色の板。
七角形の複雑玄妙な輝きを持つ板が落ちている。この世のものではない輝き、この世界から別の世界を覗き込む窓のような存在。
(これは、妖精の鏡、セレノウの)
最初に思ったのは、舞台袖から誰かが投げたのか、ということ。
だが違う、舞台袖から投擲すればその軌道が目に止まったはず、それに今あったほど小さな音ではないだろう。
この鏡は、今まさに、この場に出現したかのように現れたのだ。
そして、それは起こった。
鏡が一瞬強く輝き、そこから何かが勢いよく飛び出す。目の眩んだ一瞬にそれは形を持ち、肉を持ち、質量と色を備えてジウ王子に殺到する。
それは、枯れ枝のような、何十本もの腕。
「何――!?」
ジウ王子の視界いっぱいに広がって、無数の蛇が襲いかかるように腕が迫る。
「おのれ!」
誰もが驚愕に取りつかれる一瞬、ジウ王子の反応は誰よりも早かった。腰から短剣を抜き放ち、空間に銀閃がひらめく。腕の何本かが切断されてジウ王子は大きく後ろに飛ぶ。この試合の前に刃つきに変えていたことが、意味を持つとはジウ王子すら思っていなかった。
腕の切断面から勢いよく体液が吹き出す。褐色に近い赤い血が。
そう思えた刹那、液体は固化してぎしりと凝集し、複数の細い腕となってさらに勢いを増す。一つの切断面から四本、あるいは五本。彼岸花のように放射状に散開し、一瞬でジウ王子の手首に食らいつき、両手両足、首に大腿部、そして胴部に複数の腕が回る。
「馬鹿な――! こんなことが!」
誰もが、何が起こっているのか分からないという瞬間。
しかしジウ王子だけは。今までの生涯を妖精に翻弄され、妖精を憎み続けてきたこの人物だけが、その無数の腕が何なのかを理解する。
「妖精王よ!! これが貴様のやり方か!!」
もはやその頭部までも腕が回され、あるいは枯れ木のような指で掌握され、その体を鏡に向けて引き摺ろうとしている。ジウ王子は短剣を床に打ち付け、片膝立ちの構えになって耐えんとする。
「お前は人間を見守るだけの存在だったはずだ! この場で介入するならばなぜ完全に支配しなかった!! なぜ王だけに鏡というルールの例外を与えたのだ!! お前は人間との契約において! 人間がいつか妖精を拒むことすら受け入れていたはず! なぜ私を排除しようとする! 私とて人の意志の現れだ!! 貴様に私を拒む権利があるというのか!!」
その腕は太さを増し、力を増している。枯れ枝のような腕は今も次々と鏡から飛び出し、ジウ王子に巻き付いていく。周囲の衛兵たちも何もできずに見守るしかない。
「露呈したな妖精王よ!! お前は超越者でも神でもない!! 人間が御しきれなくなったのだろう!! ここで私を排除しようとも、いずれ――」
そのジウ王子のそばに。すいと歩み出る人物がある。
黒いタキシードと黒い髪。セレノウのユーヤがその側に膝をつく。
「大丈夫だ、ジウ王子」
ジウ王子は床に突き立てた短剣に満身の力を込めていたが、その目がふいにユーヤを見る。
「今はまだ、世界は君の理想には従えなかった。だが」
その枯れた腕の隙間から、そっと手を差し入れ、頬に触れる。
「いつか、妖精が人間にとって害悪になったなら、人間の総意が、妖精を拒むべきであると判断したなら」
「――その時は僕が、妖精の王を殺してやる」
ジウ王子は、注力に震える目でユーヤを見て。
にやりと、口の端だけで無理矢理に笑う。
「その言葉――忘れるな」
そして短剣から手を離す。
瞬間。ジウ王子の体が鏡に向かって吹き飛び、体に絡みついた無数の腕とともに、その小さな鏡に液体のように吸い込まれる。
そして、ユーヤは見た。
ジウ王子が吸い込まれる一瞬、ユーヤの視界に青い炎が映る。
炎の揺らめきが人間の姿をとっている。それは幻想の視界の中で一度ユーヤを見たかと思うと、その体が風に吹き流されるようにすばやく動き、六体の炎が鏡に向かって動く。
そして青い炎もまた鏡に吸い込まれていく。世界の境界線をくぐり抜けて。
それはジウ王子に引き摺られてのことか、あるいは自らの意思で飛び込んでいるのか。
「――あれが、秘されしハイアードの王子たち」
ジウ王子が、枯れ枝の腕が、そしてユーヤだけが目撃した炎の王子たちが、全てが鏡に吸い込まれた後には。
不自然なほどの、沈黙が降りた。
誰も、口がきけない。
いま目撃したものが何なのか、あるいは神や悪魔を見た人間が石にされるという話のように硬直している。
そして、その場に一人の人間がいることが、ゆるゆると認識されていく。
それは赤いドレスの女性。
石の床に膝立ちになり、ぽつねんと周囲を見ている。ユーヤはその顔に見覚えがある。この世界に最初に来た時に見た、その人物によく似た女性。
「――ここは」
「姉さま」
それに歩み寄るのはエイルマイル。舞台袖から真っ先に来ていたのが彼女だった。貴人らしい所作でそっとドレスの裾を畳み、その側に寄り添う。
「エイルマイル、どうして、儀式は失敗したの? いえ、ここは――」
「ああ! 姉さま!!」
その首に、ひっしと抱きつく。そして目から、溢れ出すように涙が流れる。
その行為の意味を、何が起こっているのかを、把握しているものはごく少数であったけれど。
場の王族たちだけが、それをゆっくりと理解する。
終わったのだ、と。
そして、ふいに背後で金属音が鳴る。鎧がこすれ合う音、ユーヤがはっとその音を聞き咎める。
(衛兵たち、そうだ、彼らを止めなければ)
そう思ってユーヤが振り向けば、しかしそこには、立っている兵士はいなかった。
全ての兵が膝をつき、武器を地面に置いて礼の姿勢を取っている。
その中央には、老人。
いや、老境と言えるほどの年齢ではないはずだが、活力のすべてを失い、骨と皮だけに痩せ衰えていた人物。
両脇から小姓に体を支えられ、脚を震わせた老人がいる。その後ろには侍従の男が、布に包まれた物体を銀の盆に乗せている。ユーヤがその名を呼ぶ。
「――グラゾ王」
闘争は終わったと感じた王たちが、舞台袖から歩み出てくる。ベニクギなどはまだ刀を構えていたが、ユーヤは手で合図して納刀を促す。
「済まなかった」
嗄れる声で老人は言い、その場に両の膝をついて頭を垂れる。
「すべての鏡を、返還する」
「どうか、我々を許してくれ……」