最初の男?
「どこの姫かは存じ上げませんが、海水浴はまだ早いですよ」
歯切れの良い、瑞々しい声だった。
向けられた瞳は、声の印象そのままの、鮮やかな新緑の色。
(すごくきれいな目)
もうすでに懐かしい、故郷の森のようなまなざし。エリスが目を逸らせなくなってその瞳をのぞきこむと、相手は困ったように笑みを浮かべてから、周囲に視線を向けた。
「姫君はどこからいらっしゃったのですか。供の一人も見当たらないようですが」
エリスが脱ぎ捨てたブーツを見つけたらしく、歩き出す。
肩に抱え直されたせいで、触れあった部分が、ドレスからしみだした海水に濡れていく。気付いて、エリスは慌てて腕をつっぱり、逃れようとした。
「すみません、わたし、ものすごく濡れてて……、下ります下ります!」
「これはあなたの持ち物ですね」
無造作というほど乱暴ではないが、相手は荷物のようにエリスを片腕で抱えて、落ちていたブーツと靴下と魔法の書に手を伸ばす。瞬間的に、エリスは猛烈に焦った。
「あの、ほんっとーに下ります!」
ジタバタと足を動かし、罪のないその人の頭をぐいぐいと手で押して暴れると、砂の上にゆっくりと下ろしてくれた。
「裸足のようですが……」
躊躇いがちに言われて、エリスは「大丈夫です!」と目いっぱい笑ってみせた。
改めて向き合ったその人は、若木のようにすらりとして背の高い青年だった。
日に灼けた顔は、おそらく童顔と呼ばれる部類だろう。年齢はよくわからないが、明るい笑みを湛えた瞳と甘い顔だちのせいもあり、小動物めいた印象がある。シャツにズボンといった装飾のない服装をしており、それが姿勢のうつくしさを際立たせていた。腰には剣を帯びていたが、よく見ると子どもが練習に使うような木剣だった。
入隊したての少年兵と言うほど幼くはなさそうだが、飄々として威圧感もない。稽古を抜け出してきた駆け出しの訓練兵、といった風情だ。
(座標は適当だけど、目標にはなるべく近づけるって言ってましたからね、お師匠様)
大魔導士の魔法の精度は確かだ。おそらくここは、隣国の王宮近くの浜辺なのだろう。
何はともあれ、エリスは大事な魔法の書を拾い上げる。濡らすわけにはいかないので、ドレスに触れぬよう、右手に携える。
青年は、腰をかがめてブーツと靴下を拾い上げた。
「この靴で、ここまで歩いてきたんですか?」
耳に心地よい、はきはきした声で問われて、エリスはつい返事をしそうになった。
その次の瞬間、喉から声が消え失せた。
「…………、!」
息苦しさはない。ただ、声が出なかった。
「喉……? でも、さっきは喋れましたよね」
青年はわずかに眉を寄せ、表情をくもらせる。
(はい。これはたぶん、わたしのうっかりの性格を見越した、お師匠様の呪いです)
エリスは喉を左手で喉をおさえたまま、心の中で返事をした。
大魔導士アリエスの呪い──『素性に関することにこたえようとすると、声が出なくなる』が、発動している。
――エリスは潜入するにあたり「記憶喪失の姫君」となる。身なりがそれなりのご令嬢なら、いきなり無碍にされることはないはずだ。おそらく身元を突き止めるまでは客人として扱われるだろう。
このドレスを用意した理由を、アリエスはそのように説明していた。
ただ、エリスの場合は失言が怖い。
その為に、危ないことをしゃべろうとすると、声を奪われるのだ。
「どこか、痛いところはありますか。身体に違和感とか」
「……それは、大丈夫です」
差しさわりのない会話のせいか、声が戻った。
青年はわずかに首を傾げて、口を開いた。
「姫君、お名前をうかがっても? 私はあなたを、しかるべきところまで送り届ける必要があると考えています」
「名前は、エリス……」
以降、声が出なかった。やはり、素性に関して発言しようとすると、呪いが発動する。
喉をおさえたまま、深刻な顔をして俯いたエリスの態度をどう受け取ったのか。
「エリス様……。さて。ちょっと、該当の相手が思いつきません」
青年は無理に聞き出すことはせず、考えるように視線を空に向ける。
「すみません。わたし……わたしは……」
どうにか演技を見破られてはならぬと、エリスは言葉を探す。
気持ちを落ち着かせるために、アリエスのふてぶてしい顔を目裏に描く。
――エリスは、記憶喪失としての振る舞いは得意だろ? 一年前のことを思い出せばいい。
一年前。
アリエスのもとに弟子入りしたときのことだ。
エリスにはそれ以前の記憶がない。本当のところは、正確な年齢もわからない。
故国の深い森の中を、気が付いたらさまよっていたのだ。
身よりもなく、どこの誰かもわからないエリスを、偶然出会ったアリエスが引き取って弟子とした。
その時のことは、つとめて思い出さないで来た。
自分が何者かわからないという事実に、たまらなく不安になるから。
(でも、今は、使える)
「わたしは……どこから来たのでしょう。ここは……」
初めてアリエスに話しかけられた瞬間から始まる、記憶。
どこから来て、どこへ向かっていたのかも思い出せない。ただ、気が付いたら目の前にアリエスが立っていて、戸惑ったような声で言われたのだ。
「記憶がないのですか……?」
青年の言葉と、思い出の中のアリエスの声が重なる。
あの時は何と答えただろう?
「記憶……」
心配そうな顔をしている青年を見上げて、エリスはそれだけ言った。
(思い出せない……。わたしはあの時、お師匠様とどんな会話をしたんだろう)
たった一年前のことなのに。
眉根を寄せ、真剣に追いかけているのに、どうしてもたどり着けない。
エリスの様子を見ていた青年は、小さく吐息した。
「この浜辺に一人でいて、海に入って行くのを見たときは、何事かと思いましたが。どうやらあなたは何かお困りのようですね。記憶が混乱しているように見えます。そうだな……。難破船などがないか、その辺から調べてみましょう」
言葉を詰まらせるエリスを、これ以上追及するのは得策ではないと判断を下したようであった。
お困りのようですね、と労りの一言を添えて。
(優しい……)
「ありがとうございます」
エリスは、緑の瞳をしっかりと見つめて礼を言った。
その直後、身体がぶるりと震えて、止める間もなくくしゃみが二度、三度出た。
「冷えてしまいましたね。今何も持っていないので……、とりあえず人のいるところまでお連れします。あなたには着替えが必要だ」
青年は、そういうなり「失礼」と言ってエリスを片腕で抱き上げた。
「えっと……あのっ!?」
「裸足で歩かせるわけにはいきません。少しだけ我慢してください」
もう片腕には、エリスのブーツを持っている。
「す……、すごい力ですね」
人一人やすやすと抱え上げて、動じた様子もなく歩き出した青年に、エリスは正直な感想を告げる。片腕で支えられているとは思えない、抜群の安定感だ。青年は、悪戯っぽく笑った。
「力はあるんです。でも、落としたくないので暴れないでくださいね」
「その節はすみません」
先程の自分の暴挙を思い出して、エリスは俯いてしまう。あの時も、暴れるエリスを落とさなかったのだから、見上げた責任感だ。
「その節は、ということは……。私と会ってからの記憶は、失われていないということですね」
「え?」
耳に心地よい爽やかな声で言われて、エリスはつい顔を向ける。
まともに目が合ってしまった。
青年は、にこりと微笑んで言った。
「ジークハルトと申します。あなたが目にした最初の男として、どうぞお見知りおきください」
どこか冗談めかした挨拶に、エリスは中途半端な笑みを浮かべて小さく頷いてみせた。