55(一問多答クイズ 6)
「貴様……どうやってあの部屋から」
「あの通気口は肩の関節を外せば通れる大きさだったネ。といっても部屋からは通気口の先の構造が見えない。私だって知らなかったから命がけだったネ。芋虫みたいに這いずったネ」
ごくん、と肩を入れつつ言う。
「おのれ、邪魔はさせぬ」
ガナシアが腰の後ろから二本のロッドを抜き放つ。それを連結させ、1メーキ半ほどの短い槍に。
「ちょっと待つネ、別に戦いにきたわけじゃ」
言うより早く、回廊の天地をえぐりながら槍が振り下ろされる。睡蝶が身を引く空間を槍の穂先が走り、ガナシアが大きく一歩踏み込んで雷速の突きを放つ。巨大な硬質ゴムの球体が跳ねるように、力が壁や地面に吸われずに跳ね上がってくる。突きが紅柄の表面をなぞるジッという音。脚さばきによって脇に避けた睡蝶が、カンフーシューズのような靴で真下から槍を打ち上げる。
天井に届くような美しい拝脚。槍が回転しながら後方に吹き飛ぶ。
「!」
蹴り上げられる直前。ガナシアが槍から手を離している。指先に満身の力を込めてそのまま睡蝶に掴みかからんとする。掴むと同時に引き裂かんとするような気迫を込めて。
「鋭鋏腿」
振り上げた脚を更に高く伸ばす。天井に達する刹那、天板を蹴って両方の足を一気に縮める。空中を薙ぐ上下からの閃光。空間を鋏で切断するような強烈な蹴り、反射的に身を引くガナシアの眉をかすめ、軽金属でできた槍の穂先を切断する。
「くっ」
「危ないネ。掴まれたら肉をちぎられそうだった――」
ガナシアが、両腕を顔の前で十字に組み、そのまま腰を屈めて前傾の姿勢となっている。そして床を踏み抜く勢いで蹴り足の加速。儀礼鎧に包まれた弾丸となって走る。
「っ!」
睡蝶が液体のように身を沈め、ガナシアの足元に滑り込む。巨大な猛牛が脇を通り過ぎるような圧力。儀礼鎧の飾緒や勲章が壁を削りつつ散らばる。睡蝶の後方で壁にぶつかって轟音を立て、小手で木片を散らしつつ振り向く。
「うーん、体当たり攻撃はまずいネ。こんな狭いところじゃ逃げ場がないし、打撃で止められそうもないし」
ガナシアが廊下の壁面を削りながら突っ込んでくる。脳からアドレナリンが湧き出し、無造作に脚を踏み鳴らして加速を重ね。前方に何があろうと粉砕するという意思を込めて。
「それより時間がないネ、もう順番が一巡する可能性が」
ガナシアが迫る。もはや何も見ていないかのような、小手で前面を覆っての暴走。
「仕方ないネ」
睡蝶は体から力を抜き、腰の高さで軽く腕を開く。
一瞬の後、巨漢の衛士が全速力で行き過ぎ、睡蝶の体を浮かせながら微塵も速度を緩めない。鎧が壁面を削って火花を上げ、靴跡が木造の床を削り取るかに思える踏み込み。数秒で廊下の突き当りまで到達して、しなやかな睡蝶の肢体を砕くかに思え。
睡蝶がガナシアの頭部に張り付き、すうと息を吸ってから叫ぶ。
「わーたーしーは!」
「ユーヤに!! 頼まれたネ!!」
どし、と睡蝶の背中が壁に当たる。
ガナシアが歩みを止めたのは、睡蝶の体が弾け散る一歩前のことだった。
※
「あらあ、ユーヤ選手、またも長考のようですねえ、大丈夫でしょうかあ?」
司会者が言う。現在、ポイントではユーヤとゼンオウが2点、エイルマイルと睡蝶が5点という状況である。
ズシオウが貴賓席にて呟く。
「ユーヤさん、やはり知らなかったのでしょうか」
「これはまずいのう、残りポイントがあと2点じゃ。この巡目でパスをしたとしても、必ず次が巡ってくる。どうしても一つは取らねば負けじゃぞ」
ユーヤの背後で扉が閉まり始めている。そしてユーヤは口をぴたりと閉じ、パネルをじっと見つめている。その文字の一つ一つ、文字を構成する曲線の一本ずつまでも刻もうとするかのような凝視、
ずりずりと鉄扉が閉じられる音がひどく間延びして聞こえ、集中の中で時間の感覚が曖昧になる。今はとても思考をしていられる状況ではないが、それでも脳裏に浮かぶのは、遠い日の思い出。
――愛があれば、答えられるんです。
「君は愛だの恋だのずっと言っているが、まったく要領を得ない……。ありていに言ってしまうが、あの問題は学生が9割を取れるようなレベルじゃないんだ。しかし問題は僕が一人で作り、今日の収録までずっと僕が管理していたものだ。解答が外部に漏れていたとも思えない。いったいどうやったんだ」
それは過日、とあるクイズ番組にて行われた予選会でのこと。
出場希望者として集まっていたのは名うてのクイズ王、番組荒らし、大学教授、将来は官僚にでもなりそうなエリート大学生、そんな連中である。それをさらに篩にかけるべく、300問の四択問題が出題された。七沼遊也という人物が作り上げた難攻不落の迷宮。堅牢無比の要塞。練りに練った難問奇問の数々である。
クイズ王ですらせいぜい8割、240問の正解が限界であったこの予選会で、ただ一人、296問という正解を叩き出した人物がいた。それが目の前の女子高生。見た目に何も特徴はなく、天もおののくような傑物とはとても思えない。ユーヤですらクイズ王としての気配を感じなかった。彼女はクイズ戦士ですらなく、何かもっと別種の生き物のようにも思えた。
――愛があれば解けますよ
「……愛はもういいんだ。じゃあ率直に聞こう。君が明治の浪曲師だとか、論文が出たばかりの薬学的知識だとか、「魔女に与える鉄槌」だとか、そんなことについての知識を持ってるとはとても思えないんだ。君が不正をしたと言いたいわけじゃない、何か技術的要素で、答えを導く手段があったんじゃないか、それが知りたいんだ」
――愛するんです。
「僕だってクイズを愛している! 愛しているだけで、そんな魔法のように答えが分かるわけがないだろう!」
(……やはり分からない)
背後でずりずりと扉が閉まりつつある、ユーヤは頭上でバツの字を作り、背後の部屋に戻る。
「ユーヤ選手、パスです、これは大変です、残り一点となりましたあ」
※
「何……だと?」
ガナシアが、目の前に尻餅をついている睡蝶に言う。
「これを見るネ」
ぴ、と睡蝶が取り出すのは、微細な文様が刻まれた特殊な紙。
「それは、ビルベルス王立銀行が発行している振り出し小切手……」
「あなたは見てなかったと思うけど、三問目のときにパネルの一枚に仕込んであったネ。あの問題、正解は八枚のパネルの中で5つあり、解答は私から、つまり私が最後のパネルを拾う流れになっていたネ。そして最後に残りそうな選択肢が二つあった。たぶんユーヤはそのうちの一枚を拾うことで、最後に特定のパネルを残したネ、そしてパネルの裏側に小切手を仕込み、メッセージも記したネ」
ガナシアが紙を凝視する。そこには額面で100万ディスケット、そして赤い文字で何か書かれているが、ほとんどかすれて消えかけている。
「文字が乱れているけれど、「エイルマイルのいる部屋の換気口が通じる先、ガナシアがいる、彼女たちを止めてくれ」と書かれてたネ、それから付記も」
「それは、確かにユーヤからのメッセージ……」
この作戦で、ガナシアとしてはまずエイルマイルの生命を第一に考えねばならなかった。ならばエイルマイルの部屋の換気口が通じる位置に居て、言葉を交わすなどしてその生存を確認するだろう、そうユーヤは読んだのだろうか。
ガナシアは廊下にある給気口を見る、その先の部屋、エイルマイルのことを思う。
「……だが、もはや、姫様は私でも止められない。エイルマイル様も命がけの作戦なのだ。どう呼びかけても、耳を傾けていただけないだろう」
「私だって、こんな少額の小切手だけで動く気はなかったネ。でも仕方なかった。いくらなんでも人が死ぬ場面を座して見てるわけにいかないネ」
「死ぬ……?」
「付記があると言ったネ。お姫様! 聞こえるネ!?」
吸気口に口を近づけ、睡蝶が呼ばわる。
「ユーヤからメッセージが届いたネ、あなたを止めて欲しいと、そしてこのメッセージには付記があるネ」
「四問目!
――僕は息を止める、と!」
「――!」
吸気口の奥。そこからどれほど隔たっているのか、あるいは曲がりくねった配管の向こうなのかは分からねど、たしかに息を呑む気配がした。
「なっ……」
驚愕するのはガナシアも同じ。
「た、ただ息を止めるだけ、ということか? そんな馬鹿な、そんな子供のようなこと、何の脅しにも……」
「そうネ? 過去には自分で息を止めて死んだ人の伝説がいくつか残っているネ。強靭な精神力があれば不可能ではない。いや、強靭というより病的な、頑なな、という言い方が近いかも知れないネ。それでなくとも酸素濃度が減らされている現状、昏倒するまで息を止めたらそのまま低酸素脳症からのチアノーゼで死ぬか、重篤な後遺症が残る可能性があるネ」
「そんな、まさか――」
その声はかすかに吸気口から聞こえた。声を聞きとがめて、睡蝶がさらに言い募る。
「姫様! エイルマイル様! この小切手の文字、血で書かれているネ。それにあのユーヤという男、どこか得体が知れない。私達の想像を絶する事をやってのけるという気配がするネ。本当に自ら息を止めて死ぬかも知れない。ユーヤはこれが姫様への脅しになると分かっているネ! つまり姫様も分かっているのでは!? あの男なら本当にやってのけると! もう第四問の開始から2分半は経っている。私の番は急いで終わらせたけど、もし本当にユーヤがそんなことをしていたら、訓練を受けていない人間が何分も息を止めたら」
「う――」
――ハッタリとは実際にやってのける、という意思が無ければ効果がない。爆弾を持って脅すなら、本当に爆発させてやろうか、という気持ちが少しぐらいは無くてはいけないんだ。
ガナシアもユーヤの言葉を思い出す。本当にやるかも知れない、あの男ならば。クイズのために本当に命を投げ出せる、クイズが人生よりも優先する彼ならば。
吸気口の奥から、無言の気配が伝わってくる。それは当惑、混乱、逡巡、そして悲壮、様々なくろぐろとした感情を秘めた無限なる無言。
数秒が数分にも感じるほど、引き伸ばされた時間の果てに、ガナシアがわななくように言う。
「だ、駄目だ、事は成ろうとしているのだ、それに、いくらユーヤでも、自分の意思で生命まで止められるわけが」
「――わ、分かり、ました」
「! 姫様!」
その言葉を聞くが早いか、睡蝶は踵を返して走り出す。
「私は解答に戻るネ。ユーヤに作戦の成功を伝えないと、あいつほんとに死ぬネ」
その姿を見送り、ガナシアは力なく腕を下ろす。
「姫様」
壁に己が身をもたれさす。
「姫様、大事にしておられるのですね、あの男のことを」
それは通気孔の奥に届くほどではなく、すぐに世界のどこからも消え失せた、ガナシアの中だけで完結すべき独白。
「受け継いだ意思よりも、憎むべき宿敵よりも、立ち向かうべき運命よりも、優先させてしまう。ユーヤの言葉を、命を……」
それでいい。そのような言葉が浮かぶ。
思い付いてしまえば、それはすとんと胸の奥に落ちるような気がした。
そうだ、それでいい。
「それでよいのです姫様、貴方は優しい方なのですから……」
※
もはや思考は定かではない。
心臓の背後あたりを中心に、すべての気力が抜けていくような気がする。視界がかすみ、一歩を歩くことすら不可能に思えるほど体に力が入らない。血中の二酸化炭素濃度は上昇し、目の奥への激痛、意識の混濁が襲いつつある。
息を止めて何分が経過したのか。生涯で最も長く止めたときよりもかるく2分は上回っている。己がどうなってしまうのか、苦痛が無限に高まっていくのか、あるいは電気を消すようにふつりと意識の糸が切れて、そのまま永遠の闇に放り出されるのか、それもわからない。ユーヤは死を思う。だが自発的に呼吸をすることだけはできない。己の意思が肉体の欲求を上回っている。自ら折れようとしても折れることが許されない、骨の髄まで浸透したユーヤという人間性そのものが、鎖となって彼を縛る。
(駄目か)
目の前の鉄扉が開かない。己の順番が回ってくるまでに意識が落ちれば、それまでのこと、おそらく気を失っても己は呼吸をしないだろう。そのような昏い確信がある。
(たとえ睡蝶がうまくやってくれても、僕は次の問題は答えられない)
(適当に選ぶ? そんなことが通じるわけがない。僕が考えることをやめれば、手の中には誤答しか残らない、この場において偶然の許される余地などない、わずかでも根拠がなければ)
意識の底の底には、絶望しか残っていない。
(ここまでなのか、これほどにクイズを、愛していたのに)
(いや、むしろ、今までが異常だっただけか)
何を高望みをしていたのか、そのように自虐的に思う。
右も左も知らぬ異世界で、クイズで戦えるなどと本気で思っていたのか。少しばかり技術や作戦に通じてるからといって、それでどうなると言うのか。この世界の王たちと渡り合えると思っていたのか。
自分は所詮、王ではない。クイズ王に憧れるだけの、ただの人間なのだから。
王と呼ばれた瞬間もあったけれど、それはクイズイベントの優勝者という以上の意味を持たない。かの綺羅星の如き王たちとは違うのだから。天才でも、選ばれし者でもない。小賢しい技術を積み重ね、いじましく体を張るしか能がない、卑劣ないかさま師なのだから。
――愛です。
(愛か)
――愛すればそこに道は開けるのです。技術を投げうち、知識も捨てて、ただ一心に愛せば。
(真の愛とは、無私なもの、ということか)
(僕の知識と技術、それを捨てた先に、あの王の言っていた境地があると――)
ユーヤの視界の中で色が失われ、音が遠ざかり。
そして鉄扉が開かれ、
そこに残されたパネルが、○の形に組み合わされているのを見た時。
ユーヤはしゃっくりのように、ひゅっと息を吸った。




