夢の中
「遊ぼう」
張りつめていたり、寝不足だったりするバルコニーの朝食の席で、ジークハルトが宣言した。
「いいですね」
すぐにエンデが答えた。
「泳ぎますか?」
ファリスが具体的な提案をした。
「何を言ってるの……? どれだけ兵士のお友達ノリなの……?」
一緒に卓を囲んでいたディアナが果敢に意見を試みたが、男たちはさして気にした様子もなかった。
「姫は海には入りましたか」
「入りません。濡れてしまうもの」
貴公子然とした甘い顔だちに、華やかな笑みを浮かべてファリスが尋ねると、ディアナは眉をきつく寄せて、厳しいまなざしを向けた。
「よろしければ、濡れないように抱いて差し上げても」
なんでもないことのようにエンデが言い、ディアナがくわっと目を見開いたところですかさず付け加える。
「ジークハルト様が。夫婦になるお二人なのだから、問題ないでしょう」
これには、ジークハルトとディアナが同時に抗議をした。
「名目上!!」
はからずも息がぴたりと合ってしまい、それぞれ思い切り嫌そうに顔を背けた。
「あの……、姫。浜辺にはこういった、貝殻が落ちていてですね……。すごく可愛いですよ……」
へらっと笑ったエリスは自分の服をごそごそとまさぐって、小箱を取り出すと卓上に置き、蓋を開いて中の貝殻を並べ始めた。
「貝殻って……あなたその箱、螺鈿じゃなくて!? 今、どこから取り出したの。そんなに気安く扱っていいものじゃないと思うのですけど……!!」
「あ、はい。気安いものじゃないみたいなので、肌身離さず持ってて」
ジークハルトがグラスの水を飲みかけたところで、盛大に噴き出した。そのまま激しく咳込んだ。
「うんうん、ジーク落ち着いて。良かったね、千回に一回くらいは報われるんだね」
背をさすってあげながら、ファリスがその耳に励ましとも呪いともとれる呟きを流し込んでいる。
「俺がすすめたんだけどな……肌身離さず持っておけって」
功労者のエンデが小声で主張したが、苦しそうな咳をして、涙目になっているジークハルトを見て哀れになったらしく、追い打ちは思いとどまったようだった。代わりに、隣の席でぼさっと一同を見ているアリエスの顔をのぞきこんだ。
「大丈夫? 枯れた顔してるけど」
「実年齢、何歳だと思ってるんだ。そろそろいい加減枯れる」
「あ、そうなの? そんなに綺麗なのにもったいない。せっかくだから、寂しい夜は俺に声をかけてよ。あっためてあげる」
「うるせぇよ」
心底嫌そうな表情で邪険にしてきたアリエスに対して、エンデは艶のある笑みを浮かべてふっと息をもらした。
「声をかけてって言っただけなのに、そんなに期待されると恐れ入る。燃える」
「黙れ」
「黙らないんだけど、海に入るとすれば軽装になるよな。大魔導士はエリス嬢の、どこまで見たことあるの?」
「その質問はさすがに……、子どもか?」
してやられた意趣返しのように、アリエスは余裕ぶった笑みを浮かべてみた。エンデもまた、目を細めて口元の笑みを深めて言った。
「手をつないだこともないって言い出しそうだったから。一応確認」
「そんなわけあるか」
「ふーん。じゃあ口づけは? その先は?」
まったく追撃の手を緩める気配のないエンデを、アリエスは一瞬だけ困った顔で見返した。その一瞬が何らかの決め手になった。
「あー、なるほど。了解。そっか」
「何がだ、何が」
エンデが実に気の毒そうな顔で瞑目した。気の毒そうなくせに、笑っていた。
* * *
「しかし、浜辺は足元が悪いですね」
「王宮から少し離れるから、場所としては悪くないんだがな。見晴らしも良いし」
「……なんの話をしているの?」
淡々と話し合うファリスとジークハルトに気付き、ディアナが声をかける。ファリスがちらりと視線をくれた。
「迎撃です。僕たちは兵士なので。宮殿の人間を巻き込みたくないけど、向こうがこちらの意図を汲んでくれるかは未知数なんですよね。僕らが戦場を決めて待ち構えていても、無防備になった本丸が落とされてしまうかもしれない」
「いつ来るかわからないものに対し、宮殿の人間を一角に集めておくのもな……」
ふざけていた他の面々も耳を澄ませて話を聞いていた。
その時、ふっとエリスが椅子の上で姿勢を正した。
ジークハルトに視線を向ける。その目つきがもう、違った。
「わたしが未来を視てみようか」
それはエリスであって、エリスではない存在の話し方であった。
「時」の魔導士。
声は同じなのに、響き方が違う。
ひるんだように息を飲み、何かを言おうとしたアリエスに、「時」の魔導士は視線を流す。
「平気だよ。今は、そんなに調子は悪くない」
そのまま視線をすべらせて、ディアナで止めた。
「わたしの魔法は、厳密には治癒魔法ではない。怪我をする直前か、完治した状態、どちらかに時の流れを向けるだけだ。傷跡が残らないよう、あなたの場合は貫かれる直前に戻した。具合は?」
「とても良好です。大変な魔法を行使していただき、身に余る光栄でございます……っ」
頭を下げたディアナに「普通だよ」と答えた。
「『時』の魔導士は、未来が……、視える?」
流れを伺っていたエンデが、低めた声で尋ねた。
声がしたから見た、といった気のない動作でその人はエンデを見る。
「すべては不確定だ。視えた未来は常に流動的で変わりつつある。昔は、未来が変わる要因や筋道までよく視えていたが……わたしの力もずいぶん衰えた。今は限定的だな。それでも、敵がいつどこに訪れるか程度はわかる。見る。有効に使うように」
そして目を瞑った。
「夕刻……だな。夕陽に染まった噴水が見える。戦場はそこ。うん……。各位、死ぬな」
宣告は非常に短く。
言い終えると力が抜けたかのように卓上に突っ伏してしまった。
はあ、とアリエスが重い溜息を洩らした。息を詰めて見ていたのに違いない。
「時間帯と場所、だいぶ絞れましたね」
ファリスが最初に口を開き、ことさら冷然として言った。
エンデは無言のまま席を立つと、素早くエリスを両腕で抱きかかえた。
「眠り姫を寝台に置いてくる」
さらりとエリスの髪が流れて、閉ざされた瞳と唇があらわになる。無言のまま視線を落としたエンデの顔には隠しきれない痛みが浮かんでいたが、すぐに一同に背を向けて歩き出した。
「彼女はいつも、ああやって少しずつ記憶を、つまり自分を取り戻していって、おそらく今回は取り戻しきる前に眠りにつく……。だいぶ弱っているようだ」
「俺が。彼女を弱らせた。『血と鋼』の魔法によって我を失っていたせいで」
呆然と見つめていただけのジークハルトに、アリエスはやや強い口調で言った。
「あなたの剣を折ることは、『時』の魔導士本人が決めたことだ。それによって、『血と鋼』との対立が決定的になり、自分が標的にされることも。記憶が安定しないくせに、とにかく自分を何か理由をつけてこの王宮に送れと俺にうるさく迫っていた。全部。エリスにはそのへんの記憶は無いとしても」
彼女はそういう人だから、と。
ひといきに言い切ったアリエスに対して、ファリスが「強がり」と口の中で呟く。
もはや空となったエリスの席を見つめたまま、ジークハルトは夢を見ているかのように言った。
「誰よりも先に、エリスに出会いたかった。俺が本当に、一番最初に見つけたかった」
形の良い唇にゆっくりと笑みを広げて、長の年月を生きて来た大魔導士は短く答えた。
「そこは譲れない。彼女の昔なじみは、俺だ」
* * *
エンデはエリスを寝台に横たえて、優しい手つきでサンダルを脱がせて床に揃えて置く。指先で髪を軽く梳いて乱れを整えてから、薄い寝具を胸の上までかけた。
いとけない寝顔。
寝息は安らかで、いつまで見ていても、見飽くことなどなさそうな。
「起きてる時が一番可愛いよ」
笑っている時も。泣いている時も。ぼんやりとしていたり、とぼけている時でさえ。
いつだって、起きている時の方が。
エンデは、やや長い時間、目覚める気配のない眠り姫を見つめていた。
やがて思い出したように自分の胸元から硝子の小瓶を取り出すと、蓋を開けてほんの一、二滴枕に落とす。
「匂いが一番夢に作用するらしいと……。夢の中までは追いかけていけないけど。思い出してみない? 俺のこと」
眠る夢の中まで追いかけて、連れ戻せるならどんなに。
気の遠くなる年月、まさにそれを望みながら生きてきたであろう男の存在を、知ってしまった。大魔導士アリエス。ただの人間の男であるエンデは、彼女との関わりにおいてその足元にも及ばないというのもわかってはいる。ほんの一瞬の邂逅。
それでも。
微かに身じろぎをした拍子に、エリスの顔が横を向く。空気の揺らめきに、ふわりと香りが立ちのぼった。
寝台の横に跪くも、結局眠り姫の唇を奪うことはできなくて、額と額を軽く合わせて目を瞑り、エンデは囁いた。
「まだ行くなよ。俺はまだ一度もあなたに好きだと言っていない」
『時』の魔導士の告げた内容をもとに、襲撃に備えて宮殿内の一角に非戦闘員を集め、戦闘員が守り、ジークハルトがそこにつくことになった。
剣を持たぬアリエスをファリスが護衛しつつ、中庭の見える位置に待機する。
噴水のそばでは、エンデがただ一人、その時を待った。




