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「ベニクギと、あの睡蝶という子が達人なのは確かだが、あの巨人だって人間など比較にならない力だった、死ぬ可能性がゼロじゃない以上、余興でさせられることじゃないよ」
コゥナはえっと驚いて口を挟む。
「お、お前が言っていたことではないか、バケツがどうとか」
「水を扱うイベントなんだ、清掃用にバケツぐらい置いてるのが当たり前だ。ガラス片はばら撒いたものじゃなく、本当に散乱してたんだよ」
「しかし……そう、確かパルパシアの双王が、あれは飴だと言ってたでござるが……」
「興味深いお話ですね」
そこに、声がかかる。
「私にも聞かせていただけませんか」
その声を聞き、ユーヤら四人がその姿を見た時。ユーヤは瞬時に表情を消し、どこか退屈そうな顔に変わる。
目は合わせたものの意思を通じ合わせる程ではなく、敬うでもなく軽視するでもなく、ルーティーンワークの商品説明をする会社員のような、倦怠感をにじませたような顔。それは表情から意思を、自分自身から「印象」というものを消すための技術であったが、その実。
(――不覚だ)
ユーヤは明確に焦っていた。
(この人物が会場にいるかどうか、第一に確認しておくべきだった。ギリギリまで、顔を見られることすら避けるべきだったのに)
それは銀に近い金髪。
長身で細身、そして彫刻のように整った顔。グラスで輝く氷のような、銀無垢の刀剣のような怜悧な面。房飾りと彫金で飾られた剣を腰に吊り下げ、青地に白の刺繍がなされた服は飾り紐や徽章で覆われている。
ハイアードの王子であり、大陸にその名を轟かせるクイズ王、ジウ=ハイアード=ノアゾ第一王子がそこにいた。
「久しくお目にかかります、ジウ王子」
「やあズシオウ様、昨年のクイズ大会以来ですね。少し大きくなられましたか」
「はい、おかげさまで」
ジウ王子の会釈は柔和なようでもあり、かっちりと固まった何かの手本のような動きでもある。
優雅さや余裕と言うよりは、非の打ち所がない、何一つ間違っていない、という印象がある。視線を移動させる速度すら一定で、そこに感情の多寡はない。
「それに、ベニクギ様も御壮健のようで、残念ながら見逃してしまいましたが、先程の活躍のほどはいま耳に挟みました。音に聞くヤオガミのロニの腕の冴え、あとで他のものから詳しく伺うのを楽しみにするといたしましょう」
「恐縮でござる」
「私はトゥグートの娘、コゥナだ。父の名ぐらいは伝わっていよう。今年のクイズ大会には私が参加するぞ」
「ええ、ホスト国の代表として歓迎させていただきます。それで……」
と、ジウ王子はユーヤを見て、その妙に無感動な様子に少し首を傾げるような動作を見せてから言う。
「ユーヤ様、と呼ばれておりましたね」
「ええ、セレノウの出身です。本日は人づてに夜会に招待を受けました」
己の出自とこの夜会に来ている理由、そういった最低限の情報を先に言ってしまう。
それについて会話が持たれないための用心である。どんな突っ込んだことを聞かれるか分かったものではない。
「先程の、双王が飴か、それともガラス片かを食べていたことについて、何かお考えがあるようですね」
「……モスグリーンの服を着ていたほう、双王の姉か妹か分かりませんが、彼女は指に指輪をはめていましたよね」
「そうですね」
「普通、水遊びをする時、指輪は外すものでしょう」
「確かに」
「あの指輪は、騒動の後に急いで身に着けたのだと思います」
「ほう? それは何のために……いえ、お待ち下さい……少し自分でも考えてみたい……」
と、ジウ王子は何度かうなずく。その表情の変化は常に薄く、微笑むにしても感心するにしても、顔のごく一部ににじむ程度の変化でしかない。
やがて、納得したかのようにぽんと手を叩く。
「なるほど……ダイヤモンドですね」
「そう……ダイヤの指輪をはめて、ガラス片の水気を服で拭う時、いくつか切り傷をつけたのです。テコの原理でパキン、と折れるように」
「しかし、そのあとに咀嚼していたようですが」
「慎重に噛み砕けば怪我は最小限で済むはず……口の中が血まみれ、とまではいかないでしょう。飲み下していたので、このあとは急いでトイレに駆け込んで、胃の中のものをすべて吐き出すのでしょうね」
ベニクギは、このユーヤの口調の変化に気づきはしたものの、何も言わずに聞いている。
ジウ王子が重ねて質問する。
「しかし……なぜパルパシアの双王はそのようなことを?」
「さあ……夜会を邪魔された、という形を防ぎたかったのでは。面子を潰される格好になりますからね。このあとは密かに犯人を探すのでは」
「よく分かりました。実際のところ、真実がどうだったのかは分かりませんが、面白い説を拝聴いたしました」
そこで王子は、はたと思い至ったという様子で言う。
「しかし、そもそも犯人の目的は何だったのでしょうか」
「……目的?」
問い返すのはユーヤである。今の混乱と、パルパシアの双王の奇妙な行動に気を取られて忘れていたが、犯人の目的、つまり動機も確かに謎である。
あの襲撃の場に居合わせたのは、パルパシアの双王と、フォゾスの姫。それにもう姿を消しているが、あの睡蝶という娘である。この世界の政治事情に通じているわけでもないユーヤには、推測するにしても限界がある。
「誰かが狙われたのか、ただ夜会の邪魔をしようとしたのか、それとも別の目的があるのか……」
ジウ王子が独り言のように言う。
(――別の目的)
その言葉が、ユーヤの中で焦点を結ぶ。
(――もし、これだけの騒ぎが、すべて別の目的のための陽動だとしたら)
「……すまない、ちょっと水しぶきを浴びて体が冷えた。温かいものでも飲んでくる」
ユーヤは履きっぱなしだった長靴をのっそりと脱ぐと、その場の全員に会釈をして立ち去る。あくまでゆっくりと、感情を悟られないような自然な歩みで。
「ユーヤさん……?」
怪訝な顔をするズシオウが雑踏の向こうに消えて、なおユーヤは歩を進める。あまりに急な立ち去りは不自然かとも思われたが、ユーヤはもはや意志の力で緩慢な動きをするのは限界だった。そのへんのボーイに長靴を投げるように渡し、人混みの中で歩を早める。
おかしいと思うべきだった。
なぜ、これほどの騒動になっているのに、あの二人は様子を見にも来ないのか。
会場を横断するように歩き、ホール中央の滝を通り過ぎ、入口近くに。
会場の脇に長椅子が置かれ、そこで上半身を投げ出して寝入っている人物がいる。
「――ガナシア」
貴人の警護という役割のある人間が、長椅子で寝入る。その不自然さにユーヤの背筋を緊張が走る。そこは会場の中でも奥まった部分であり、会食に疲れた人間が椅子に腰掛けて一息つく場所であろうか。周囲には他の来客はまばらだ。
「ガナシア、どうしたんだ、エイルマイルはどうした」
床に片膝をつき、揺り動かす。だが人形のように手応えがない。
「おい、誰か、この人と一緒にいた水着の女性を見ていないか」
「ああ、それでしたら」
夜会に来ていた婦人の一人が、入口の方を示して言う。
「ほんの少し前、気分を悪くしたとかで、誰かに支えられて外に出てゆかれましたよ」
「外だと……」
「ええ、確か、黒いマントを着た数人に支えられて……」
「――しまった」
ユーヤが走りださんとする、その瞬間。
さっと脇を通って会場の外に飛び出す人影がある。
それは褐色の肌の少女、鳥の尾羽根が体の後方で跳ね踊り、来客の間を縫って走る。
ユーヤも後を追う。
会場を飛び出す。森を切り開いて作られたヴァッサール宮の外は、ロータリー状の馬車留まりと、その奥に伸びる直線的な並木道になっている。
「あれか」
夜会の開始から一時間も経ってはいない。まだ帰る客よりは来る客のほうが多い刻限である。数台の馬車の奥、鞭の音も高く遠ざかる馬車が、200メーキほど先で十字路を曲がる瞬間が見える。
褐色の少女、コゥナ=ユペルガルが弓を抜き放ち、一瞬で矢をつがえる。森の彼方、九十度曲がった先の馬車を心に描く。
(二頭建ての小型馬車、客車部分の全長はおよそ8~10メーキ、速度はおよそ11ダムミーキ毎時。225メーキ先の十字路を右へ、放物線状の矢は到達までおよそ4秒、移動距離は12から15メーキ)
矢を放つ、弦鳴りの音がびいんと響き、矢が暗黒へと吸い込まれる。ハイアードの森を渡る風がびゅうと唸り、遠い祭りの喧騒、会場の奥より響く水音、コゥナの姿を見て驚く人々、馬車に繋がれた馬のいななき、放たれた矢の風斬りは、そのような雑多な音の中に消える。
背後より足音が響く、ユーヤが手近なボーイを捕まえて話しかけている。
「すまない、急いで馬車を、いや馬を用意してほしいんだが」
「無駄だ」
コゥナが言い、そのウェストコートを手の平で押す。そしてぐいぐいと会場の中の方へと押し戻さんとする。
「ハイアードの王宮街を抜ければ祭りの真っ只中だ、そこに逃げ込まれたら絶対に見つけられん、しかもお前は馬に乗れるようには見えん」
「しかし」
「それよりも倒れていた騎士殿が心配だ。クイズ大会の映像で見たことがある、あれはセレノウのバルジナフ公爵嬢どのだな。まずは彼女の容態を確認するべきだ」
「む……」
そして一分ほど。
「寝ているだけのようなんだが、刺激を与えても起きない、何か薬でも盛られたか……」
ガナシアは腕を枕に、足を降ろして長椅子に横臥している体勢である。その目は深く閉じられ、寝息は浅く、意識は死人のように沈んでいる。
「これだ」
コゥナが手近なテーブルから、水の入ったコップを持ってくる。その側では、あの太った大臣がどこかへ走り去っていく所だった。
「わずかに匂う。おそらく八つ脚草の根。短いが深い眠りがある」
「危険な薬か?」
「眠るだけだ。いまマルタートに炭を取りにやらせた、砕いた炭を水に混ぜて飲ませると回復が早まる。だがおそらく処置せずとも一時間ほどで目覚めるだろう」
「炭の多孔質による吸着だな、たしかに毒を飲んだ際の常套手段だが……」
(ガナシアが眠らされ、エイルマイルが誘拐された、という状況か)
ユーヤは改めて己の不覚を思い知る。王家主催の夜会とはいえ、ガナシア以外に護衛を何人かつけるべきだった。この大陸が平和だからといって油断していたのか、それともクイズ大会に誘拐だの薬を盛るだの、そのような要素が関わってくると想像すらできていなかったのか、それはやはり甘さと言わねばならない。ユーヤはこの世界の人間ではないからこそ、この世界の常識を超えたことまで警戒できたはずなのに。
「どうする、ユーヤとやら。王族が誘拐されたとなれば国家に弓引く一大事だ。パルパシアの双王か、あるいはハイアードの王子に緊急の手配を求めるか」
「それはできない」
ユーヤは、それだけは即答する。
「君も言ってたように、この妖精王祭儀の時期に人間を探すのは容易じゃない。犯人の素性も、目的もわからない段階で大きく兵を動かせば、エイルマイルの身に危険が及ぶ恐れが高い」
「同意だな」
「それに……」
「……」
それは声に出しては言えぬ想像。
しかし、コゥナが年若い姫であったとしても、そのぐらいの想像はつく。
誘拐の主犯が、そのパルパシアかハイアードであるかもしれぬ、という想像である。
夜と夜会と、祭りの賑わい、
それらはユーヤたちの事情と無関係に、いよいよ深まりつつあった。