彼女は海を知らない
目の前で明るく笑い続ける男を、エリスは呆然と見ていた。
(そんなに笑わなくても)
「あはははぶ……ははは、ひ、くくく、……ちょ、あはは、くるしい、しぬ……」
(そこまで? 死ぬの?)
ジークハルトの話を聞いて以来、ひどい呼吸をしながら笑い続ける男。
笑いのツボが、エリスにはいまいちわからない。
「女の人を怖がらせないために、ふ、ふふふふ、優しい男を装うジークハルト……」
笑われているジークハルトは、特に気にした様子もなく「俺は頑張った」などとうそぶいている。
(男たちの武勇伝に付き合う気は、ないです)
無言のまま待機していたエリスのかもしだす不穏な空気に気づいたか、ジークハルトがエリスに顔を向けた。
「これはファリス。いまはしつこく笑っているけど、根はそんなに悪くない」
「ご紹介、ありがとうございます」
ジークハルトとファリスの気安い関係故なのだろうが、エリスには笑える要素がなかったので、そっけなく答えるにとどめた。
先程エリスが通った道は宮殿の裏手に通じていた。
小高い丘の上に立つ、白亜の宮殿は、故郷の重い石の積まれた暗い王宮とは何もかも違った。
海からの風が開放的な廊下を通り抜けて行く。
腰高の手すりまでしかない廊下からは庭がのぞめた。見たこともない形の葉の木々が伸びやかに梢を揺らしていた。
ジークハルトは、裏門を守っていた衛兵に軽く挨拶をし、通りすがりの女官に「この位の背格好、年齢の女性用の服を」と、なんでもないことのようにお願いしていた。命じるというほどの強さではなかったが、即座に請け負っていたので、女官の仕事に自分の用事を割り込ませる程度の権力があるのは知れた。
そのまま「ちょっと寄り道」と言うのに付き従ってきた結果、廊下で会ったのがファリスである。「ちょうど良かった、探そうと思っていたんだ」とジークハルトがかいつまんで出会いの経緯を説明したらこのような惨状になった次第である。
ファリスという男は、手の甲まである長衣の袖で、目の縁に浮かんだ涙を拭いている。泣くほど? とエリスは唇をひくつかせる。
「ごめんなさい。ちょっと、想像したらおかしくて」
「想像しないと良いと思います」
エリスが提案をすると、「そうだね」と言いつつ、ようやく笑いをおさめた。
青みがかった不思議な色の黒髪、青みがかった黒の瞳。顔だちは柔和で優男めいているが、何より吸い込まれそうな瞳の印象が強い。
改めて向き合って、目が合った瞬間、ふわっと押し寄せる風を感じた。
(……この人)
「宮廷魔導士のファリスです。何かお力になれたらと思います」
やはり、気のせいではなかったらしい。未熟とはいえ魔法を学ぶ身として、確かに感知できた魔力の流れ。偶然か。それとも、わざとなのか。
警戒をするエリスをよそに、何気ない様子でジークハルトが言った。
「聞きたいんだけど、人一人をある地点からまったく別の場所へ飛ばす魔法ってあるのか?」
(真っ先に確認しましたね)
エリスは、なんとか声を堪えた。
不意打ちのようにくる、この鋭さ。ジークハルトは、掴みどころがない上に、底が知れない。
「そうですねえ……。無茶苦茶魔力が強い伝説級の魔導士なら可能かもしれないけど、普通は考えられないかな。何が起きるかわからないから。移動に要する時間や距離の概念を歪めるんだ。実験動物ならまだしも、人間に行使するのはよほどキテる魔導士じゃなきゃやらないんじゃないかな」
【お師匠様……。
良い報告と悪い報告があります。
隣国の魔導士をしてお師匠様の実力は「無茶苦茶強い伝説級の魔導士」って認定されました。
悪い報告はええと、キテる魔導士扱いされています。
本当に大丈夫って確信があっての所業だったんですよね?】
エリスは隙を見て魔法の書に、師への報告を書き込むことを心に誓った。
一方、ファリスの説明を聞いたジークハルトは「まぁ、そうだろうな」と落ち着き払って応えている。
(いまの説明で、納得したんですか?)
警戒しておくに越したことはない。ジークハルトは少しどころかかなり、得体が知れない。
「それじゃ、着替えたら次はその服は誰か、詳しい者に見てもらおう」
やはり抜け目のないことを言う。
ファリスはといえば、瞳に煌きを浮かべて、好奇心を抑えられないかのようにわずかに声を弾ませて聞いてきた。
「記憶がないというのは、どういう感じなのですか。受け答えに支障はないようですが」
「受け答えができているように見えるのなら幸いなのですが」
エリスは、一年前を思い出して慎重に言葉を選ぶ。
いつからか一人で森の奥を歩いていた。獣のように。自分であって、自分ではない。
あの時は一体何を考えていたのだろう。
「思い出そうと思えば、思い出せそうなんですけど……。何かに阻まれて、どうしてもそちら側に行けない、という感じです。どんな生き物でも、それなりの大きさになるまでは時間がかかりますよね。わたしもこの大きさになるまで、どこかで、何かを考え、生きていたはずなんです。一人であったとも思えないし、誰か、何か、関わったものがこの地上のどこかにはいるはずなんですけど。どうして、思い出せないのでしょう」
自問自答の末の本音がこぼれてしまった。静かに聞いていたファリスが、ひとつ頷いてから再び口を開く。
「それは感覚として『辛い』のですか?」
辛いでしょう、という共感めいたことを言わないのが、魔導士らしいのかな、と思った。エリスは魔導士といえばこれまでアリエスしか知らなかったが。
「辛いかどうかは自分でもわかりません。困ってはいます。実際、海で溺れかけましたし。海ってあんなに浅いところでも危ないだなんて知らなかったんです」
それまで沈黙していたジークハルトが「それなんだよな」と呟いた。
「本当に、普通に溺れていた。助けなかったら、死んでいたかもしれない。なんで海に入ったんだ?」
「それは、何かが落ちていて、気になって。綺麗な石のような……」
説明の途中でエリスは口を閉ざす。ジークハルトの表情がひどく真剣に見えたせいであった。果たして、ジークハルトは視線をエリスから外してふっと遠くを見やる。
「海を、知らない……としか思えないんだよな。それ、貝殻のこと言ってるよな」
また何か情報を与えてしまった。どんな話のときも、冷静に観察しているらしい。この男の前では絶対に気を抜くな、とエリスは強く自分に言い聞かせる。
「貝殻が欲しくて、死にかけてしまいましたか」
ファリスは淡い笑みを浮かべて、続けた。
「ジークハルトが間に合って良かったですね」
「それはそうなんですけど……」
(助けてもらったのはありがたいのですが。ジークハルトは、いったい何者?)
当のジークハルトはといえば、飄々としてエリスの戸惑いなど構うそぶりもなく「そろそろ移動するか」と言っている。
「あージークハルト……、女官たちにはある程度説明した方がいいと思う、よ。さすがに、いきなり女の子を連れてきてお世話していたら、……いいや僕もついていく」
何か言おうとして、結局諦めたらしいファリス。
その意味を、エリスはすぐに知ることとなる。




