泣かないで(前編)
「百九十七」
先が見えたところで、不意にジークハルトが声を出して数え上げる。
「百九十はち。ひゃくきゅうじゅーきゅうっ」
倒れていないのは、残すところ一人。
向き合って、振り下ろされた剣を首を逸らす程度の軽い動作で避けて。
「二百っ!」
すれ違い様に顎を殴りつけ、木剣で容赦なく身体を弾き飛ばした。
「『血と鋼』の魔法で戦闘力を強化された兵を、素の状態で二百人抜き……。一般兵とはいえ、仮にも国王の身辺警護に選ばれた精鋭だと思うのですけど……」
途中から一切の心配もなく見守っていたディアナが、呆れたように呟いた。
(強い)
少年のような見た目と素朴な性格に、見誤った。
これこそがジークハルトの本質だとすれば。
(強すぎる)
若くして国を背負って立つ王にとって、それは吉であるのか。それとも。
* * *
「さて。骨折や怪我は避けられなかっただろうが、死人はいないだろ。次行くぞ次。全員ぶん殴ってくる」
走り抜けたままの爽快感を弾けさせて、ジークハルトが笑顔で宣言する。
倒れた兵を踏まぬように足の運びに気を付けながら近づいた「時」の魔導士が、ごく静かに言った。
「本当に、二百数えていたのか?」
「実は、適当。非番で街に出ていたり、怪我が嫌で武器を置いて非戦闘員に混ざったのもいるはず。だから、終わりが見えてから適当に」
饒舌だった。
気分の高揚が見てとれた。それを、魔導士はじっと見ていた。その視線を気にしつつ、ジークハルトは押し切るように言った。
「このまま、向こうの戦闘に加わる。それで、全員殴って……全員助けて終わりにする」
押し寄せる兵を一人で薙ぎ払った全能感が、言葉の端々にまで満ちている。
この男は紛れもなく強い。それを認めつつ、魔導士は言わねばならなかった。
「助けられない」
ジークハルトは魔導士の方を見ようとはしなかった。
表門から続くゆるい坂道、そのはるか向こう側に広がる、夕陽に染まった海を見ていた。
「俺はこんなに強いのに?」
風が吹いて、ジークハルトの汗にまみれたシャツをその身にはりつかせた。
横顔を見つめていた魔導士は、正面に回り込んで、ジークハルトの瞳をまっすぐに見上げた。
「あなたは強い。強くて、かわいそうだ。強くなれとは言えない。これからのあなたの戦いは、いかに剣を握らずに生きるかということ。強さではもう救えない、大切なひとを」
かわいそうの響きには確かに哀切がにじみ出ていて、ジークハルトは息を止めた。
誰よりも好きになってしまった人と同じ顔をした魔導士が、目に涙を溜めてジークハルトを見上げていた。
ジークハルトは奥歯を噛み締めた。身体の奥底から湧き上がってくる感情を、目からこぼれそうな涙を抑え込もうとした。
(泣き顔を可愛いと思ったことはあったけれど)
今は、悲しい。
こんな涙を流させたくはなかったのに。
そしてまた、自分の涙も見られたくなかった。上を向いた。
「助けられないとしても、見届けなければ」
きっとまだ、振るいたくもない剣を振るっている戦士たちがいて、ぶつかりあっている魔導士たちがいる。
「見届ける意味はある。あなたは彼らの王だ」
魔導士もまた涙を隠すように俯き、絞り出した声で告げた。
海は。
光を吸い込み、きらきらと黄昏に煌いていた。
潮騒が聞こえた気がした。
* * *
白い稲光が迸り、「血と鋼」の細い身体を貫いた。
そう見えたが、身体の前で交差した腕で受け止めていた。「血と鋼」はにやりと笑った。
「私の魔法、物騒は物騒なんだけど、補助系だから、アリエスみたいに攻撃ど真ん中じゃないんだ。アリエスこそ、あのチビがいなかったら、とうの昔にどこかの国同士の争いに身を投じ、悪名を馳せていたはずだ。本当に惜しいよ。これほどの魔導士が、死んだら忘れ去られて、何も残らない」
雷鳴と白光を呼ぶアリエスの魔法を何度も凌ぎながら、口数を減らすことなく愚にもつかない雑談を繰り広げている。
うつくしい蜜色の髪、肩や腰や膝、至る所に焦げを作り、肉の焼ける匂いを漂わせながらも、止まらない。
「アリエスはずっとあのチビのこと好きだったよね。抱いたの?」
落ち着かない様子でふらふらと歩き回る『血と鋼』。目で追うアリエスは、沈黙のまま唇を引き結んで、答えない。
「いつだって手が届くところにいたんでしょ。我慢できたの?」
「それ、本当に今聞きたいことなのか」
「うん。百年も二百年も、二人きりでどんな生き方をしていたのかすごく知りたい。それは私には望むべくもなく、叶えられもしなかった時間だ。だからすごく知りたい。まさか愛を囁かず、抱き合いもせずに、ただ寄り添っていただなんて。子どもの一人くらいはいるんじゃないの?」
アリエスは「血と鋼」の目をじっと見た。笑顔。余裕すら感じられた。
「彼女の……、あの不規則な眠りに襲われる体質では、子どもは無理だ」
「無理なのは彼女のせいなの? アリエスはどうなの?」
「どういう意味だ」
「彼女が欲しい。ずっとそういう目で見ていたの、知ってるよ。どうやってその欲望を止めたの。いや、本当に止めたのかな。眠る彼女に何かしたこと、本当にないの?」
心の底から億劫そうな様子で、アリエスは告げた。
「ない」
「うそ」
即座に否定されて、完全に機嫌を悪くした。
「無いものは無い。あの人は起きているときが一番、世界で一番可愛いんだ。寝ているときに何かするなんてもったいなさ過ぎる。何かするなら、起きていて反応が見られるときじゃなきゃ嫌だ。俺が、嫌だ。彼女のすべてを手に入れたい。寝顔じゃないんだ、俺の性癖に訴えるのは!」
何の。
話をしているのだろうか。
命がけの戦闘の最中に、なぜ性癖を暴露する羽目になっているのか。
「私は起きてるときも寝ているときも関係なかった」
「エイリード、もういい。俺が悪かった。そういう、性癖の話は今はいい。生々しい」
「今じゃなきゃいつする気なんだ? お前か私、どちらかは確実に死ぬんだぞ」
「それはそうなんだが。なんだこの空気。おかしいのは俺なのか?」
調子を狂わされっぱなし。
殺し合いだというのにこの空気はあまりにも。
懐かしさや馴れ合いが溢れすぎていて、胸が詰まる。
「エイリード。この周辺に張った広域の魔法は引き揚げろ。今のその状態では、防御すらままならないだろう」
平然としているので見過ごしそうになるが、「血と鋼」は今、膨大な魔力を動員しているはずだった。直撃こそないものの、何度もアリエスに追い詰められている。
「実はもう、引き揚げている。ジークハルトは本当に阿呆だ。私の生み出した狂戦士は、全部あいつに倒された。化け物」
力ない笑みを浮かべて、「血と鋼」は仕えているはずの君主を罵倒した。
アリエスは耳を澄ます。表門の喧噪はすでに絶えていた。
「一人で何人抜きしたんだろう。あの武勇が必要とされない時代に生きることは、ジークハルトにとって本当に幸いなのかな」
『血と鋼』の真っ赤に染まった瞳が怪しく光り、アリエスは眉をひそめ口を開いた。
しかし、言葉を発する前に、草を踏みしめて現れた人物が答えて言った。
「待たせたな、『血と鋼』」
「ジークハルト殿下……と、『時』の」
ジークハルトの背後に続いた小柄な魔導士を見つけて、『血と鋼』が声を弾ませた。
「待ってたよ。『時』の。君が死ぬ前に会えて良かった。あの魔法、まだ使ってないよね?」
「あれのことなら、確かにまだ使ってはいないが」
特に気負った様子もなく『時』が答えると、『血と鋼』は実に簡単に、いささか軽薄な調子で言った。
「私にくれないか。あの魔法、どうしても欲しいんだ」
「あれは、今使えばわたしの命と引き換えになるが」
「そうだと思ってた。でも欲しいんだ。『時』の、私の為に死んでよ。どうせもう長くないんでしょ」
当の本人に面と向かって吐き出された言葉。
「時」の魔導士はどこかぼーっとした様子で立ち尽くして聞いていた。
その言葉が彼女の耳に入るのを止められなかったことは、一人、「閃光」の魔導士の逆鱗に触れた。
「下がっていろ。俺はあいつを殺さなければならない」
アリエスの身体から湯気のように白い光が立ち上る。
「わたしは殺せとは頼んでいない。もう少し話したい」
きわめて冷静に『時』が告げたが、アリエスはゆるく首を振る。
「駄目だ。俺は本当は、お前が他の男と話しているのを見るのが耐え難いんだ。メオラでは友達も作らせなかっただろう」
「あれはそういう理由だったのか?」
「それ以外何もない」
混乱に乗じたつもりか、ひどい告白をしてアリエスは「時」の前に広い背中をさらして立ちはだかり、「血と鋼」に向き直る。
「騎士団長にかけた魔法を解く気はないのか」
「あれはもう解けない。あいつが望むだけ私を分け与えたから」
「わかった」
最後の確認を終えて、アリエスは目を閉ざした。
口の中で声を出さずに呪を唱え、掌から迸る光の玉を生じさせる。
「友情はあるが温情はない。滅びろ」
莫大な白い光が辺りに満ちた。




