姫君と伊達男、偽物
「やっぱり、おろしてください!! 自分で!! 歩けます!!」
ジークハルトが数歩進むのを待たず、エリスは声を張り上げて手足をばたつかせた。
本当は、心優しい騎士様が現れたら、素直に身を任せてお世話をされた方が「姫君」らしいのかもしれない。
だがエリスは姫君ではないし、歯の浮くような会話にも向いていないし、怪我もしていない。
助けてくれるらしいジークハルトを利用すべきという判断力はあったが、それでも落ち着いてはいられない。
(ほんものの記憶喪失だった一年前とは、状況も違いますからね!)
こんなところで、無駄死にをするわけがない。
エリスが親切を固辞すると、ジークハルトもまた明らかにほっとした表情をして、エリスを砂浜に下ろした。
「それならそれで俺も気が楽」
エリスと目が合うと、小さく噴き出してから付け足した。
「ごめんなさい、俺、あんまり女の人の会話するのが得意じゃないんです。だけど、海に入っていくひとを放っておくわけにもいかないし……女の人怖がらせちゃいけないって、それだけ考えて。知り合いの、女の人が得意なひとの真似をしたけど、嫌がられてまで続けるつもりはないよ。こういうのが、俺に似合っていないのも、わかっている。はー……疲れた」
解放感からか、ひたすら明るく早口にまくしたてるジークハルト。
エリスもつられて笑みをこぼした。
「そうだったんですね。疲れさせてごめんなさい。わたしもわたしで、こう、……姫って言われるから姫なのかなって思って姫らしくしようかと思ったんですけど、姫ってどんな感じですかね?」
掛け値なしの本音であったが、ジークハルトにはいささか気の毒そうな顔をされてしまう。
「ものすごい記憶の壊れ方してるみたいですけど、本当に大丈夫ですか?」
「あははは。身体は大丈夫みたいです」
「そう?」
言いつつ、ジークハルトが靴を揃えておいてくれたので、もうどうにでもなれとばかりに靴下で足の水を拭きとってから、裸足の足をブーツに押し込む。
「服とか靴を調べたら、身元がわかるのかな。それと、その本は?」
エリスは一瞬ためらったが、その場で開いて見せた。
「この本は、何も書いていません」
「ほんとだ」
最初のページを見せてから、ぱらぱらと最後まで見せると、ジークハルトは手に取ろうとすることもせずに納得したようだった。
そのまま、二人で歩き出す。
砂浜を進むと、草のまばらに生えた地面となり、その向こうには切り立った崖があった。ジークハルトはそちらを目指しているようだ。
風が吹いて、ジークハルトの柔らかそうな髪がなびく。
濡れてしまったシャツは、身体にぴたりと張り付いている。意外に肩幅が広く、童顔の印象に惑わされていたが、身体にもしっかりとした厚みがある。力の強さも頷けようというものだった。
「ジークハルト様は、どこからいらしたんですか」
半歩遅れて歩きながらエリスが尋ねると、「様はいりません」と言ってから、ジークハルトは崖の上の方に目を向けた。
「あそこからです。見張りについていたので。でも、残念ながらあなたがいつからあの浜辺にいたのかはわかりません。不覚にも、見逃しました。なぜかな」
独り言のように疑問を口にした瞬間、ジークハルトの表情が剣呑なものになった。すぐにその不穏な気配を消し去って、エリスに顔を向けると穏やかな声で続けた。
「この浜辺は滅多なことでは迷いこめないはずなので、もしあなたがどこかから来たのだとすれば、海くらいしか思いつかないんですよね。しかし漂流したにしては身なりがお綺麗だ。そのわけを、さっきからずっと考えているんです」
(お師匠様~~~~~~~~~~!! 設定が雑過ぎたんですよ~~~~~~~!!)
ジークハルトは、鋭い。すでに正解に近づいている。
心の中で師匠に対して溢れる思いぶつけまくりつつ、エリスは表面上は曖昧に笑うに留めた。それをどう受け止めたのか、ジークハルトはすぐに話題を変えた。
「この話は、ここまで。記憶喪失のあなたを追い詰めるのは、本意ではありません。声が出なかったのは、本当のようですし」
すらすらと淀みなく言われて、エリスはジークハルトの観察力の確かさに唸りそうであった。
(記憶喪失そのものは、信じていないのでは? 魔法の知識があれば、私に「おしゃべり禁止」の呪いがかかっていると気づくのも時間の問題……)
そのまま歩き続けて、崖のふもとで曲がると、薄暗い洞窟となっており、細い道が奥へと続いていた。向こう岸との間には、海へと流れ込む川が横たわっている。
「ここは……?」
洞窟の奥の方に光が見えるので、どこかには通じているのだろう。それどころか、土肌も綺麗にならされて壁となり、道なりに灯りが燈されている。
ジークハルトはわずかに表情をくもらせ、言った。
「あまり詮索しない方が良いかと……言いたいところだけど、まあいいや。ここ、王宮の離宮の裏手です。直接内部へと通じているんです」
「だから、騎士さまが侵入者を見張っていたんですか」
「そういうことですね」
道もきちんと整えられていて、歩くに申し分ない。
(詮索しない方がということは、抜け道とか裏道とか……王宮の機密に関わる場所? お師匠様、座標は適当って言ってましたけど、とんでもないところに飛ばしてくれたのでは)
辛うじてドレスの見た目効果と記憶喪失設定のおかげで、曲者扱いこそ受けていないが、ジークハルトにはおおいに疑われている気配がある。それはそうだ。そうなのだが。
同時に、ジークハルトは親切で善良そうであり、エリスに対しての礼儀は申し分ない。
しかも、王宮に連れていってくれるという。
任務に対しての最短ルートであるのもまた、間違いない。
「ジークハルトさんは、王宮の兵士なんですよね」
「そうそう」
騎士団長について聞こうとして、あまりにも直接的過ぎるかとひとまずやめておく。
「王宮の兵士って、木剣なんですか?」
「いや。俺だけだよ」
反応に困る回答だ。
エリスの躊躇いを感じ取ったらしく、先を歩いていたジークハルトが肩越しに視線をくれる。
「俺は、むやみに殺したくないんだ。だから、これは特別に許可を得て持っている。いざとなったら、力押しで相手を戦闘不能にするし、十人ひとまとめでも負けないから。剣の形の何かさえ、あれば。俺は」
「話だけ聞くと、ジークハルトさんは滅茶苦茶強いひとみたいですね」
しん……と一瞬で静寂が訪れた。
歩みは止めていないが、気のせいではなく、長い沈黙があった。
「すみません……失礼なこと言い過ぎました」
自分の発言を振り返り、エリスは素直に謝罪する。
「いや。気にしていない」
という割には、そっけない口調だった。
だが、よく見ると、肩が細かく震えている。泣かせるほどの破壊力があったとは思わないのだが。
「ジークハルトさん?」
エリスは小走りに追い越して、前に回り込んで顔を見上げる。
まさにそのとき、ジークハルトは「くっくっく」と堪えきれない笑い声をもらしたところだった。
「笑ってます!?」
「あ、いや、あはは、ごめん。ちょっと面白くて」
「笑うほど? 何がですか?」
笑いをおさめたジークハルトは、片目を細めて唇の端を釣り上げた。
「さあ。姫君が焦っておいでのところかな?」
エリスの無言に怒りを感じたのか、ジークハルトは「ごめん」と気安い調子で謝罪した。エリスは苦虫を何匹も噛み潰して微笑んだ。
「それでは、間もなく王宮です。お姫様はまずは着替えて……細かい手続き、誰かに任せておこうかと思ったけど、お姫様のお世話は俺が担当しよう。その方が面白そうだから」
誰かに任せていただいても構いませんけど、という言葉をエリスはかろうじて飲み込んだ。
(ジークハルトさんって、王宮勤めの兵士にしては、ずいぶんと権限があるようなことをいいますね)
わずかな違和感はあったものの、エリスはそれを口にすることなく呑み込んだ。