69
※
この時代、この大陸。
妖精とクイズに支配されしディンダミア妖精世界。
さまざまに優れた文化を持つ世界ではあるが、ユーヤの国ほど整備されていないものもある。戸籍もその一つだ。そもそもユーヤのいた世界ですら、明確な戸籍のある国はわずか三カ国しかないが。
この大陸における結婚とは役場に届け出た時点で成立するものであり、僅かな手数料と税金を収めるだけで良い。さらに言ってしまえば、国をまたげば重婚も可能である。
「馬鹿な……」
ジウ王子は自分の動揺を出すまいと、奥歯を噛み締めてうめく。
「胡蝶の国、セレノウは古風な考えの残る国です」
エイルマイルは、ユーヤの近くに寄り添うような体勢で言う。
「王とは男が継ぐべきものという考えが根強く、女王というものが国風にそぐわないのです。過去にも王位継承権者に女性しかおらず、外部から婿をとって戴冠を行った例があります。もとより古代からハイアードやパルパシアとの人的交流が深かった。純血の維持という考え方は薄いのですね」
「その程度のことは識っている……」
吐き捨てるようにそう言う。
「だが、そんな紙一枚が何だと言うのだ。ティディルパイル現王はそれを知っているのか。ほんの数日前に異世界から招いた人間を王位に据えるなど、正気の沙汰ではない!」
「姉上は第一王位継承権者でしたが、貴方と逢瀬を重ねていたと聞いています。姉がハイアードに輿入れしたならば、王位継承権の一位は私となる。私とて、そのことをまったく考えていなかったわけではありません。いえ……」
エイルマイルは薄く笑う。それは氷のような白磁のような、感情を付与しない笑みである。
「包み隠さず言うなら、本当は絵空事と思っていた。何も分かっていなかった。王位継承権二位という事実を信じていなかったのです。ですが、今なら分かる。王として、あるいは王妃として一国を双肩に頂くということの重みが。つまるところ、私が婿に招く人物が、私の選ぶ男性こそがセレノウの次代の王になるのだという事実。そのために必要な覚悟が今なら分かる。だから私は選択した。果断なる選択こそが人間の強さと信じているのだから」
「何を言っている……?」
「あなたには邪悪さがある」
エイルマイルの言葉には抑揚がなく、感情の揺れが見えない。だが、だからこそその発言がすなわち断定であり、確固たる真実だと思っている、ということが窺える。
「セレノウのため、あるいはこのディンダミア全体のため、あなたの思い通りに事を進めることは危険と判断します。私の個人的な事情、つまり姉上の無念を私が継いでいないとは言わない。ですが、貴方を止めることは重大な責務とも感じている。だから私は行動できる、そのために無限の力が湧いてくる。ユーヤ様を国許に連れて帰れば、少なからず混乱は起きましょう。しかし、今の私ならば国内の混乱など立ちどころに押さえてみせる。まして父王の説得など、造作も無いことです」
「……」
ジウ王子は、片手を顔に這わせ、指の隙間から二人を盗み見るような形となる。
(――ここまで)
(アイルフィル王女についての怨みだけで、ここまで化けるというのか?)
ジウ王子が何か言葉を探すかに見えた時、その間隙をついてユーヤが発言する。
「セレノウの国風の関係で、婿である僕が第一王位継承権者となる。つまり妖精の鏡が使えるということだ。君が勝ったなら、君の要求通りの人物を呼んでやろう」
「……。では、その見返りに、我々にすべての鏡を賭けろ、と?」
「違う」
一歩、二歩、ジウ王子との距離を詰める。もし互いに剣を佩いていたのなら、一撃の届く間合いにまで。
「君が負けたなら、君にもアイルフィルと同じものを支払ってもらう。可能なはずなんだ、妖精はある程度はこちらの意思を汲んで行動する。妖精は人間たちの営みを見ている。必ずそれに応じるはず」
「……」
ユーヤは後ろ手に、エイルマイルの持っていた鏡をひっつかみ、それをジウ王子の眼前に差し出して叫ぶ。
「君が負けたなら! 君がこの鏡を使って呼び戻せ! アイルフィル第一王女を!!」
それは果たして交渉の技術としての激昂か、あるいは本来的な感情の発露か。
言葉が風となって吹き荒れ、庭園に拡散し、世界の隅々に潜む妖精がふいにその声に振り向くような。
だが。
およそ数秒の沈黙の後、す、とジウ王子の顔から表情が消える。
「――お話はわかりました」
それは、さすがに同席していたガナシアにも分かるほどに、その場を取り繕うだけのポーカーフェイスではあったが、ともかくもジウ王子は感情を表層から遠ざけ、しかし儀礼的な口調はなおざりになりつつ言う。
ちなみに言うならば、ジウ王子の背後にいる書記官も一応、鏡について知っているが、明らかにこの交渉を把握できておらず、目を白黒させるばかりである。もはや、誰もその人物に注意を払っていないが。
ジウ王子はすらすらと言葉を並べる。
「確かに魅力的な申し出です。この世界に革命をもたらすような人材、それは実に興味深い。しかし、やはり万に一つ、万々が一にも敗北のことを畏れずにはいられません」
「逃げるのか」
「逃げる? そうですね、貴方がそう形容される分にはそれは仕方のないこと。しかし私はハイアードの第一王位継承権者。重責はおよそ余人の想像の及ぶべくもない。それを、その人生のうちの10年を、妖精との取引に差し出すことの意味はお分かりでしょう。もっとも、差し出してしまった愚か者も過去にはいるようですが」
「そうか」
そこで、ユーヤはこころもち身を引き、ジウ王子を目を細めて眺める。
(――ここまでは、予想の範囲内)
(推測の通りなら)
(次の一言で、事態が大きく動くはず)
この一連の会話を何と形容するべきか。
捨て鉢の恫喝、狂おしい懇願、冷然たる要求、あるいは精一杯の交渉。
だが、ユーヤにとっては少し違う。
ユーヤは、この交渉が通らない可能性すら考えていた。
その目は、神経はすべてジウ王子の観察に向けられている。
限界ぎりぎりのチップを賭け皿に乗せてまで、ジウ王子という人間を見極めようとしている。
ユーヤの戦略とか戦術というものは、常に観察から始まる。相手を見極めるためならば、腹の肉を一ポンド差し出しても構わぬほどの、全身全霊の観察。それが彼の職能、あるいは宿業であった。
(次の言葉、これだけは、言ってみなければどうなるか分からない)
(僕にできることは、その効果を最大にすることだけ――)
そして、心の中で一線を踏み越える感覚。
すなわち、明確に、ジウ王子の核心部分に踏み込む挑発を行う決意。
空気が限界まで張り詰めるのを意識し、極小のタイミングを見極め、口を開く。
「――ならば仕方ないな。諦めるか」
その緩急は大きければ大きいほど良い。
張り詰めた空気も、高まっていた緊張も、すべてを砕くほどに気配を弛緩させて言う。
「……?」
さしもジウ王子も、突然に手綱を緩める態度に怪訝な目をする。
「どうやら杞憂だったようだ。僕も少し考えすぎていたかな」
「どういう意味です?」
その問いかけは、あるいはこの貴公子の普段の姿ならば出てこない発言だったかも知れない。少しづつ、足の位置をずらされるように、言葉の霊という目に見えない存在が、場の人間を誘導している。
「どういう意味だと? 君は本当に分かっているのか? この大陸には鏡がまだ残っている。パルパシアの鏡は健在だし、どうせ存在ぐらいは知っているだろうから言うが、ヤオガミも鏡を持っている。ハイアードが鏡を揃えるまではあと数年かかる。その数年、この僕という人間を放置しておいて問題ないとでも思っているのか?」
「……」
「来年、再来年、僕はあらゆる手を打って鏡の奪還を図る。クイズ大会で、あるいはそれ以外の方法で、果たして鏡を守り抜けるかな」
「……ふ」
ジウ王子は、口の端に冷笑を貼り付ける。それはあえて砕いた言い方をするなら、なんだその程度か、と多少は安堵の混ざった顔であったに違いない。
「陳腐な恫喝です。大陸の角に過ぎない小国が、実力にて鏡を奪還できると本気で」
「それに」
ひときわ大きな声。ユーヤは、その三音に特大の重さを乗せて言う。瞬間、ジウ王子がコンマ数秒の動揺を見せ、その気配の隙間から、細い細い、柳の葉のような刃がすいと入り込むような感覚。
「ここまでのチップを積んで、君が最も望むはずのものを差し出して、なおかつクイズなどマトモにできるはずもない、異世界人である僕との決闘を忌む。これで、もはや明らかだろう。ここまでやっても決闘を断るなら、つまりは君など」
「――恐れるに足らない」
ユーヤが、
いつのまにか、ジウ王子に肉薄する距離まで近づいている。
その場の全員がユーヤを見ていたはずなのに、ユーヤの言葉が視覚情報に優先されたかのように、ユーヤの言葉を認識している隙をついて、互いの脚が触れるほどの距離に近づいている。
「つまりは」
「君の無敵の強さとやらは絶対ではない」
「僕に負けることを危ぶむ、脆弱なるまがい物の強さ、ということだ……」
瞬間。
ジウ王子の手が雷速で動き、ユーヤの首筋に跳ね上がる。
「! ユーヤ!」
控えていたガナシアが一歩踏み出すより早く。それは完了している。
腰に吊られていた短剣が抜き放たれ、タキシードの襟元に刃の横っ腹が食い込んでいる。もし装飾用の刃引きの剣でなければ首が飛んでいただろう。ジウ王子は、果たしてこの剣が刃引きであることを知っていたのかどうか。
「――いいだろう」
ごく小さく、ユーヤ以外の誰にも届かないような声で言う。ハイアードでも誰も聞いたことのないような、地の底から響くような声。
「あの角のような国はずっと目障りだった。古いだけが取り柄の苔むした枯れ枝、時代の流れと無縁に生きている錆と灰にまみれた国だ。王室から資産のすべてを奪い、王籍を解体し、城も庭園もすべて更地として、ハイアードの一部に組み込んだほうがすっきりすると思っていた」
す、とジウ王子が身を引き、そのまま二人が自然に分かれる形となる。
「――おっと、これは失礼しました。ふいに接近されてしまったもので、つい護身のために身につけた短剣術の技が出てしまいました。無意識のこととは言え、申し訳ありません」
さすがに、たった今のジウ王子の殺気を感じ取れないものは背後の書記官ぐらいであっただろうが、ともかくもジウ王子はすでに平静を取り戻している。
ユーヤは首筋をさすりながら、こちらも冷静にジウ王子の言葉を待つ。
(――やはり、この挑発に乗ってきた)
(それに、ジウ王子は気づいていないのか、あるいはやり過ごそうとしているが、今のやり取りの中で、当然あるはずの質問が一つ、為されていない)
(証明するものが紙切れ一枚だけの結婚。妖精が、妖精王との契約である妖精の鏡が、この結婚を認めるかどうかわからないだろう、という問いが……)
ジウ王子はかるく腕を組み、いかにも何かを考えるような仕草の後に言う。
「そうですね、セレノウはあくまでも決闘に執心のご様子、私も気が変わりました。やはり、決闘は男子の誉れ、それで貴国の気が済むのでしたら、お受けいたしましょう。いや、この場合はこちらから申し込ませて頂くのでしたね。そういう条件でしたか」
言葉は和らいでいるものの、先ほどまでの美青年とは別人のような気配である。彫像のように美しい顔のまま、目に人を射抜くような殺気が宿っている。ぴりぴりとした空気が庭園の立木をざわめかすかに思える。
「それで、どのような勝負をご所望ですか」
「君との対決のため、とっておきのクイズを用意した。その名も」
「――百人クイズ、三本勝負」
更新が遅れ気味で申し訳ありません
なんとか4月中には完結させるつもりで頑張ります




